日々の泡[46]映画評論の金字塔【鈴木清順論/上島春彦】
── 十河 進 ──

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上島春彦さんと初めて会ったのは、2007年の初め頃だと思う。僕の「映画がなければ生きていけない」の最初の二巻が前年末に書店に並び、何人かに献本し「何が送られてきたかと思ったよ」と言われた後のことである。何しろA5判、上下二段組、一巻で六百ページだから二巻だと千二百ページになる。二巻合わせると背幅は十センチ近い。

献本した中に成田泉さんがいた。1980年頃にライターとして出会い、様々な仕事をお願いしてきた。成田さんは自主製作映画として、16ミリで「殺しが静かにやってくる 生成篇」(1979年)と「殺しが静かにやってくる 爆殺篇」(1981年)を監督している。「爆殺篇」には「電撃ネットワーク」の南部虎太さんが出ていて、昔、成田さんに酒場で紹介してもらったことがある。僕は「電撃ネットワーク」の過激ギャグのファンだったのだ。





成田さんは、その後、文筆の仕事をするようになり、編集者兼ライターとして僕とのつきあいが始まった。昔、横浜映画学校のゼミを取材してもらったときには、浦山桐郎監督と三人で呑んだこともあった。成田さんはライターとしてはボクシングの記事を得意とし、昔のことだが世界チャンピオン戦前日に畑山隆則の本を上梓したこともある。やがて、編集プロダクションを立ち上げ、今も様々な本を編集している。

献本した後、成田さんから「話題の映画の本を出している上島くんという映画評論家がいて、今度、紹介したい。一緒に呑もう」と連絡があった。「上島春彦さんですか」と僕は答えた。当時、「レッドパージ・ハリウッド」という本が出たばかりで、大きな話題になっていたのだ。新聞の書評欄でも大きく取り上げられていた。

今、手元にある「レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝」の奥付を見ると、「初版第1刷」は2006年7月15日になっていて、僕の持っているのは「初版3刷」で2006年9月20日の発行だ。本体3800円のハードカバーの映画の本が二ヶ月で3刷とは驚異的である。帯には「蓮見重彦氏絶賛」とあった。

僕は、成田さんに「ぜひ紹介してください」と返事をした。上島さんは僕より八歳若く、編集者をしながらじっくりと映画論を書き続け、すでに「宮崎駿のアニメ世界が動いた----カリオストロの城からハウルの城へ」とか「モアレ─映画という幻」などの著書を出していた。「キネマ旬報」のレギュラー筆者でもある。

というわけで、2007年の早い時期に僕は成田さんの紹介で上島春彦さんと酒席を共にした。西銀座あたりの居酒屋だったと思う。もちろん、話は終始、映画のことばかりだった。そんな話の中で、上島さんが「今度、鈴木清順論を書こうと思っているんです」と口にした。僕はすかさず「だったら、昔、僕が清順さんをインタビューしたテープを提供しますよ」と言っていた。

僕が鈴木清順監督をインタビューしたのは、1981年の夏のことである。その頃、僕は八ミリ専門誌「小型映画」編集部にいて、「監督インタビュー」というページを担当していた。その第一回目は加藤泰監督「炎のごとく」で、その後、相米慎二監督「セーラー服と機関銃」、工藤栄一監督「ヨコハマBJブルース」、大林宣彦監督「ねらわれた学園」、小栗康平監督「泥の河」などを取材した。

鈴木清順監督を取材したのは、「陽炎座」(1981年8月29日封切り)の公開直前だった。渋谷にあったシネマプラセットの事務所で、目の前にはプロデューサーの荒戸源次郎さんと清順監督が並んで座った。十代で「東京流れ者」や「けんかえれじぃ」を見て以来、神と仰ぐ清順監督が目の前にいて、僕はひどく緊張していた。

そんな緊張を和らげようと、僕は「ゴールデン街の『銀河系』の棚に清順さんのボトルがありましたよ」といきなり口にした。監督は「ああ、あれね」と答えただけだった。僕が緊張していたひとつの理由は、「清順さんは、まともに質問には答えてくれないよ」という業界関係者の忠告があったからだった。確かに、質問を「煙に巻く」ので評判の清順監督である。

しかし、そのときのインタビューには、清順さんはまともに答えてくれたのである。もっとも、僕が訊いたのは不思議な映像をどのように作ったかというテクニック的なことが多かったので、答えやすかったのかもしれない。たとえば、大楠道代が大樽の水中に沈み、口から赤いほおづきがひとつ浮かぶと、やがて沢山のほおづきが浮かび上がり水面を覆うシーンを「どうやったのですか」と僕は訊いた。

今でもよく憶えているのだが、夜叉ケ池で小舟に乗っている松田優作がいて、いきなり小舟がコンパスで円を描くように櫓を中心に回転するシーンがあり、その仕掛けを訊くと、荒戸さんと清順さんは顔を合わせ「してやったり」というような笑顔になった。結局、仕掛けは明かしてもらえなかったと思うけれど----。

その「監督インタビュー」の取材テープは、僕の個人的な宝としてずっと保管していたが、その中の清順さんのテープを、酒席の後、すぐに僕は上島さんに送った。コピーもとらず、オリジナルテープを送ったのは、自分が持っていても単なる自己満足にすぎないと思うようになっていたからだ。監督たちをインタビューしたのは1981年のこと。僕の二十九から三十歳の時期だ。翌年には「小型映画」は休刊になり、上島さんに送った時点で二十六年の歳月が過ぎていた。

先日、ものすごい本が作品社から送られてきた。B5判の上製本。ハードカバーである。重さを測ると、一キロ半あった。総ページは七百ページに及ぶ。上下二段組で、三段組の部分もある。後書きによれば「当初二千枚を考えていたのだが、終わってみれば三千三百五十七・八枚(四百字詰原稿用紙換算)を数えることになった」とある。本体価格は、一万円だ。帯に「圧倒的スケールで打ち建てる、映画評論の金字塔」とある。

ちなみに、後書きには「十河進さんからは『陽炎座』公開時の貴重なインタビュー音源をカセットテープで頂戴した」と書いていただいている。あれから十三年、上島さんの力作「鈴木清順論 影なき声、声なき影」は、想像を絶する凄い本として出版されたのだ。その十三年間の途中で上島さんは、「血の玉座 黒澤明と三船敏郎の映画世界」(作品社)も出している。毎週、適当な短文を書いている僕など、恥入るしかない。


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