お盆前のこと。その日の朝、米谷美久さんが亡くなったことを新聞で知った。米谷さんはハーフサイズカメラの名機、オリンパス・ペンをはじめ、XA、OMシリーズを開発した偉大な技術者であり、プロダクトデザイナーだ。
彼は訪ねて来るファンのために、先端がダイヤモンドでできているペンを常に持ち歩き、彼らの持参したカメラのボディにサインをしてくださるという。いつかきっと会えるにちがいない、そのときの為にオリンパス・ペンを差し出す素振りまで練習していたのに、残念である。
米谷さんはデザイナー以前に、純然たる設計者だった。設計あってこその表現を定着させる、言うなれば『形状は機能に追従する』デザインの本質を誠実に歩んだ方なのではないか。
設計者だからこそできた、真のデザインが、そこにはある。ほんの一週間程前に著書「オリンパス・ペンの挑戦」を読み終えたばかりだったせいか、訃報を知ったときは、身近なひとが亡くなったような気がしてショックだった。
そういった訳で、このところ憧れのひとが立て続けに死ぬので困る。先日、トリエンナーレトヤマのレセプションに出席した際、本当はそこにいるはずの福田繁雄さんの姿がなかった。
彼は訪ねて来るファンのために、先端がダイヤモンドでできているペンを常に持ち歩き、彼らの持参したカメラのボディにサインをしてくださるという。いつかきっと会えるにちがいない、そのときの為にオリンパス・ペンを差し出す素振りまで練習していたのに、残念である。
米谷さんはデザイナー以前に、純然たる設計者だった。設計あってこその表現を定着させる、言うなれば『形状は機能に追従する』デザインの本質を誠実に歩んだ方なのではないか。
設計者だからこそできた、真のデザインが、そこにはある。ほんの一週間程前に著書「オリンパス・ペンの挑戦」を読み終えたばかりだったせいか、訃報を知ったときは、身近なひとが亡くなったような気がしてショックだった。
そういった訳で、このところ憧れのひとが立て続けに死ぬので困る。先日、トリエンナーレトヤマのレセプションに出席した際、本当はそこにいるはずの福田繁雄さんの姿がなかった。
3年前の授賞式のときはたまたま入ったトイレで隣同士になった。思わぬ連れション状態である。私は慌てて尿を出し切り、
「福田先生、この度はどうもありがとうございました」
こちらを向いた福田さんも雫を切りつつ
「やあ君か。受賞おめでとう」
「あ、あの僕、先生のポスター、幼稚園の頃から大好きでした」
「そうかい。ありがとう」
並列状態でこんな会話があった。
そんなことを思い出しつつ3年後の今年も同じ厠で放尿していると、今年は隣に松永真さんがいた。
「松永さん、前回僕の隣で用を足していた福田先生は死にましたよ」
「こら齋藤、縁起でもないこと言うな」
「本気で心配しているのです。松永さんも死なないでくださいね」
そう言うと、その奥から高らかな笑い声が。佐藤晃一さんだった。
目標とする、高度成長を頭と手で支えてきたデザイナーがこれ以上減ってしまっては困る。私はまだペーペーなのに。背中を追いかけつつも、先生方がおっちんじまう前に沢山仕事を見ていただき、ご指導ご鞭撻の程お願いしとかなくちゃいかんなあ。
そんなことを思いつつ、自分の仕事について改めて考えてみた。デザインに関わる者の一人として、デザインの何たるかをもういちど整理してみなくてはならん、なんて思った。
そもそもデザインとは特定の誰かのためものではなく、みんなのもののはずだ。世の中のデザインが良いものになれば、当然みんなの生活も良いものになるはずなのだ。なぜなら、デザインとは飾り立てることではなく、まず目的があって、それを美しく簡潔に達成するための解決法のことなのだから。
それはグラフィックだろうがプロダクトだろうが、全てのものごとに対し言えることだと思う。にもかかわらず、世の中には酷いデザインが氾濫している。そして、ミテクレの美しいものに対してのみ『デザイナーズ・ナントカ』という名前をつけて本来匿名であるべきはずのデザイナーの名前を前面に押し出して他のものと差別化し、高く売る。これでは誰も幸せになれないよ。
思うに、企業とは良いものを作り、良いものとは何かを人々に教育する責任があるのだ。だが、今の企業は“お客様が望むもの”しか売ろうとしない。数値的にお客様が望むからとか言って花柄の魔法瓶をいつまでも売りつけるのは、いかがなものか。
ミテクレと言うべきところをデザインという言葉で置き換え、「デザインに凝ったから使いにくい」とかいう言い訳も、いかがなものか。先述したとおり、ものの形状は機能に従うべきであり、良いデザインのものとは本来、使いやすいものであるはずなのだ。
使いやすく、美しいものが広まれば、人々は良いデザインの意味を自覚するはずだし、そうすればおのずと良いデザインのものが求められるようになり、人々の生活もそのぶん向上するはずなんだがなあ。
グラフィックに関しても同様である。世の中には「簡潔に情報を伝達し、なおかつ美しいポスター」を作れるデザイナーが沢山いる。にもかかわらず、実際に街や駅には、独りよがりだったり意味不明だったりするような『情報が伝わらず、美しくない』ポスターが氾濫している。
これは、送り手側に、ものごとの本質が見えていないことを意味する。そのポスターの目的は何か。相手とは誰か。相手に対して何を伝えたいのか。あたり前のことをあたり前に認識するだけでいい。発注権を持ってるえらい人には、このへんの意識を高めていただきたいところである。
●「伝わらないポスター」コレクションから
こう言ってると、なんか私が怒ってるみたいに聞こえるから、ここはひとつ趣味で集めた『伝わらないポスター』コレクションの一部をお見せしつつ、えらいひとに自覚を促すとしよう。
まずこれ。何年か前の交通事故防止キャンペーン。

それに対して、これはどうだ。土俵の上でこれから勝負! というシーンと交通事故との関連性がわからないし、そもそもこんなときに交通事故防止のことなんか、力士は考えないだろう。江口洋介が二輪車事故防止キャンペーンというならわかるが。
次にこれ。火災報知器をつけましょうキャンペーン。

さらにこれ。

そしてこれ。暴力団追放 キャンペーン。

最後にこれ。世田谷通りにあった立て看板。

『お知らせ 世田谷通りは、中央線変移機器改修工事のため中央線変移休止します』
時速40キロで走っている車のドライバーが信号や標識、そして道路状況をみながらこの立て看板の意味を理解できるとは到底思えない。理解できないものを立てかけることに金をかけるのは無意味だと思うのだが、いかがか。
他にもたくさんあるのだが、今回はこのくらいで。偶然にもこうして見ると、いずれも官公庁が作ったものだったりする。この伝わらないポスターや看板が税金で作られているのだと思うと、なんとも複雑な気持である。
えらいひとには、美しくなくたっていいから、せめて伝わるものを作っていただきたいと思う次第。デザインの力は皆さんの想像以上に強く、効果も大きい。同じ予算の中で、きちんと機能するものを作ることは充分可能なのだ。とか何とか、つらつらと書きなぐっていたら眠くなってきたので寝ます。ではまた。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。