わが逃走[114]父の思い出 の巻
── 齋藤 浩 ──

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こんなタイトルだと父はもう死んでしまったかのように思えるが、ありがたいことにウチは両親共々いたって元気である。

父は某大手百貨店に定年まで勤め上げ、引退後は趣味の版画なんか制作しながら悠々自適の生活を送っている。実にうらやましいご身分である。

昔から父は主義主張が数分ごとに変わったり、ひとにものを尋ねておきながら答えてる最中にいなくなったり、ひとがテレビを見ているとチャンネルを回しただけでどっか行っちゃったり、「はひふへほ」が言えなかったり、三本締めができなかったり等々、変わった人だった。

しかし、いずれオレが大人になったらそんな父のこともわかるようになるだろうとも思っていたのだが、一向に理解できないままこのオレも40代半ばにさしかかろうとしている。

そんなオレもこのところ記憶力がおぼつかなくなってきたので、ここらで少しずつ父のことをまとめておこうと思ったのだった。

他人の父のことなんざどーでもいいとお思いでしょうが、そもそもこの『わが逃走』自体がどーでもいい話の積み重ねというコンセプトなので、何卒そこんとこよろしゅうに。




●父の睡眠

父は部屋の電灯(100W)及び枕元のスタンドライト(100W)をこうこうとつけながら、テレビとラジオを大音量で流していないと寝られない。周囲ががやがやしていないと落ち着かないらしい。

いつだったか父がぐっすりと寝ていたので、せめて見てないテレビくらい消してもよかろうと思いスイッチを切ったところ、その瞬間にパカッと目を開き、寝られないじゃないかと言ったのだった。

また父は寒がりでもある。冬はパジャマの上にシャツを着て靴下をはいてから電気敷布と電気毛布に挟まれ、さらに羽毛布団にくるまって寝るのだ。

ベッドの脇にはパネルヒーターを置き、顔のすぐ脇にスタンドライトがあるもんだから顔を真っ赤にして汗をかいている。しかし本人曰く、寒いのだそうだ。確かにサイタマの一軒家は都心の集合住宅よりは寒いと言えなくもない。しかし、しかしなのである。

高校受験を控えた冬のある晩、オレは部屋を暖めようと電気ストーブの電源を入れた。その途端ブレーカーが落ちて家中真っ暗になったのだ。

部屋をギンギンに明るくしながらラジオをとテレビをつけて電気敷布と電気毛布にくるまりつつパネルヒーターの熱を受けて汗だくで熟睡していた父は、その途端飛び起き、よけいな電気は使わないようにと言い残して部屋へと戻っていったのだった。

ブレーカーを復旧させつつ、どうにも理不尽と思わなくもないオレであったことを、まるで昨日のことのように思い出す。

●父の電話好き

父は電話が好きだ。こう聞いて長電話を楽しむ父親の姿を想像する人は健康的である。しかしオレの父は通話が大嫌いなのだ。電話が鳴っても絶対出ようとしなかったし、ひとが電話をしていても早く切るように急かす。

では何が好きかといえば、電話機本体が大好きなのである。もちろんケータイが普及するずっと前のことだから、この場合の電話機本体とは固定電話を指す。黒電話にノスタルジーを感じるとかそういう価値観でもないらしく、プラスチック製のごくごく一般的なごくごく普通の電話機を好んだ。

80年代後半がとくにマイブームだったらしく、なにかというと新しい電話機を買ってきてはひとりで納得していたのだ。

形状が好きなのであれば電話線に繋がなくてもいいように思うのだが、常に使える状態で眺めるのが好きらしく、頻繁に付け替えてはひとり悦に入っていた。

そしてある日ついに、よせばいいのに自分の部屋に電話を引くと言い出した。電話を引いたところで出ないしかけないんだから無駄であると、母とオレがいくら止めても聞く耳を持たない。結局、家族の反対を押し切ってベッドの脇に電話を設置したのだ。

父は早寝だ。夕食の後30分もしないうちに気がついたら寝ている。そのかわり異常な早起きで、4時〜5時には起きてくる。ひとりで勝手に起きるのなら文句は言わないが、仕事で疲れて帰ってきてようやく寝付いたオレの部屋に入って来て、朝だよと報告するのはやめてほしかったと今でも思っている。

さて電話の話の続きだが、電話線を電話機に繋げば当然かかってきた電話は鳴るわけで、異常な早寝の父は電話が鳴る度に起こされ、その都度激怒していた。しかし、夜の8時にかかってくる電話を非常識だと言う方が非常識だとオレは今でも思っている。

そういえば30年ほど前のある晩、父が父の実家に電話をするとすでに祖父は床に入っており、こんな時間に電話をかけるなんて非常識だとこっぴどく怒られたらしい。夜の7時半に寝ている方が非常識だとぼやいていたが、オレは血は争えないと思ったのだった。

●父の言語感覚

オレは父から名前を呼ばれたことがない。父は(本人曰く)江戸っ子なので「はひふへほ」が言えない。なので「ひろし」が「しろし」になる。しかし「しろし」も言いにくいので、物心ついた頃から「チロ」と呼ばれている。

それが日常すぎて全く気にしていたなかったオレであったが、40も半ばに近づこうとする今になってよくよく考えてみれば、犬みたいな呼ばれようだな。

まあそれはいいとして、父は一度認識してしまった言葉(とくに名詞)は間違っていてもそのまま訂正できずに、死ぬまで使い続ける傾向にある。

たとえば初めてスキャナーというものを目にしたとき、最初にそれを"キャスナー"と覚えてしまった。以後、何度となく訂正しても父は未だそれをキャスナーと呼ぶ。

アクセルペダルのことも何故か最初に"アクセサルペダル"と覚えてしまったため、ずっとアクセサルペダルのままである。そのくせ"アクセル"のことはちゃんとアクセルという。後ろにペダルがつくと"アクセサルペダル"になってしまうのだ。

さらにJリーグが発足した頃に覚えた言葉が"トックリハット"。もちろんハットトリックを誤って覚えてしまったのだ。

まあ言い間違えの構造はわからなくもない。昔NHKのアナウンサーがカンボジア難民のことを「ナンボジアかんみん」と言ってしまったことがあるが、それと同様、音の前後が入れ替わってしまったのであろう。

間違えてしまう気持ちはわかるが、しかしそう言い続けることには理解できない。数年後気づいたのだが、どうやら本当にわざとではなく、心からトックリハットだと思い込んでいるようなのだ。

しかしトックリにもハットにも意味があるので、聞かされる方は余計わけがわからなくなる。あまりに変なのでいつになく激しく訂正をしたところ、こんどはハットリトックと言いはじめた。

なにやら韓国料理のようであるが、トックリハットじゃないと思い詰めた結果なのであろう。「トックリハットじゃない」ではなく「ハットトリックである」と覚えた方がラクだろうに、父の脳の構造上、そのような記憶法はむずかしいらしい。

以後、父は"ハットリトック"と"トックリハット"とを適宜入れ替えながら発言しているが、決してハットトリックとは言わない、というか言えないのだった。

なお、誤って覚えてしまった言葉で最も長期間に渡って使われ続けているのが、『バイバス』だ。オレが物心ついたときからずっとバイパスはバイバスなのである。

国道17号バイバスとか保土ヶ谷バイバスとか、迂回路はすべてバイバスになる。そのくせその下に"手術"という言葉が来ると普通に「バイパス手術」と言う傾向にあるので、父の中でどのような基準があるのか理解に苦しむ。

中学生の頃だったか、母に「なぜ父さんは訂正しても頑にバイバスと言い続けるのだろう?」と尋ねたところ、「耳が悪いのよ」と一蹴された。

絶対そんなはずない、あれは耳というより脳の病気なんじゃないかと食い下がると、「もういいのよ。それにね、隣のおばさんはバイパスのことをパイパスって言うのよ。パイパスよりバイバスの方がましでしょ。がまんしなさい」と言い捨てると、そのまま掃除機をかけながら隣の部屋に行ってしまった。

論点のすり替えだとも思ったが、それよりも『パイパス』という言葉のインパクトが強すぎてそれ以上何も言えなかった。

高校生になったある日の午後、家の前で隣のおばさんに会ったのであいさつをしたところ「ひろちゃん、パイパスに出る道の脇にファミレスができたのよ」と言われ、うわ、ホントにパイパスって言ってるーと驚愕したあの日のことは今も鮮明に覚えている。

変なのはオレの父だけじゃないんだと安心していいのかどうなのか、なんとも不思議な感覚の夕暮れ時。空は美しい薄紫色だった。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。