日々の泡[51]伯爵になるはずだった作家【赤い天使/有馬頼義】
── 十河 進 ──

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一昨年の十二月半ば、初めて比叡山に登った。晩秋というより初冬である。琵琶湖側の坂本から登り、途中、世界一長いというケーブルカーに乗り、延暦寺に入った。延暦寺は広くて全部は見切れなかったが、何となく歴史の重みは感じた。映画に登場した僧兵たちの姿が浮かんでくる。

頂上からロープウェイの駅に向かったが、高所恐怖症の僕はずっとロープウェイは避けてきたのだ。心中は穏やかではない。戦々恐々というところか。かみさんが「ひとりだけ歩いて降りたら」と笑う。歩くと言っても道もわからないし、時間がどれくらいかかるのかも不明だ。

ということで覚悟を決めてロープウェイに乗ったのだけれど、後から客が乗り込むたびに揺れる。これはどうなることか、と思っていたらロープウェイが動き出し、僕は窓から遠くに目をやった。下を見るなんてとんでもない。しかし、ロープウェイは数分で下の駅に到着した。何だか肩透かしだった。





そのまま急傾斜のケーブルカーに乗り込むと、後ろの席に登山服姿の数人のグループがいた。その中のひとりの女性が「ねえ、有馬記念の有馬ってどういう意味?」と言うのが聞こえた。その週末に有馬記念が行われる予定だった。その年に活躍した名馬が出揃う一年最後のG1レースだ。

その女性の質問には別の男性が「競馬界に貢献した有馬さんというのを記念したレースだよ」と答えたが、僕は「有馬伯爵。その息子が作家になった有馬頼義。『貴三郎一代』は大映で『兵隊やくざ』として勝新主演で映画化されてヒットし、シリーズ化された」と心の中で補足していた。

有馬頼義が亡くなったのは、もう四十年も前のことになった。書店で著作を見かけることもない。戦後すぐの頃から流行作家として活躍し、様々なジャンルの作品を残したが、やはり戦争を描いた作品が多かった印象がある。ただし、初期は推理小説家だと思われていた。

僕がずっと見たいと思っている映画に「三十六人の乗客」(1957年)と「四万人の目撃者」(1960年)がある。前者が東宝作品で、後者は松竹作品である。その頃、有馬頼義は流行作家だった。「三十六人の乗客」はバスの中が舞台で、「四万人の目撃者」は野球場で事件が起きる。

この二本はサスペンス映画として評判がいいのだが、プログラム・ピクチャーで名画座にかかることもなかった。調べていないのでわからないが、もしかしたらDVDになっているのかもしれない。今度、ユーチューブで検索してみようかな。

僕は内容は知らないのだけれど、有馬頼義は「ガラスの中の少女」という小説も書いていて、これは1960年に吉永小百合が映画化し、美少女の誉れ高かった後藤久美子が1988年にリメイクした。タイトルがいかにもという感じだから、どちらも原作のタイトルをそのまま使っている。

この辺は、様々なジャンルの小説を書き、お嬢様とチンピラの悲恋を描いた「泥だらけの純情」が、吉永小百合と山口百恵によって二度も映画化された藤原審爾に似ている気がする。世代的にも近いのではないだろうか。藤原審爾の「新宿警察」シリーズは、今の警察小説ブームのハシリだった。

さて、前述のように有馬頼義は戦前の伯爵・有馬頼寧の三男だった。長男と次男が病弱で三男の頼義が伯爵を継ぐことになっていたらしい。戦後、長男と次男は若死にしているから、華族制度が廃止にならなかったら伯爵になっていたのだ。

有馬頼義の「貴三郎一代」を映画化した「兵隊やくざ」は、めっぽう喧嘩が強く殴られ強い貴三郎(勝新太郎)とインテリ上等兵(田村高廣)のコンビが日本陸軍の不条理を頭脳と腕力で跳ね返し最後は脱走する物語で、軍隊でいじめられた戦中派が溜飲を下げる内容だった。公開当時、軍隊経験のある人はまだまだ多かった。

十本近くあるシリーズの前半の五本ほどは見ているが、日中戦争最中の日本陸軍の生態がよく描かれている。僕は、ずっと田村高廣が演じるインテリ上等兵は有馬自身ではないかと思っている。有馬頼義は軍隊での体験を様々な作品に仕上げているのだ。

そのひとつが従軍看護婦を主人公にした「赤い天使」(1966年)である。どんなジャンルでもこなした大映のエース監督だった増村保造と若尾文子が組んだ作品は名作ぞろいだが、ベストワンとして僕は「赤い天使」を挙げる。増村監督は「兵隊やくざ」を手がけており、そのつながりで有馬の「赤い天使」に出会ったのだろうか。

若尾文子が演じる従軍看護婦は、増村作品のすべてのヒロインと同じく、とても強い意志を持っている。簡単なことでは傷つかない。傷病兵にレイプされても彼女は負けないし、戦場で両手を失った若い兵士の頼みを受け入れ彼を性的に満足させる。

彼女は過酷な前線を希望し、不眠不休で働く軍医(芦田伸介)の下に就く。残酷な戦争の現実を彼女は目撃するが、ただ自分の仕事を黙々とこなすだけだ。その精神の強さには恐れ入ってしまう。僕が増村作品のヒロインを好きなのは、彼女たちの強さに惹かれるからだろう。

戦傷を負った兵士たちを手当し再び戦場に送り出すことに、軍医は医者として虚しさを感じている。それでも、毎日、ひどい負傷者たちが運び込まれ、瞬時に「助かるか、助からないか」を判断し、助からない負傷者は見捨てざるを得ない。

ヒロインは、次第に軍医に惹かれていく。だが、軍医は彼女の想いを受け入れることができない。精神的に深く傷ついている軍医はモルヒネに頼り性的不能者になっている。だが、ヒロインの強さは、そんな男の弱さを補う。どんなことも彼女の心を傷つけられず、意志を挫くことはできない。

作家生活の後半、有馬頼義は戦争をテーマにした作品ばかり発表していた印象がある。「反戦」を明確に打ち出しているわけではないが、戦場の現実を描き出す作品だった。だから、「赤い天使」のように作品全体から「厭戦」気分を誘われる。心の底から「戦争は厭だ」と思わされる。

【そごう・すすむ】
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