生口島のヒトは、ちょっと不思議な物件で、根がシャイなのだろうか、傾げたポーズが妙にカワイイ。
自分専用の小さなステージに乗ってるところなんか見ると少々エラそうだな、と思わなくもないが、あえて中央に立たず隣のホース格納箱(おそらくは無口)に話しかけている様子からすると、わりと素直なやつかもしれない。好感が持てる。骨も太く、こう見えて意外と若いのかも。
対して向島のヒトは、以前バス停をなさっていて引退された方であることが想像できる。
初めて会ってからかれこれ10年くらいになるだろうか。この地を訪れる度、また会えるか気になってしまうのが、いつもこうして行き交う人々を見守ってくれているのだ。この秋も会えて嬉しい。
詠み人知らずの彫刻ということで、美術館に展示してもらえないだろうか、と思わなくもない。しかし、こういったものは居場所も含めてこその存在なのだろう。
我々のほとんどは病院で死ぬが、好きな場所で好きな景色を見ながら、その場所で朽ち風景の一部となる、そんな自由をこのヒトたちは貫いているようにも思えてくるのだった。
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ブロック塀というものを美しいとは思わないが、生まれたときから風景の中にあるのが当たり前なので、それなりに愛着もある。
たまに独創的な配列や、斬新な風抜き穴を見ることができ、無視できない存在だな、とも思っている。
なかでもこのヒトは唯一無二の存在であろう。数年前にも紹介したが、尾道の山手、急傾斜に沿って積み上げられた山頂部分の、この寡黙な稲妻とでもいうべき姿を見てほしい。
さて、ロックなヒトに対し、こちらはぐっとフォーマルである。尾道の海側で最近お目にかかった、謎の蝶ネクタイ物件。
このプレートが何の役に立っているのか、何かの痕跡なのかは不明だが、思わず振り向き、シャッターを切ってしまう。そんなパワーがあった。
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パワーといえば……
私は広告のデザイナーなのだが、四半世紀前の広告には、斬新な方法で人を振り向かせ、伝えるだけの力が残っていた。
今は広告よりも、ここで紹介したようなもの(≒かつて広告だったものや、広告があった場所)たちの方がパワフルに私を振り向かせ、それらが発する思想や意図(そんなものは存在しないはずなのだが)をあれこれ考えるよう迫ってくるのだ。
世の中が終わっているのか、オレの脳が終わっているのか。
まあ、必ずしも額縁が絵画の引き立て役とは限らないし、台座を彫刻の上にのせていけない道理はない。
なので、もう少し、こういったものたちを追っかけ、その魅力の謎を探ろうと思う。
あくまでも趣味として。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
http://tongpoographics.jp/
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。