日々の泡[53]ギリシャ悲劇のような私立探偵小説【ロス・マクドナルド/さむけ】
── 十河 進 ──

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ロス・マクドナルドが創り出した私立探偵リュウ・アーチャー・シリーズは、全部で十八作品(別に短編集「我が名はアーチャー」がある)が書かれ、最高傑作だと評価される「さむけ」を僕が読んだのは、小笠原豊樹さんの翻訳が早川ポケットミステリで出たときだった。

たぶん中学三年か、高校一年だった。その後、もう一度だけ読み返したけれど、それから何十年たった今でも(少し違うかもしれないが)ラストフレーズを記憶している。

----あげるものは、もう何もないんだよ、レティシア。

小笠原豊樹さんが翻訳した「ウィチャリー家の女」「縞模様の霊柩車」「さむけ」は、リュウ・アーチャー・シリーズ中期(六〇年代前半)に連続して刊行され、圧倒的な評価を受けていた。ニューヨークタイムズの書評家アンソニー・バウチャーが、「ハメット・チャンドラー・ロス・マクドナルド・スクール」と名付けたという話が、ポケミスの解説文などには何かと登場した。





ところで、小笠原豊樹さんが詩人の岩田宏さんの別名であることを、僕は「ミステリマガジン」の書評欄で知った。今から思えば、先に「さむけ」を読んだのか、思潮社の現代詩文庫「岩田宏詩集」を先に読んだのかははっきりしない。

「岩田宏詩集」は現代詩文庫で田村隆一、谷川雁に続く三巻めである。初版は一九六八年一月一日になっているから、書店には一九六七年末には並んでいたはずだ。とすると、やはり「さむけ」を先に読んだのかもしれない。

あさ八時
ゆうべの夢が
電車のドアにすべりこみ
ぼくらに歌ういやな唄
「ねむたいか おい ねむたいか
眠りたいのか たくないか」

岩田宏さんの代表作「いやな唄」はこんな風に始まっている。語調がリズミカルで、韻を踏んでいる。一時期、僕はよく暗唱したものだった。好きな詩のひとつである。

この詩を暗唱していると、リュウ・アーチャーの一人称「わたし」を格調高く静謐な雰囲気で訳した人物と同じとは思えないが、リュウ・アーチャーは詩人の翻訳によって単なる私立探偵ではなくなった。

第一作「動く標的」から数作までのリュウ・アーチャーは、当時、アメリカに多数生息していたタフガイ私立探偵とそう変わらなかった。

右の端にミッキー・スピレインのマイク・ハマーがいて、左の端にはチャンドラーのフィリップ・マーロウがいたとすると、アーチャーは確かに左寄りではあったが暴力沙汰が皆無ではなかった。

時々、後頭部を殴られて昏倒し、目覚めると死体があったりした。しかし、「人の死にゆく道」あたりから作風は変化し、「ギャルトン事件」である高みに到達し、その後の数作で完成度を増し、「さむけ」で頂点を極める。

ところが、後期の「地中の男」「眠れる美女」、そして最後の作品「ブルー・ハンマー」は同工異曲、頂点を極めた作家が自己模倣に陥るという典型的なパターンから逃れられなかった。もちろん水準は高く、どの作品も読み応えはある。

僕は新作が出るたびに待ちかねてポケミスを買ったが、何と早川書房は「ブルー・ハンマー」をハードカバーで出してきた。すでに社会人として働いていたので、値段が高くなったことより判型が大きくなり、本棚に並べて揃わないのが腹立たしかった。

「さむけ」がアメリカで刊行されたのが一九六四年のこと、翻訳が出たのはおそらく一九六六年だと思う。一九六六年にはポール・ニューマンが主演した「動く標的」が公開された。

僕が買った創元推理文庫「動く標的」のカバーには映画のスチールが使われていたから、映画の公開当時に買ったのは間違いない。

裏表紙にはセクシーな格好をしたパメラ・ティフィンの写真が使われていた。パメラ・ティフィンは誘拐された富豪の娘を演じていて、初めて登場するシーンではビキニの水着で踊っていた。

映画「動く標的」(1966年)の原題は「ハーパー」で、主人公の名前はルー・ハーパーと変えられている。その理由を当時の映画雑誌の記事は、「ポール・ニューマンは『ハッド』などHで始まる映画がヒットし、自らの演技も評価されたから、タイトルがHで始まることにこだわり、プロデューサーに強く要求した」と書かれていた。

そんな理由でアーチャーがハーパーになったの? と僕は思ったけれど、映画自体はよくできていた。特に探偵が目覚めてコーヒーを煎れようとすると、豆が切れていて昨夜のコーヒーフィルターを屑籠から拾うシーンは有名になった。彼は二日酔いらしく、洗面台に氷を張って顔をつける。

この映画は村上春樹さんのお気に入りで、エッセイには何度も登場する。僕は、真犯人がわかった後のラストシーンがとても好きだ。

九年後、ポール・ニューマンは再びルー・ハーパーを演じる。リュウ・アーチャー・シリーズの二作目「魔のプール」の映画化作品「新・動く標的」(1975年)である。監督はポール・ニューマンとは相性のいいスチュアート・ローゼンバーグだった。

九年の年を重ねてポール・ニューマンは渋くなっていたし、「暴力脱獄」や「明日に向かって撃て」でハリウッドを代表する大スターになっていた。

その「新・動く標的」では、僕はラストの真犯人の告白シーンにギリシャ悲劇のような雰囲気を感じたものだった。「動く標的」は何となく心が浮き立つような気分で映画館を出てこれるが、「新・動く標的」は人間の宿命や運命といったものに思いを馳せながら映画館を出てくる感じだった。後のロス・マクドナルドを彷彿とさせた。

そう、リュウ・アーチャー・シリーズはどんどんギリシャ悲劇のようになっていき、その悲劇性に僕は強く惹かれたのだった。

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