日々の泡[45]英国を代表する現代作家【贖罪/イアン・マキューアン】
── 十河 進 ──

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ロマン・ポランスキー監督の「告白小説、その結末」(2017年)は主人公がフランス人の女性作家で、別居結婚している夫がテレビでインタビュー番組を持つ文芸評論家という設定だった。その文芸評論家は、アメリカやイギリスに作家を訪ねて取材にいく。彼の口からは、「ロンドンではイアン・マキューアンを取材する」と言うセリフが出てきた。

そうか、イギリス人作家と言えばカズオ・イシグロ(日本人の両親の元に生まれたがイギリス国籍です)よりもイアン・マキューアンなんだな、と僕は思った。イアン・マキューアンは世代的には村上春樹さんと同じで、あの世界的な疾風怒濤の60年代後半を十代後半で経験している。ただし、村上さんの作品からはそのことが読みとれるけれど、イアン・マキューアンはあまり関係ないかもしれない。





僕がイアン・マキューアンという名前を知ったのは、新潮社クレストブックで翻訳が出たからだった。しかし、その名前を記憶に刻み込んだのは、「つぐない」(2007年)という映画化作品を見たからである。原作は「贖罪」の邦題で出ていた。「つぐない」は、一度見たら忘れられない瞳を持つ少女シアーシャ・ローナンの姿が目に焼き付く印象的な作品だった。

もちろん、 悲劇の恋人たちを演じたキーラ・ナイトレイとジェームス・マカヴォイにとっても代表作なのではあるけれど、13歳のシアーシャ・ローナンの存在なくしては「つぐない」は単なる凡作になったかもしれない。「作家志望の多感で純真無垢な少女ブライオニー」に存在感を与えたシアーシャ・ローナンがいたからこそ、つまらない行き違い(だいたい卑猥な言葉を手紙に綴るのが納得いかない)から起こる恋人たちの悲劇が説得力を持ったのだ。

したがって、その後の成長した姿を見せず、シアーシャ・ローナンは「つぐない」一作で消えるべきだったと僕は思ったのだけれど、実はその後の彼女の出演作はほとんど見ているのである。あの透明感のある瞳(何色と言えばいいのだろう)を見たいというのが、その大きな理由だ。殺し屋(ハンナ)を演じても、吸血鬼(ビザンチウム)を演じても、死者(ラブリーボーン)を演じても、彼女の悲しみを湛えた美しい瞳が記憶に刻み込まれる。

そんなわけで、シアーシャ・ローナンが再びイアン・マキューアン原作の映画化作品に出演した「追想」(2018年)も見た。「初夜」の邦題で新潮社クレストブックで翻訳されている作品だ。物語の大部分は、新婚旅行初日のホテルの部屋で展開される。海辺のホテルの部屋には、新婚初夜を迎えようとしている若い男女エドワード(ビリー・ハウル)とフローレンス(シアーシャ・ローナン)がいる。

その初夜の現在時に、彼らの出会いから結婚するまでの過去が回想される構成になっている。それで、タイトルを「追想」としたのだろうかと僕は思った。原題は「On Chesil Beach」である。イギリスの風光明媚なビーチだということだが、ふたりしかいない長い浜辺は出てくるものの有名な観光地という気はしない。時代は1962年(昭和37年)、日本なら熱海に新婚旅行へいき、その海岸をふたりで歩いている感覚かもしれない。

この時代設定が大変に重要な要素になっている。1962年と言えばまだ性的に解放されていない、処女性が尊重される時代だった。ヴァイオリニストをめざすフローレンスに対して、エドワードが口にする「チャック・ベリー」が重要な時代的記号として登場するけれど、ビートルズの登場までにはまだ2年ある。そんな時代だから、ふたりは交際中にネッキングまではするが、童貞と処女として新婚初夜を迎えようとしているのである。

ふたりは、ともに不安に感じている。フローレンスは処女特有の潔癖さで、自分が男を受け入れられるか自信がない。いや、嫌悪さえ感じている。その感じをシアーシャ・ローナンが演じると、素晴らしいまでの説得力がある。演技の問題ではなく、彼女の存在自体がフローレンスになりきっているのだ。そのことが、結局、大きな悲劇を生む。僕は、まさか、そんな展開になるとは思わなかった。原作を読んでいなかったので「えっ」と思った。

ところが、それからいきなり十数年ジャンプして1970年代半ばになってあるエピソードが描かれ、さらに21世紀の現在になり、老人になったエドワードとフローレンスの再会が描かれたとき、彼らより十年ほど若い僕もエドワードのようにハラハラと涙を流してしまった。「追想」とはそういうことだったのか、と思った。しかし、イアン・マキューアンが書く物語としては、少し甘い気がした。

「つぐない」も物語は戦前から始まるが、ラストは現在時になり、有名作家になった老ブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレーブ)が新作「つぐない」についてテレビのインタビューに答えるシーンだ。純粋無垢な少女の言動によって引き起こされた悲劇の恋人たちの物語が、彼女の想像にすぎなかった(そうありたかった)のではないかという展開になる。だから、「つぐない」は見終わると奇妙にシュールな印象が残る。

ところが、「追想」のラストシーンでは世代的な甘い感傷に浸れるのであった。もっとも、それは僕が彼らがたどった時代の空気を知っているからかもしれない。エドワードとフローレンスは僕より10歳年上の兄や姉の世代だが、1962年に11歳だった僕はその時代の保守的な空気も、70年代のヒッピー文化(日本ではアングラ文化と言った方がわかりやすいかもしれない)も、肌で感じることができる。それは、イアン・マキューアンも同じだろう。しかし、イアン・マキューアンって、もっとハードな作家だと思っていたけどなあ。

ところで、「つぐない」というタイトルからは、どうも「アジアの歌姫」テレサ・テンを連想していけない。もっとも、原作の邦題の「贖罪」だと堅すぎる気もする。原題は「Atonement」だから、「つぐない」も「贖罪」も直訳ではある。「あがない」では、通じない人間もいるだろうし----。やっぱり、「つぐない」しかないか。

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