こんにちは。フォトグラファに憧れるデザイナー・齋藤浩です。
商売柄、写真を生業とする人と仕事をすることが多いのですが、やはりプロの写真家の仕事はスゴイです。「この広告はこういうことを伝えたいので、こんな感じに撮ってほしい」と言うだけで、そういった写真が撮れてしまう。
そんなプロの写真家を尊敬し憧れるオレは、自分が絶対彼らのようになれないことを知っている。なぜなら俺様は小心者だからだ! 頼まれて撮ったはいいが、写ってなかったときのことを考えると恐い! 考えただけで胃が痛くなるのだ。
でも写真を撮ることは大好きなんだな。そんな訳で、私は無責任な写真しか撮らないことにしている。つまり、写真はあくまでも趣味だってことです。
さて、今回のテーマ『人はなぜ写真を撮るのか』。大それたサブタイトルをつけてみたものの、そんな深いテーマを小心者の私ごときが語れるはずはありませんでした。なので、「オレはなぜ写真を撮るのか」を、人生を振り返りつつ検証していきたいと思います。
商売柄、写真を生業とする人と仕事をすることが多いのですが、やはりプロの写真家の仕事はスゴイです。「この広告はこういうことを伝えたいので、こんな感じに撮ってほしい」と言うだけで、そういった写真が撮れてしまう。
そんなプロの写真家を尊敬し憧れるオレは、自分が絶対彼らのようになれないことを知っている。なぜなら俺様は小心者だからだ! 頼まれて撮ったはいいが、写ってなかったときのことを考えると恐い! 考えただけで胃が痛くなるのだ。
でも写真を撮ることは大好きなんだな。そんな訳で、私は無責任な写真しか撮らないことにしている。つまり、写真はあくまでも趣味だってことです。
さて、今回のテーマ『人はなぜ写真を撮るのか』。大それたサブタイトルをつけてみたものの、そんな深いテーマを小心者の私ごときが語れるはずはありませんでした。なので、「オレはなぜ写真を撮るのか」を、人生を振り返りつつ検証していきたいと思います。
1◆記憶を記録するための手段
思い起こせば初めてカメラに触れたのは5歳のとき。父に借りたカメラで、幼稚園の先生を撮ったことが最初の撮影体験でした。では、何故オレは写真を撮りたいと思ったのか。それは、「もうすぐ卒業してしまうと、大好きだった茂木先生に会えなくなってしまう! これは由々しき問題である。なので小学生になる前にせめて先生のことを写真に撮っておきたい。」
と(子供語で)思ったからである。父に事情を説明し、カメラを貸してくれるよう頼むと、意外なことにもあっさりとオリンパス・ペンSを貸してくれたのでした。身内ながら、父のこういったところはエラいと思う。
あらかじめ露出と距離を合わせてもらい、私はカメラ片手に幼稚園へと向かった。デジカメは当然として、『写ルンです』すら存在しなかった当時、幼稚園のガキごときがカメラなどという精密機械を持っていることは非日常事態だったので、周りの大人達はそれを最初おもちゃと思うのだ。で、本物と気づいてびっくりする。その反応を見るのが面白かったし誇らしくもあった。
そうした一連の大人達の反応から、「カメラとはとても大切な機械であり、十分に気をつけて扱わなければならない」ということを幼い私は学んだのだった。
いろんな先生の写真を撮った。初めてにしては良く撮れていたいたのだが、肝心な茂木先生だけ(撮影時とても恥ずかしがって逃げ回ったので)ブレがひどく、現像はされたもののプリントされてこなかった。私はそこで生まれて初めてネガというものをじっくり見たのだが、階調が反転された茂木先生は怪人みたいに見えた。そのおかげなのか妙に冷静に、写真とは魔法でもなんでもなく、化学なんだということを漠然とだが感じたのでした。
さて、このときの一連の行動は『記憶を記録したいがため』にとったといえる。そのための手段として写真を撮るという行為に至った訳だ。また、5歳のガキでもそういう願望はあるのだということを大人は知るべき(或は思い出すべき)だと思う。
2◆所有欲を満たすための代替手段
さて小学生になるとすぐ、世の中は空前のスーパーカーブームだ。書店にはランボルギーニやフェラーリの写真を掲載したグラフ誌が積まれ、駄菓子屋にはスーパーカー消しゴムやカードが所狭しと並んでいた。私は当時から流行りものには弱いたちで、あっという間に車の名前を覚えたかと思えば、ランボルギーニ・カウンタックの写真を見ながらため息をついていた。
そのとき何を思っていたかというと、「ああ、こんなふうにカウンタックの写真を撮れたらなあ」だったのだ。男には二種類ある。モテる奴とモテない奴だ。モテる奴はこういったとき「僕もいつかきっとカウンタックを運転するぞー」と思うのだ。まあいい。
で、いろいろあって晴海のスーパーカーショーに連れていってもらえることになった。初めて目の当たりにするフェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ。もう夢中で片っ端からシャッターを切りまくった。撮ったら次! と駆け足で進む私に母は「もっとじっくり見ればいいのに」。至極尤もな意見である。ところが、今思い返してもあの時はとにかく「早く撮って紙焼きを所有したい」という気持がものすごく強かった。どうやら、撮ったことでなにか満たされた気持になっていたようだ。
そして3年生になると、こんどはブルートレインブームが到来した。青いボディの九州行き寝台特急に憧れつつも、大好きな『あさかぜ』や『さくら』は地元沿線を通らなかったため、私はもっぱら東北線や高崎線の特急列車の写真を撮っていた。
静止しているスーパーカーを撮るのとは違い、走ってる列車を撮るのは難しかった。シャッター速度1/125だと当然ブレる。絞り11だと暗くなる。オリンパス・ペンSはフルマニュアルの目測式カメラなので、今までのように露出は固定という訳にはいかなくなってきた。試行錯誤を繰り返すうちに、どう撮ればどう写るかが分かってきた。そんなことをしながら、よりたくさんの特急列車を撮ることに専念しはじめたのだった。
さて、これらコドモ齋藤浩がとった一連の行動を考えてみましょう。スーパーカーはかっこいいけど子供には運転できない。まして買うことなんかできない。特急列車なんざなおさらのこと。ではどうするか? で、写真を撮ったのだと思われます。同じ理由から模型を作ったりイラストを描いたりもしました。これらの行動は全て、『所有欲を満たすための代替手段』だったと推察されます。
3◆絵葉書みたいな写真がイイ写真と思い込んでしまった危険な時期
そうこうしているうちに、もっと上手に写真を撮りたいと思うようになってくる。雑誌に載ってる電気機関車の写真を見ながら、「こんなふうに撮れたらなあ」なんて思い始める。で、それがどんな写真だったかというと、いわゆる“絵葉書写真”だったんだなー。列車の編成がきちんと説明され、側面と正面の比率が7対3の割合で見えているようなやつ。しかもトンネル抜けてすぐ鉄橋渡ってるような俗っぽい写真に憧れてしまった。で、居ても立ってもいられなくなり、有名撮影地へとカメラ片手に出向いていった。
で、撮った。撮れた写真は確かに雑誌に載ってるものと似ていた。同じ場所で撮ってるんだから似るのは当然だ。でも、その写真からは不思議と何の感動も得られなかった。なんか急激に無意味なことをしていたような気になり、熱が冷めていった。
小学5年生の頃だ。この頃は写真だけでなく、ありとあらゆるものが無意味に思えてきた。勉強をする意味がわからない。学校に行く意味がわからない。数年後自分が何をしているんだかわからない。不安に囲まれてとにかく毎日が恐くなってしまっていた。こんな気持で写真なんか撮れる訳ないし、目的もないのにシャッターなんて押せない。そして、しばらく写真にあまり執着しない日々が続いた。
4◆美意識との出会い
そんな私を救ってくれたのがYMOだった。初めて聴いたシングル『MASS』で鳥肌がたち、続いて聴いたアルバム『テクノデリック』で美意識を持つ生き方を教育されたというか。YMOを聴いてミュージシャンを目指した人は大勢いるが、私はその時デザイナーになろうと決意したのだ。
そう、YMOは音楽はもちろん、ステージやジャケットデザイン、チケットに至るまで美意識の塊だったのだ。ロシア構成主義、アールデコ、フォトモンタージュ。全てYMOが教えてくれた。そして、写真もグラフィックデザインに欠かせない一要素であると気づく。
その頃から、写真に対する考え方も変わってきたように思う。ボケててもブレてても、その時らしさとか、その人らしさみたいなものが見える写真は素敵だなあと思うようになってきた。そう思えるようになると、絵を描くことも字を書くことも全て楽しくなってきたのだ。
「なあんだ、全部つながってるんだ」漠然とだが、急激に作ることが面白くなっていった。この頃から写真も油絵もデザインも、あれもこれもまんべんなく制作する時期が続く。
いわゆる『自己表現』時期だったのか、『自己発見』時期だったのか。中学入学前後から高校を卒業するまでの、写真に対する気持はあまり覚えていません。絵を描くことも、写真を撮ることも、粘土をこねることも、プラモデルを作ることさえも、同列線上にあったように思えるのです。手を動かして作ることから、自分がこれからしなければいけないことの意味を探る時期というか、自分との対話の時期というか。
表現方法(アウトプット)はなんでもよかったのかもしれません。とにかくいろんなことを試してみたかったように思えます。あえて言うなら、『撮りたいから撮った、作りたいから作った』のだと思います。
5◆写真の授業 自己との対決! といえばかっこいいけどね
さて、なんだかんだあって高校卒業後一年浪人して私はムサビの短大に入った。ほんとは4年制大学の方に行きたかったけど合格しなかったから、仕方なく短大に行くことにしたのだ。まあ、このクヤシサが原動力となって今のオレがあるのだが。
それはいいとして、ムサビ1年、18歳のときに写真の授業というのを受けた。人生初の写真教育。現像もプリントも初体験だった。現像液に浸した印画紙から初めて像が浮かんできたときの感動は、いまでも鮮明に覚えている。
最初の課題は『ポートレイト』、次の課題のテーマは自由だった。自由=なんでもアリということで、オレは何を撮ったかというと鉄道だったのだ。幼少の頃、熱く盛り上がって急激に冷めたモチーフに対し、今の自分はどのように対峙できるのかが楽しみだった。で、運命の一枚がこれだ。
<
>
像が浮かんだ瞬間、勝った! と思った。ちなみにこれは博物館に保存されてる蒸気機関車のクランク部分です。
ガキのオレがSLを前にしたら、舞い上がっちゃってこんなトリミングなんて絶対できなかったろう。なんというか、この写真は過去の呪縛から解放してくれた記念すべきものでして、この写真から明らかに何かが変わった。
「わーいSLだSLだ、かっこいいな」という気持だからこそ撮れる写真もあれば、冷静な気持だからこそ撮れる写真もあるんだね。写真て奥が深いなあ。なんてことを思ったもんだ。
このあたりから、なんとなく写真というものの特性が見えてきた。例えば、普段誰もが素通りしている風景も、写真として切り取ることで客観的に見てもらえるようになる、ということがわかってくる。
そうすると、きみはそう撮るか。オレならこう撮る。といった具合にお互いの作品を見せあう“写真対決”を楽しめるようになってきた。またの名を美意識対決。渾身の一枚をヒトサマにお見せして「いいね」と言われれば芸術に、「なんじゃこりゃ」と言われれば自己満足となる。
「なるほどー、このモチーフをこう撮るとはね。参った!」と言わせたい。だから撮っていた。オレは褒められて伸びるタイプなので、相手をいかに驚かすかで日々精進していた。
やれナンバーワンよりオンリーワンとか言われる昨今ですが、勝ち負けって絶対あると思う。必要だと思う。ただ、クリエイティブに関しては、自分にしか表現できないものを提示できれば誰でも一番になれる。そんなこともこの時学んだ。
どうでもいいけど、最近の学生には「自分は褒められて伸びるタイプなのに全然褒めてくれない」と言って逆切れする奴がいるのでコワい。褒めてほしけりゃ褒められるモン作って来い、と思うオレは間違っているのだろうか。
さて、人生の半分まで検証したところで『なぜオレは写真を撮るのか』ですが、年齢を重ねれば重ねるほど、いろんな理由がフルヘッヘンドして(by杉田玄白)くるので、結局のところまだわかんないです、ということがわかった。でも、あてもなく撮るより、なにかしら目的をもって撮影した方がいい写真が撮れることが多いようだ。
あ、こんなところに板塀の美しい坂道が。となったときに、出来上がった写真を見せる相手の顔を想像しながらシャッターを切るか否かで、写真の出来が違ってくるのは本当に不思議だ。こういう化学っぽくないところも写真の魅力なんだと思う。
そんな魅力に惹かれて、人は写真を撮るのである。と、今週のところは言っておこう。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
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思い起こせば初めてカメラに触れたのは5歳のとき。父に借りたカメラで、幼稚園の先生を撮ったことが最初の撮影体験でした。では、何故オレは写真を撮りたいと思ったのか。それは、「もうすぐ卒業してしまうと、大好きだった茂木先生に会えなくなってしまう! これは由々しき問題である。なので小学生になる前にせめて先生のことを写真に撮っておきたい。」
と(子供語で)思ったからである。父に事情を説明し、カメラを貸してくれるよう頼むと、意外なことにもあっさりとオリンパス・ペンSを貸してくれたのでした。身内ながら、父のこういったところはエラいと思う。
あらかじめ露出と距離を合わせてもらい、私はカメラ片手に幼稚園へと向かった。デジカメは当然として、『写ルンです』すら存在しなかった当時、幼稚園のガキごときがカメラなどという精密機械を持っていることは非日常事態だったので、周りの大人達はそれを最初おもちゃと思うのだ。で、本物と気づいてびっくりする。その反応を見るのが面白かったし誇らしくもあった。
そうした一連の大人達の反応から、「カメラとはとても大切な機械であり、十分に気をつけて扱わなければならない」ということを幼い私は学んだのだった。
いろんな先生の写真を撮った。初めてにしては良く撮れていたいたのだが、肝心な茂木先生だけ(撮影時とても恥ずかしがって逃げ回ったので)ブレがひどく、現像はされたもののプリントされてこなかった。私はそこで生まれて初めてネガというものをじっくり見たのだが、階調が反転された茂木先生は怪人みたいに見えた。そのおかげなのか妙に冷静に、写真とは魔法でもなんでもなく、化学なんだということを漠然とだが感じたのでした。
さて、このときの一連の行動は『記憶を記録したいがため』にとったといえる。そのための手段として写真を撮るという行為に至った訳だ。また、5歳のガキでもそういう願望はあるのだということを大人は知るべき(或は思い出すべき)だと思う。
2◆所有欲を満たすための代替手段
さて小学生になるとすぐ、世の中は空前のスーパーカーブームだ。書店にはランボルギーニやフェラーリの写真を掲載したグラフ誌が積まれ、駄菓子屋にはスーパーカー消しゴムやカードが所狭しと並んでいた。私は当時から流行りものには弱いたちで、あっという間に車の名前を覚えたかと思えば、ランボルギーニ・カウンタックの写真を見ながらため息をついていた。
そのとき何を思っていたかというと、「ああ、こんなふうにカウンタックの写真を撮れたらなあ」だったのだ。男には二種類ある。モテる奴とモテない奴だ。モテる奴はこういったとき「僕もいつかきっとカウンタックを運転するぞー」と思うのだ。まあいい。
で、いろいろあって晴海のスーパーカーショーに連れていってもらえることになった。初めて目の当たりにするフェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ。もう夢中で片っ端からシャッターを切りまくった。撮ったら次! と駆け足で進む私に母は「もっとじっくり見ればいいのに」。至極尤もな意見である。ところが、今思い返してもあの時はとにかく「早く撮って紙焼きを所有したい」という気持がものすごく強かった。どうやら、撮ったことでなにか満たされた気持になっていたようだ。
そして3年生になると、こんどはブルートレインブームが到来した。青いボディの九州行き寝台特急に憧れつつも、大好きな『あさかぜ』や『さくら』は地元沿線を通らなかったため、私はもっぱら東北線や高崎線の特急列車の写真を撮っていた。
静止しているスーパーカーを撮るのとは違い、走ってる列車を撮るのは難しかった。シャッター速度1/125だと当然ブレる。絞り11だと暗くなる。オリンパス・ペンSはフルマニュアルの目測式カメラなので、今までのように露出は固定という訳にはいかなくなってきた。試行錯誤を繰り返すうちに、どう撮ればどう写るかが分かってきた。そんなことをしながら、よりたくさんの特急列車を撮ることに専念しはじめたのだった。
さて、これらコドモ齋藤浩がとった一連の行動を考えてみましょう。スーパーカーはかっこいいけど子供には運転できない。まして買うことなんかできない。特急列車なんざなおさらのこと。ではどうするか? で、写真を撮ったのだと思われます。同じ理由から模型を作ったりイラストを描いたりもしました。これらの行動は全て、『所有欲を満たすための代替手段』だったと推察されます。
3◆絵葉書みたいな写真がイイ写真と思い込んでしまった危険な時期
そうこうしているうちに、もっと上手に写真を撮りたいと思うようになってくる。雑誌に載ってる電気機関車の写真を見ながら、「こんなふうに撮れたらなあ」なんて思い始める。で、それがどんな写真だったかというと、いわゆる“絵葉書写真”だったんだなー。列車の編成がきちんと説明され、側面と正面の比率が7対3の割合で見えているようなやつ。しかもトンネル抜けてすぐ鉄橋渡ってるような俗っぽい写真に憧れてしまった。で、居ても立ってもいられなくなり、有名撮影地へとカメラ片手に出向いていった。
で、撮った。撮れた写真は確かに雑誌に載ってるものと似ていた。同じ場所で撮ってるんだから似るのは当然だ。でも、その写真からは不思議と何の感動も得られなかった。なんか急激に無意味なことをしていたような気になり、熱が冷めていった。
小学5年生の頃だ。この頃は写真だけでなく、ありとあらゆるものが無意味に思えてきた。勉強をする意味がわからない。学校に行く意味がわからない。数年後自分が何をしているんだかわからない。不安に囲まれてとにかく毎日が恐くなってしまっていた。こんな気持で写真なんか撮れる訳ないし、目的もないのにシャッターなんて押せない。そして、しばらく写真にあまり執着しない日々が続いた。
4◆美意識との出会い
そんな私を救ってくれたのがYMOだった。初めて聴いたシングル『MASS』で鳥肌がたち、続いて聴いたアルバム『テクノデリック』で美意識を持つ生き方を教育されたというか。YMOを聴いてミュージシャンを目指した人は大勢いるが、私はその時デザイナーになろうと決意したのだ。
そう、YMOは音楽はもちろん、ステージやジャケットデザイン、チケットに至るまで美意識の塊だったのだ。ロシア構成主義、アールデコ、フォトモンタージュ。全てYMOが教えてくれた。そして、写真もグラフィックデザインに欠かせない一要素であると気づく。
その頃から、写真に対する考え方も変わってきたように思う。ボケててもブレてても、その時らしさとか、その人らしさみたいなものが見える写真は素敵だなあと思うようになってきた。そう思えるようになると、絵を描くことも字を書くことも全て楽しくなってきたのだ。
「なあんだ、全部つながってるんだ」漠然とだが、急激に作ることが面白くなっていった。この頃から写真も油絵もデザインも、あれもこれもまんべんなく制作する時期が続く。
いわゆる『自己表現』時期だったのか、『自己発見』時期だったのか。中学入学前後から高校を卒業するまでの、写真に対する気持はあまり覚えていません。絵を描くことも、写真を撮ることも、粘土をこねることも、プラモデルを作ることさえも、同列線上にあったように思えるのです。手を動かして作ることから、自分がこれからしなければいけないことの意味を探る時期というか、自分との対話の時期というか。
表現方法(アウトプット)はなんでもよかったのかもしれません。とにかくいろんなことを試してみたかったように思えます。あえて言うなら、『撮りたいから撮った、作りたいから作った』のだと思います。
5◆写真の授業 自己との対決! といえばかっこいいけどね
さて、なんだかんだあって高校卒業後一年浪人して私はムサビの短大に入った。ほんとは4年制大学の方に行きたかったけど合格しなかったから、仕方なく短大に行くことにしたのだ。まあ、このクヤシサが原動力となって今のオレがあるのだが。
それはいいとして、ムサビ1年、18歳のときに写真の授業というのを受けた。人生初の写真教育。現像もプリントも初体験だった。現像液に浸した印画紙から初めて像が浮かんできたときの感動は、いまでも鮮明に覚えている。
最初の課題は『ポートレイト』、次の課題のテーマは自由だった。自由=なんでもアリということで、オレは何を撮ったかというと鉄道だったのだ。幼少の頃、熱く盛り上がって急激に冷めたモチーフに対し、今の自分はどのように対峙できるのかが楽しみだった。で、運命の一枚がこれだ。
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像が浮かんだ瞬間、勝った! と思った。ちなみにこれは博物館に保存されてる蒸気機関車のクランク部分です。
ガキのオレがSLを前にしたら、舞い上がっちゃってこんなトリミングなんて絶対できなかったろう。なんというか、この写真は過去の呪縛から解放してくれた記念すべきものでして、この写真から明らかに何かが変わった。
「わーいSLだSLだ、かっこいいな」という気持だからこそ撮れる写真もあれば、冷静な気持だからこそ撮れる写真もあるんだね。写真て奥が深いなあ。なんてことを思ったもんだ。
このあたりから、なんとなく写真というものの特性が見えてきた。例えば、普段誰もが素通りしている風景も、写真として切り取ることで客観的に見てもらえるようになる、ということがわかってくる。
そうすると、きみはそう撮るか。オレならこう撮る。といった具合にお互いの作品を見せあう“写真対決”を楽しめるようになってきた。またの名を美意識対決。渾身の一枚をヒトサマにお見せして「いいね」と言われれば芸術に、「なんじゃこりゃ」と言われれば自己満足となる。
「なるほどー、このモチーフをこう撮るとはね。参った!」と言わせたい。だから撮っていた。オレは褒められて伸びるタイプなので、相手をいかに驚かすかで日々精進していた。
やれナンバーワンよりオンリーワンとか言われる昨今ですが、勝ち負けって絶対あると思う。必要だと思う。ただ、クリエイティブに関しては、自分にしか表現できないものを提示できれば誰でも一番になれる。そんなこともこの時学んだ。
どうでもいいけど、最近の学生には「自分は褒められて伸びるタイプなのに全然褒めてくれない」と言って逆切れする奴がいるのでコワい。褒めてほしけりゃ褒められるモン作って来い、と思うオレは間違っているのだろうか。
さて、人生の半分まで検証したところで『なぜオレは写真を撮るのか』ですが、年齢を重ねれば重ねるほど、いろんな理由がフルヘッヘンドして(by杉田玄白)くるので、結局のところまだわかんないです、ということがわかった。でも、あてもなく撮るより、なにかしら目的をもって撮影した方がいい写真が撮れることが多いようだ。
あ、こんなところに板塀の美しい坂道が。となったときに、出来上がった写真を見せる相手の顔を想像しながらシャッターを切るか否かで、写真の出来が違ってくるのは本当に不思議だ。こういう化学っぽくないところも写真の魅力なんだと思う。
そんな魅力に惹かれて、人は写真を撮るのである。と、今週のところは言っておこう。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
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