crossroads[98]私とプログラミング(最終回)
── 若林健一 ──

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こんにちは、若林です。本題に入る前にお知らせがひとつあります。

本日、このメールが配信されている12月8日は私の53回目の誕生日です! はい、拍手! パチパチパチパチ

誕生日といえばプレゼント、私に誕生日プレゼントをあげようという(奇特な)方がいらっしゃっるでしょうか? もしいらっしゃったら、その気持ちを社会のために活動しているみなさんに、寄付として向けていただけると嬉しい。

寄付先はご自身で決めていただいて結構なのですが、私が支援している組織や活動をこちらにまとめていますので、よかったら参考にしてみてください。
https://bit.ly/BDonation


あらためて、誕生日おめでとうございます、私。





■本日はハードウェアと就職のお話です

今回は、私がプログラミングの世界に入るまでについての話の続き、ハードウェアの拡張と仕事としてソフトウェアに関わるまでについてお話します。
前回の記事はこちら。

私とプログラミング(複写)
https://bn.dgcr.com/archives/20201124110100.html


■アルバイトで拡張したグラフィック機能

最初は不満なく使っていたの愛機MZ-2000も、ある程度使いこなせるようになってくるとグラフィックとカラー表示が欲しくなってきました。

MZ-2000でグラフィックを使えるようにするためには、増設のグラフィックメモリボード(39,000円)の追加が必要で、カラーを表示させるためにはその上に増設グラフィックメモリ(8,000円)が2つ必要。

つまり、カラーグラフィックを表示させるためには55,000円の追加投資が必要だったのです。
高校生には厳しい金額ですが、どうしても欲しかったのでこれだけのために夏休みのアルバイトをしました。後にも先にもアルバイトの経験はこの時だけです。

もうひとつカラーモニターが必要でしが、もうそこまでは手が出せなかったので、RFコンバータを使うことにしました。

RFコンバータとは、アンテナ線を経由してチャンネルの1か2でコンピュータの画面をテレビに表示できもの。コンピュータの映像を放送電波に変換する機器です。

デジタルテレビ世代の方にはまったくイメージできないであろう代物ですが、任天堂の初代ファミコンがアンテナ線に接続されていたのをご存知の方であればわかっていただけると思います。
専用モニターではないので画面の荒さはありましたが、それでも嬉しかったものです。

その他にも、漢字を表示できるようにする『漢字ROM』16bitにパワーアップする『16bit拡張ボード』などもありましたが、自分には活用できそうになかったので見送りました。

拡張性が高いといえば良いように聞こえますが、言い換えると標準機能を削っただけなのでトータルではかなり費用がかってしまいましたね。
その後発売されたMZ-1500やMZ-2200をうらやましく思ったものでした。新しいものが欲しい、これは昔も今も変わらないものです。

■就職

そんなマイコン生活を送っていた私は工業高校に通っており、高校3年の就職活動でシャープに技術職で応募、無事採用していただけることになりました。

当時は事業所ごとの採用があったので、私は迷うことなくMZを開発している奈良の大和郡山市にある事業所へ応募。これが奈良で生活する第一歩となりました。

配属はMZの事業を担当しているコンピュータ事業部(当時)を希望していましたがかなわず、コンピュータ事業部に配属された同期がうらやましかったものです。MZに関われるというのもありましたが、なんとなくコンピュータ事業部が一番花形に見えたからです。

私はというと、レジスタを開発している事業部への配属となり、その中のソフトウェア開発グループに入ることになりました。あれだけBASICでたくさんプログラミングしていたにもかかわらず、当時の私はプログラムを作ることを専門にする仕事があるとは思ってもいませんでした。

メーカーというのは機械(ハードウェア)を作るのが仕事で、会社に入ったら毎日はんだごてを使うだろう、プログラムというのはそういった仕事に従属するもの、ぐらいにしか思っていなかったのです。

しかし、この時の配属が今の私につながります。MZ-2000でプログラムを作っていた経験は、すべて仕事でも役に立ちました。配属直後なにもわからない私でしたがタイピングだけは即戦力で役に立ちました。

当時の開発はアセンブラ言語で、設計者はA3サイズの方眼紙にフローチャートを書き、それをアセンブラで入力していくという流れでした。

まだパンチ(プログラムを入力する業務、コーディングとも少し違います)という仕事があった時代なので、高校をでたばかりの私でも役にたったのです。

最初の5年間は下働きのような仕事ばかりしていたのですが、22を過ぎたころから「自分も設計をやりたい」とアピールを繰り返し、そこではじめてマイナーチェンジの設計を担当することになりました。

その後も、ネットワークの敷設、サーバーの構築など新しいことをどんどんやらせてもらいましたが、すべてのことが今の自分につながっており、感謝の気持ちでいっぱいです。人間、大学を出ていなくてもなんとかなるもの、ましてや今の時代ならなおさらです。

■最後に

5回に渡って私がプログラミングを始めて仕事として関わるまでを書いてきましたが、今回で終了となります。年寄りの昔話におつきあいいただき、ありがとうございました。

あの時、祖母にマイコンを買ってもらってなければ、シャープに就職することはなかったでしょう。
あの時、それがゲームをやりたいという理由だったとしてもプログラミングをやっていなければ、ソフトウェアの世界で生きていくことはなかったでしょう。

人生なんて何がどう影響するかわからない、だから色んな可能性を知り、色んな選択肢を持つことは重要です。私は、多くの可能性と選択肢を与えてもらったので、これからは子どもたちや若い人にそれを提供する番だと思って、日々の活動を続けています。


【若林健一 / kwaka1208】
https://crssrds.jp/aboutus/


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