日々の泡[49]カトリック作家という存在【遠藤周作/おバカさん】
── 十河 進 ──

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遠藤周作は「狐狸庵」という号を持ち、「狐狸庵先生」の名前で親しまれていた。

「違いがわかる男」というネスカフェのテレビ・コマーシャルにも出たことがある。同じ頃、「どくとるマンボウ」の名前で、軽妙なエッセイを書いていた北杜夫も同じように本が売れていた。

ふたりとも純文学路線(遠藤は「沈黙」や「深い河」など、北杜夫は「楡家の人びと」など)と。エンターテインメント路線を明確に分けて出版していた。

遠藤周作は「どっこいショ」「おバカさん」などがエンタメ路線の小説だったし、半世紀前には北杜夫の「怪盗ジバコ」がベストセラーになっていた。

僕が遠藤周作の「おバカさん」を読んだのは、中学生の頃だと思う。一回限りのテレビドラマとして放映され、それが強く印象に残ったからだ。





主人公の底抜けの人の善さは、いったい何なのだと僕は思った。あんな人間がいるのだろうか。そんな疑問が僕に原作を手に取らせた。

当時の僕は、遠藤周作が日本を代表するカトリック作家であることは知らなかった。知らないまま「おバカさん」を読んだけれど、僕は「この主人公はキリストなのだ」と気付いた。

どんな人も、どんな罪も許す、底抜けのお人好しのおバカさん、としか思えない主人公はキリストが現代の日本に降臨した姿なのだと、僕は理解した。

その後、遠藤周作のエンタメ系作品の表紙が、柳原良平さんのイラスト(アンクル・トリスですね)だったこともあって親しみやすく、続けて「どっこいショ」を読んだ。「どっこいショ」は戦中派の中年男の冴えない人生を描いていたが、十代半ばの僕はなぜかはまってしまった。

高校生になったとき、「どっこいショ」は小林正樹監督によって「日本の青春」(1968年)のタイトルで映画化された。主人公のくたびれた中年男は、初めてシリアスな演技に挑戦したコメディアンの藤田まことだった。

かつての恋人は新珠三千代が演じ、息子を黒沢年男が演じた。黒沢年男の恋人であり、主人公の仇敵の娘を酒井和歌子が演じている。

この当時、松竹出身の小林正樹監督は東宝で作品を撮ることが続いており、「上意討ち・拝領妻始末」(1967年)「日本の青春」「いのち・ぼうにふろう」(1971年)を撮っている。ちなみに「上意討ち・拝領妻始末」は、小林監督の代表作「切腹」(1962年)と同じ、滝口康彦の原作である。

このうち、「日本の青春」「いのち・ぼうにふろう」には、人気絶頂期の酒井和歌子が出ている。「人間の條件」の主人公の妻役に新珠三千代とこだわった小林監督は、女優の好みはハッキリしていたようなので酒井和歌子は気に入ったのかもしれない。

さて、映画化された「どっこいショ」も気に入った僕は、遠藤周作のエンタメ系作品と純文学系作品にどれほどの違いがあるのかが気になって、当時、話題になっていた書き下ろし作品「沈黙」を読もうと決心したが、いきなり「沈黙」に入るのは気が重かった。

そこで、とりあえず芥川賞受賞作の「白い人・黄色い人」を読むことにした。新潮文庫で出ていて、背幅が三ミリほどしかなく、薄かったので手に取りやすかったのだ。当時、僕は安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三など「第三の新人」たちの作品を読み始めていた。遠藤周作もそのひとりだった。

「白い人・黄色い人」はヨーロッパ留学時代のことを題材にしているようだったが、内容についてはよく憶えていない。ただ、「おバカさん」や「どっこいショ」といった作品に漂うユーモアはまったくなく、シリアスでしかつめらしい顔をした遠藤周作がいた。

「これは心してかからねばならぬ」と侍のように独語した僕は、高校の図書館で新潮社書き下ろし作品という函入りの「沈黙」を借り出し、読み始めて驚いた。時代小説だったからだ。当時の僕は、時代小説は娯楽作品であって純文学作品ではないと思っていた。志賀直哉作品が最高の純文学と言われていた時代だ。私小説が文学だと思い込まされていた。

だから、物語を語る文体で綴られた江戸時代の前期を舞台にした「沈黙」は、僕にとっては純文学ではなかったのだ。主人公のイエズス会の神父がキリスト教が禁止された日本に密入国する場面など、サスペンスさえ醸し出しているではないか。

本の函の裏に書かれた何人かの書評の抜粋を読むと、「沈黙」は弾圧される隠れキリシタンの前に最期まで姿を現さない「神の沈黙」をテーマにしている、というようなことが書かれていたけれど、僕は「踏み絵を踏むか踏まないか」でそんなに悩むかなあ、と感じていた。信仰を持たない人間には切実なテーマではないのかもしれない、と僕は思った。

そのことをきっかけにして、僕は「カトリック作家」の存在を知ることになった。フランソワ・モーリアック、グレアム・グリーンなどである。特にグレアム・グリーンは全集を揃えるほど読み込んだ。日本でも「カトリック作家」は何人かいるが、高橋和巳の死後に小説を発表し始めた、夫人の高橋たか子の作品が一番記憶に残った。

キリスト教圏では遠藤周作の「沈黙」が切実なテーマを扱ったものとして広く受け入れられているのだと知ったのは、マーチン・スコセッシが「沈黙」(2016年)を映画化したときだった。映画化は、マーチン・スコセッシの長年の希望だったそうである。イタリア系移民の子孫であるスコセッシにとって、カトリックは生きる上での重要な何かなのだろう、と僕は肌身で感じた。


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編集部より:デジクリ5151「日々の泡[48]トンという名の作家」の本文において、トン(弓へんに享)の字が表示できませんでした。デジクリ制作段階においては何も問題なかったのですが、発行スタンドまぐまぐでは表示できず「里見?」となって発行されました。これは予想外の事態でした。ご報告します。