映画と夜と音楽と…[366]大谷崎が愛した映画
── 十河 進 ──

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●谷崎潤一郎の小説も映画化作品も苦手だった

鍵谷崎潤一郎が苦手だった。おそらく、小学生の頃に見た大映映画の看板のせいに違いない。「鍵」(1959年)「痴人の愛」(1960年)「瘋癲老人日記」(19 62年)と続いた文芸作品じみた映画は、十歳にならない小学生には胡散臭く見えた。悪ガキたちにとっては「ものすごイヤラシげな」(大変いやらしそうな)映画だったのだ。

白日夢(64年)トドメは武智鉄二監督の「白日夢」(1964年)と増村保造監督の「卍」(1964年)だった。どちらも僕が中学一年の時に公開された話題作であり、街中に看板が立っていたのを憶えている。「白日夢」は映倫審査の段階でカットが要求されたのではなかっただろうか。「芸術かワイセツか」で週刊誌などが騒いでいた。

谷崎潤一郎が没したのは1965年。「鍵」は1956年に発表され、「瘋癲老人日記」は1961年に発表になっている。晩年、谷崎は「老人の性」をテーマに小説を書いた。それらの小説は文芸作品でありながらスキャンダラスな内容で話題になり、すぐに映画化されたのである。僕は十歳前後ながら、その頃の谷崎ブームのようなものを記憶している。


卍(まんじ)「卍」は、テレビの映画紹介番組で少し流れたフィルムを見て、やはり「イヤラシげーな」感じがしてイヤだった。その頃の僕が性的なものに対してオクテだったのは認めるが、とりわけ潔癖だった自覚はない。それでも、その映画のワンシーンは目を背けたくなった。

当時の僕は「同性愛」という言葉も「レズビアン」という呼称も知らなかったのだが、「卍」という映画のワンシーンでは若尾文子と岸田今日子が素肌で抱き合っていた。「一体これは何をしておるのだ」と高松市立桜町中学校に希望に充ちて入学したばかりの十二歳の少年は、正体不明の不安感(あるいは期待感?)に襲われたのだった。

谷崎作品で何度も映画化されているのは「刺青」「春琴抄」「痴人の愛」「細雪」「鍵」といったところだろうか。僕はどの小説も読んでいなかった。高校生の頃に「痴人の愛」に挑戦したことはあったが、やはり途中で投げ出した。映画化された「痴人の愛」は1949年版が京マチ子と宇野重吉、1960年版が叶順子と船越英二、1967年版が安田道代と小沢昭一、1980年版が水原ゆう紀である。

痴人の愛「痴人の愛」映画版は安田道代(後に大楠道代)のナオミしか見ていない。ナオミを背中にまたがらせて馬になった主人公が部屋の中をまわる場面が話題で、映画の看板もそのシーンを使っていた。小沢昭一が情けない主人公で、僕は見ていて嫌気がさしてきた。

文芸作品という免罪符があるせいか、また映像化したときに性的シーンをふんだんに出せるせいか「鍵」も何度も映画化されている。最初に映画化したのは、先日亡くなった市川崑監督だ。原作が出た三年後(1959年)だった。京マチ子、叶順子、仲代達矢、中村雁治郎という豪華な文芸路線の配役である。

鍵 THE KEYしかし、徐々に性描写の規制が緩やかになり、1974年には日活ロマンポルノ作品として荒砂みき主演で神代辰巳監督が映画化した。1983年には過激な作品を作る若松プロが松尾嘉代の熟女ヌードを話題にして映画化した。さらに、川島なお美のヌードを売り物にした版(1997年)は、池田敏春が監督した。池田監督には「天使のはらわた 赤い陰画」(1981年)という名作がある。

●市川崑監督「細雪」で谷崎の凄さに目覚める

春琴抄今にして思えば、僕は谷崎潤一郎の小説を「読まず嫌い」だったのだ。だから、人気絶頂の頃の山口百恵と三浦友和の次回作が「春琴抄」(1976年)だと知ったとき、何となく裏切られた気分になったものだったし、同じ頃、友人のTが「『細雪』が面白い。最高の日本語だあ」と騒いでいたのも無視をした。

細雪しかし、世評の高さとTの言葉の記憶が、僕に「細雪」をずっと気にさせていたのは確かだ。それに、市川崑監督の「細雪」(1983年)の見事さが気に入った僕は、いつかは読まねば…と思っていた。そう思いながら数十年が経ち、昨年、ようやく僕は「細雪」を紐解いた。その結果…、あの有名な導入部分──「こいさん、たのむわ」──から僕は本を手放せなくなった。

細雪 (中公文庫)戦争中、連載を始めたときに軍部から睨まれ、どこにも発表できないまま谷崎が書きついだという「細雪」は戦後に完成し、絶賛を浴びた。船場の裕福な商家に生まれた四人姉妹の話である。時代は、太平洋戦争が始まる数年前。日中戦争が続いていた頃だ。物語は、次女の幸子が中心になって進行する。

芦屋の幸子の家に三女の雪子と四女の妙子が同居している。本来、三女と四女は長女の鶴子が婿をとって継いでいる船場の本家にいなければならないのだが、居心地のよい幸子の家に寄宿しているのだ。幸子の悩みは、なかなか縁談がまとまらない雪子のことと、奔放な生き方をする妙子の行状である。

おとなしい雪子は持ち込まれる縁談がまとまらないことだけが心配だが、船場のぼんぼんと駆け落ち騒ぎを起こしたり、洋服作りで職業婦人として自立すると言い出したり、幸子たちからすれば身分違いの写真技師やバーテンと恋愛関係になったりする妙子は、ある意味では姉妹たちの厄介者である。

妙子の駆け落ち騒ぎが新聞沙汰になり、そのことで雪子の縁談にさしさわりが出ないかと幸子は心配し、幸子の夫である貞之助は新聞社の抗議に出かけたりする。ちょっと気の毒なのは長女の鶴子だ。彼女は子沢山で子育てに精一杯だし婿の辰雄に遠慮して姉妹には冷たいので、どちらかと言えば下の三人の妹たちからは煙たがられている。

特にドラマチックな盛り上がりがあるというわけではなく、様々なエピソードが積み重ねられながら悠揚迫らぬペースで物語が進められていく。秋には一族揃って紅葉狩りにいき、春には賑やかに花見にいく。もちろん場所は嵐山であり、吉野である。凄いなあ、優雅だなあ、と僕は本を読みながら感嘆した。映画版「細雪」の美しい花見の映像が甦った。

僕は、先に市川崑監督の「細雪」を見ていたことをよかったと思う。映画を見ていなければ、本を投げ出したかもしれない。映画版は、もちろん映画的脚色があり細かな物語は刈り取られたが、印象的な映像が散りばめられていた。そのことによって僕には原作が、より深く理解できたのだ。

市川崑監督版「細雪」で、四姉妹を演じたのは上から岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川裕子である。長女の夫が伊丹十三、次女の夫が石坂浩二だった。伊丹十三は銀行勤めの堅物で本家を預かっている気負いをよく出していたし、石坂浩二の貞之助は妻の妹たちに気を遣って暮らしている感じを好演していた。

●大正時代に活動写真に深く関わった谷崎

日本映画発達史 1 (1) (中公文庫 H 5)谷崎潤一郎は映画が好きだったのだろう、「細雪」の中でも、姉妹たちによく活動写真を見にいかせている。そう言えば、昔、谷崎潤一郎が映画会社に関係していたことを何かで読んだなあ、と思い出し、手持ちの映画関係の本をめくってみた。その記述は、田中純一郎さんの労作「日本映画発達史全五巻」の最初の巻にあった。

谷崎潤一郎は東京生まれの東京育ちだったが、大正十二年九月一日の関東大震災を経験し、地震がないという関西に居を移した人である。だから、まだ関西に引っ越す前のことだ。大正九年(1920年)に大正活動写真株式会社(大活)が創設され、谷崎潤一郎は文芸顧問として招聘される。

大活の第一回作品は「アマチュア倶楽部」(1920年11月19日公開)で、谷崎潤一郎の原作脚本である。田中純一郎さんによると「彼はこの映画で日本最初のクロスカッティング(二つ以上の事件を併行して進める編集法)の方法を用いた」という。新進気鋭の作家だった谷崎潤一郎の活動写真に対する並々ならぬ気負いがうかがえる気がする。

さらに「雛祭の夜」(1921年)の撮影では谷崎邸を使用し、谷崎潤一郎自らが小道具の操作を手伝った。その頃のことは、谷崎自身も書き残している。また、同じ年に公開した大活作品「蛇淫の性」は上田秋成の「雨月物語」から谷崎潤一郎が脚色したものだった。しかし、大活の映画制作は行き詰まり、松竹と提携することになる。

谷崎と映画については別の文章も読んだことがあるなと考えて、それが鈴木尚之さんの「私説 内田吐夢伝」だったと思い出した。僕が記憶していた「谷崎と映画の深い関係」は、この本からのものだったのだ。それによると、内田吐夢が映画監督なれたのは谷崎潤一郎のおかげであり、内田吐夢は谷崎潤一郎を生涯の師と仰いだという。

なるほど、そうすると谷崎潤一郎がいなければ、僕らは「宮本武蔵五部作」も「飢餓海峡」も見ることはできなかったのだ。また、谷崎は内田吐夢を始めとした若手スタッフを可愛がり、谷崎邸でよくご馳走をしたという。面倒見のよい人だったのだろう。

しかし、それほど映画の世界に近いところにいた人なら、その後の自作の映画化には強い関心があったのではないか。また、谷崎自身を演じた俳優をどう見ていたのだろう。たとえば「台所太平記」は、谷崎家に勤めた女中たちのエピソードを私小説的に綴ったもので、その映画化(1963年)は豊田四郎監督によって行われ、語り手の文豪は森繁久弥が演じた。谷崎は森繁の演技を楽しんだのだろうか。そんな興味も湧いてくる。

鬼の棲む館ところで、市川崑監督版「細雪」を別にして、谷崎潤一郎原作の映画化作品があまり得意でない僕のお気に入りの作品が「鬼の棲む舘」(1969年)だ。監督は三隅研次。上人(佐藤慶)が山奥の館に迷い込むと、盗賊の無明の太郎(勝新太郎)と愛染(新珠三千代)という妖艶な女が棲んでいる、という話である。

原作は、谷崎潤一郎の「無明と愛染」という戯曲とのこと。高名な上人を女体の罠に陥れ、「堕ちたぞ!!」と館の扉を開け放って高らかに叫ぶ愛染の姿が、四十年近く経っても僕の記憶に刻まれている。単純に考えれば、どんな男も肉欲の前に無力だという谷崎お得意のメッセージなのかもしれないが、十七歳の僕には人生の奥深さを感じさせる映画だった。

寓話的な設定であったこと、また凛とした白刃のような鋭さを感じさせる三隅研次の演出であり、品性と節度のある描写であったため、人が生きるうえで性的なるものとは何か、というテーマがより鮮明に浮かび上がり、僕に感銘を与えたのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
浅草フランス座(現・東洋館)で「トリオ・ザ・パンチ2008」のコントを見てきました。高倉健が「六区の風に〜」と歌った浅草六区にある小屋です。病みあがりの内藤陳さんは「あふれる教養、足りない栄養」と自らの痩身をネタにして完全復活。僕は、笑い通しでした。

305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-20 02」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
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star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
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by G-Tools , 2008/03/07