わが逃走[36]水門鑑賞の巻
── 齋藤 浩 ──

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こんにちは。謹賀新年。
さて、年が明けて2009年になりました。
年明けにはテンションの上がる楽しいイベントなどをしたいなーと思いまして、「水にまつわる構造美を堪能する」をテーマに、都心の素敵な産業遺産を訪ねる遠足なるものをしてみました。今回はそのときのレポートです。



1●川崎河口水門

1月4日、10:30品川集合。京急川崎で大師線に乗り換え、港町にて駅下。周囲には、碍子だらけの変電施設や工場などがぎっしり。今回の参加者は、こういったものに美意識を感じるヒトタチの中から、テキトーに、無作為に選出している。

さっそく鉄塔と資材置場に参加メンバー全員が反応する。

まさにタモリ倶楽部を地でいく感じだ。ちなみに今回のメンバーは、写真左より、ゆーきちゃん(仮名)、はまちゃん(仮名)、A久津(仮名)、マスイ(仮名)、オレ&この写真を撮った、極親しい間柄の年上の女Aさん(年齢非公開)の6名。

渋い町工場な感じの通りを抜けて京急のガードをくぐる。右手には味の素の工場。うーん、構造美だなあ。

などと見とれていると、目の前にどどーんと今回の第一目標・川崎河口水門が現れる。昭和3年竣工、金森誠之設計。

プラント群と、ウィーン分離派(?)的な水門との対比がたまらん。

ちなみに、てっぺんに乗っかっている彫刻はカリフラワーでもなければ白子でもなく、籠に盛られた梨や葡萄に、ざくろだ。建設当時川崎の名物だったそうだ。上部側面の紋章は大正14年、市制が施行されてすぐに制定された川崎市の市章。川崎の川の字が、ぐるっと円を描いている。こういうシンプルなシンボルマークって好きだー。

どーでもいいけど、西武鉄道の旧シンボルマークはずっと野球のボールに見えていたんだけど、あれも西の字のアレンジなんだよねー。あのマークも好きだったんだ。そういえば小田急のマークは人の顔っぽかったけど、小の字がモチーフになってるとオトナになってから気づいたもんだ。西武にしろ小田急にしろ、歴史と伝統を自ら放棄しているヒトが多すぎる。どうしちゃったんだろう。その点マスプロアンテナはエラい。あのロゴタイプは三周遅れのトップというか、めちゃくちゃカッコいいぞ。

(スミマセン、話をもとに戻します)
この水門が完成したのが昭和3年。丸窓部分を見ていると、同時代の建築として根岸競馬場一等馬見所を思い出す。根岸競馬場跡といえば、ある特定の世代の人にとっては脳裏に焼き付いて離れない、あのYMOの映画「プロパガンダ」のロケ地である。

根岸競馬場がナショナリズム的で、ある種悪役っぽいかっこよさであるのに対し、この川崎河口水門はなんかいい人そうな感じだ。ものの本によればこの水門、浅野町まで続く“大運河計画”のエントランスとして作られたそうだが、水路の整備よりも軍需産業優先の世の中へと世相が変化していった。

そのため計画自体がポシャってしまい、運河は220メートルだけ造られて中断してしまったそうな。現在はその半分以上が埋め立てられ、なんとか水門から約80メートルが舟溜として残っている。幻に終わった運河計画が実現していたら、この辺は一体どんな景色になっていたんだろう??

開通していたら当然、運河完成記念ポスターなんてものも存在していたかもしれない。それってどんなデザインなのか? カッサンドルが作った感じのカッチョイイものになっていただろうか。とか考えていたら、勝手に作りたくなってきた。とりあえず水門をテーマにイラストでも描いてみようと思う。

2●六郷水門

さて、こんどは川の反対側、大田区の六郷水門に向かう。京急川崎まで戻って各駅停車で二つ目の雑色駅下車。水門通り商店街を15分ほど歩くと、あった!

この六郷水門は、商店街の名前にもなっていることからもわかるように、けっこう地元のシンボル的な存在になっているようだ。周囲は公園になっており、六郷水門を模したトイレまであった。

江戸時代からこの地に張り巡らされた「六郷用水」を管理するため、昭和6年に竣工。設計者は不明。酔っぱらった元建築系雑誌編集者S氏によれば、3人までは絞れているそうで、そのうちのひとりは外国人技師といううわさ(信頼度45%)。

土手に登ってみた。おお。噂どおりドイツ表現主義! つーか、未来派? 絶妙な曲面をもつコンクリートとレンガとの質感コントラストがたまらん。ゲート部分は今では青く塗られているが、竣工時は何色だったんだろう。そのあたりが気になるなあ。

これを見て、さらに思い出してしまうのがノーマン・ベル・ゲッデスらによる“流線型建築”。第1次大戦と第2次大戦の合間に大流行した、流線型機関車や自動車のフォルムが、果ては空気抵抗とはあまり関係のないなものたちにまで伝播していった現象があったのだ。

ああ、そんな時代のものたちの実物を一目見てみたかったなあ。などと常々思っていたのだが、この六郷水門を見れば幻視できる! ということで、またもや創作意欲がわいてきました。オリジナル流線型建築を作ってポスターにしてしまえ!

どうせ最近仕事が減って暇なので、こんなときこそ未来が明るかった時代へ夢を馳せ、その時代の人になりきって、面白いグラフィックを勝手に作ってしまいましょ。

折しも、今年はマリネッティが未来派宣言を発表してから100年ではないか!んじゃ、勝手に未来派100年ポスターでも作るかなー。わくわく。それにしても、建設当初の役割は終えたとはいえ、こんなスゲー水門が今でも現役というのがスゴイ。若い娘達は宮崎アニメに出てきそうだと喜んでいた。確かにラピュタのロボット兵や、コナンの飛行艇に通じるデザインだなあ。

という訳で、都心にもまだこんなに素敵な水門が、解体されず、移築もされず、元気に働いていたんですねー。これからも末永く大切に保存してほしいっす。

3●文化財とか

今回の遠足で改めて思ったことは、私はどうも「構造や目的が視覚的に明快なもの」に惚れる傾向がある、ということだ。で、文化財として保存されているものたちは、いまでも現役当時の役割を果たしている、もしくはその姿をイメージできる状態で保存されていることが望ましい、なんて思うのだった。

「保存しろって言われたから保存した」的なものを多く見かける(それでも保存してくれるだけありがたいのだが)。例えば、家族連れでにぎわうウォーターフロントのショッピングモールに、唐突に動かない荷揚げ用のクレーンがあっても違和感を感じるだけだし(それでも保存してくれるだけ本当にありがたいのだが)、おかしな色に塗られた蒸気機関車が冷暖房完備の最新型客車を引いていても、現役当時をイメージするのは難しい(それでも保存してくれるだけ本当に本当にありがたいのだが)。

文化財ってそのモノだけじゃなくて、その背景にある歴史や環境、つまり、それを見て、それが活躍していた時代から現在までの流れがイメージできるかってところが重要なのではないか。現在と過去を点と点としての関係ではなく、それらを結ぶ線を心に残すことにこそ意味があるんじゃないか、なんて思うのだ。言うのはたやすいが、実際こういったものを保存することは、我々が考えている以上にものすごくタイヘンなことなのはよくわかる。わかるんだけど!

4●教育とか

コンクリート、レンガ、そして鉄。建造物を構成している素材感。それらはなんて美しいんだろう! こう思う人ってけっこう多いらしいのだ。でも、その次の段階で、「それなら我家もレンガのおうちにしましょうよ」とか言って、せっかくの木造住宅をレンガ風インチキ樹脂プレートで覆ってしまったり、暖炉もないのに高価なダミー煙突を屋根にとりつけたりする人も多いんだよな。それって違うだろ! と思うのだが、実際そういうものが売れるから、商品が供給されるんだ。

「スリー・ポインテッド・スターが付いている自動車が人気らしい。じゃあ、わが社の車にもスリー・ポインテッド・スターを付けよう」とか、「シマウマが子供達に人気だ。なら、我が動物園の馬を縞模様に塗ってシマウマにすればお客も喜ぶ」とか、こういった現象を良心的に受けとめれば、マーケティングに基づいた戦略とも言えるだろう。

マーケティングってことは、お客あっての商売ってことでしょ。お客がそれを望んでいる以上、供給する側の考えも変わらないのだ。文化財をとりまく環境にしても全く同じで、見物客が理想論だけ言ったところで、保存には金がかかる。保存するためには財源が必要だ。その財源となるものに接する我々の意識と、文化財保護とは何ぞや、という教育こそ、キモなんじゃないか。なんて思ったのだった。

国語と算数は別の科目、という認識をほとんどの人が持っていると思うけど、実際社会で働いてみると、国語も算数も社会も理科も図工も音楽もすべて関係しているということに気づく。そんな訳で、まあ、とりあえず、経済と文化も分けて考えないで、同じものとして考えてみるところから始めるってんでどうでしょう。そんなことを思った2009年の正月でした。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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