こんにちは、若林です。
3月も終盤を迎え、桜の季節になってきました。私の自宅の周りでも桜が咲き始め、今週末ぐらいにはあちこちで満開を迎えそうです。
まだまだ大勢で集まることは避けた方が良いので、ひとりでひっそりと桜を楽しみたいと思います。
■ヒステリックな日々に疲れました
桜もほころぶおだやかな春を迎えているというのに、世の中は批判に満ち溢れギスギスした毎日を感じています。
やれ失言だ、やれ差別だ侮辱だ、情報が海外のサーバーに流れてて怖い、などなど。
テレビをつければ(最近はほぼテレビを観てませんが)キャスターは自分たちが正義だと言わんばかりに問題点をあげつらっている。
ネットにアクセスすれば、たくさんの正義の味方が、われ先にと批判の言葉を並べていく。
「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ」
ひとつひとつのことに、それぞれ問題や考えなければならないことはあると思いますが、あまりにも煽動されすぎている印象があるのは私だけでしょうか?
ただでさえ新型コロナウイルスの影響で閉塞感につつまれているのに、こう世の中がヒステリックだと息苦しくなりませんか?
あるいは、新型コロナウイルスで閉塞的な毎日だから、みんなヒステリックになっているのでしょうか?
私は、こんな状況に辟易(へきえき)としています。
■WhatよりもWhyに目を向けよう
このヒステリックな状況を生みだしている原因の多くは、「マスコミによる情報の伝え方」にあると私は考えています。
しかし、私たちがこれを変えることはできません。私たちにできることは「受け取った情報をどのように処理するか」しかありません。
何かしらの情報を受け取った時に重要なのは、WhatではなくWhyに目を向けることです。
メディアが報じる「誰が何をした」をそのまま受け取るのではなく、なぜそういうことをしたのか、なぜそうなったのかを考えてみます。
「なぜ」がイメージできたら、「なぜ」を背景にして自分ならどうしただろうか? を考えてみると、ものごとの本質が見えてくることが多々あります。
「〇〇氏が失言!」→ けしからーーん!
ではなく
「〇〇氏が失言!」→ なぜそんな発言をしたのだろう? どういう背景がその人にその発言をさせたのだろう?
を考え、「なぜ」が見えてきたら
その状況において、自分ならどうしただろうか?
を考えてみると、見え方が変わってくることもあります。
とはいえ、これも難しいですよね。一度、悪者に見えてしまうと、なぜの部分も悪く考えているようにしか思えない。そうなると、得られる結論はそんなに変わらないかもしれない。
■人は基本的に善で動いている
そこでもうひとつ考えていただきたいのは、人は誰も悪意だけで生きているわけではない、ということです。
人はそれぞれ自分なりの「善」を持っています。それに基づいて生き、行動している。
ところがそれらの「善」は人によって評価軸が異なるため、ある人にとっての善は、別の人から見て「悪」に見えるだけ。
自分には理解できないけど、その人にはその人なりの「善」があり、それに基づいて行動しているはず。
その人にとっての「善」の源泉はなにか、なぜそれを善とするのか? そうやって考えていけば、世の中の見方はもっと変わるはずです。
ただでさえ閉塞的な世の中、ちょっと視点を変えていきたいものです。
【若林健一 / kwaka1208】
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