映画と夜と音楽と…[398]「愛の喪失」という名のジャズ
── 十河 進 ──

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●マッコイ・タイナーのピアノで甦った黄色いひまわり畑

あることがきっかけで再びジャズアルバムをCDで集め始めたのが、15年近く前のことになる。それまでは手持ちのレコードだけを聴いていたのだが、それも仕事に追われてあまり時間が取れなくなっていた。ある日、突然、僕は最新の情報が知りたくなって久しぶりに「スウィング・ジャーナル」を購入し、新譜コーナーを読んでみた。

プレリュードとソナタその月のゴールドディスクは、マッコイ・タイナー・スーパーグループの「プレリュードとソナタ」だった。マッコイ・タイナーは何枚もアルバムを持っているが、テナー・サックスがジョシュア・レッドマン、ベースがクリスチャン・マクブライド、アルト・サックスがアントニオ・ハートという売り出し中の若手が揃っていた。

演奏曲の中にミッシェル・ルグランの「I'LL WAIT FOR YOU」があったので僕は迷わず購入し、自宅へ戻りCDデータベースに登録すると、すぐにプレイヤーにかけた。一曲目はショパンの「プレリュード第四番・ホ短調」である。そして、二曲目にアントニオ・ハートの哀愁に充ちたアルト・サックスが流れたとき、僕はエッと思った。



CDの裏面には「LOSS OF LOVE」としか書かれていなかった。僕はライナーノーツを開いた。そこには「ひまわり ヘンリー・マンシーニ作曲」とある。「やっぱり」と僕は思った。その哀切な寂寥感に充ちたメロディは間違いなく映画「ひまわり」(1970年)のテーマ曲だった。

ひまわり《デジタルリマスター版》「ひまわり」のテーマ曲は公開当時、どこへいってもかかっていたような記憶がある。しかし、あのメロディがジャズになるとは思わなかった。ジャズ的なるものとは、最も遠いところに存在する音楽である。しかし、「愛の喪失」というタイトルを持つ曲は、確かにマッコイ・タイナーのピアノにのってジャズとして成立していた。

その曲を聴くとスクリーンいっぱいのひまわり畑を思い出す。黄色で埋めつくされたスクリーンが甦る。「ひまわり」という映画は、あのシーンだけで存在価値があると言ってもいい。マルチェロ・マストロヤンニを巡るふたりの妻…、ソフィア・ローレンとリュドミラ・サベーリエワ。彼と彼女たちの悲劇は、20歳にもならない当時の僕には、あまり強い印象を残さなかったのである。

ヴィットリオ・デ・シーカ監督とソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが組んだ作品群は、60年代に全盛期を迎えた。「昨日・今日・明日」が1964年の公開、「ああ結婚」が翌年の公開だった。中学生の僕は看板に描かれたソフィア・ローレンの下着姿に目を背けた。潔癖だった僕にとって彼女はイタリアのいやらしげーな女優だったし、マストロヤンニはにやけた女たらしにしか思えなかった。

自転車泥棒「ひまわり」は、間違いなく悲劇である。デ・シーカの戦後の名作「自転車泥棒」(1948年)と同じように、みじめで情けなくなるような悲劇である。だが、それを演じるソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニを見ていると、僕には悲劇を見ているという感覚がなくなってくるのだった。

●ヴィットリオ・デ・シーカ監督は底辺の人間ばかりを描いた

ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品には、情けない男が登場する。庶民たちが主人公である。「自転車泥棒」から変わっていない。その情けない男の役にマルチェロ・マストロヤンニはぴったりだった。男が情けないから、女が強くなる。「ひまわり」のソフィア・ローレンがそんな役だった。気丈で、めげることがない。

第二次大戦中のイタリア。愛し合う夫婦がいる。夫はロシア戦線に送られる。やがて戦死の知らせがくる。しかし、妻は信じない。戦後になっても、妻は待ち続ける。そして、遂に自ら夫を捜すためにロシアに赴くのだ。散々、探した挙げ句、疲れ果てて佇む妻は、ある家で夫が幸せそうに暮らしているのを目にする。

夫は雪原で倒れていたところをロシア娘に助けられ、その娘と夫婦になってロシアで暮らしていたのだ。このロシア娘をリュドミラ・サベーリエワが演じていた。肉感的グラマーであるソフィア・ローレンとは対照的な、純情可憐な美しい瞳を持つ女優だ。

僕が「ひまわり」にのめり込めない理由は、リュドミラ・サベーリエワにもある。どう考えても僕はソフィア・ローレンとリュドミラ・サベーリエワの間で男が迷う設定が納得できないのだ。比較にならないでしょう、という感じである。圧倒的にリュドミラ・サベーリエワの勝ちだと思う。

戦争と平和ソ連映画界が莫大な資金と物量をつぎ込んだ、9時間に及ぶ超大作「戦争と平和」(1965〜1967年)のヒロインを演じたリュドミラ・サベーリエワは、ややこしい名前を一度で僕に記憶させるほどの魅力があった。ハリウッド版「戦争と平和」(1956年)では、オードリー・ヘップバーンが演じたナターシャの役である。

つまり、僕が「ひまわり」にのめりこめない理由は単純なのだ。ソフィア・ローレンが嫌いだからなのである。確かに、大柄の女が黒い下着姿で脱いだストッキングを差し出している看板は、中学生の僕に嫌悪感しか感じさせなかったし、真っ赤な口紅を塗られた大きな唇は頬まで裂けているかのように見えた。

十二月のひまわり (講談社文庫)しかし、「ひまわり」を印象深く見た人は多いのだろう。ハードボイルド作家と言われる白川道さんもそのひとりらしい。短編集「十二月のひまわり」に収められた表題作は、ある男の回想で物語が展開するのだが、出てくる人物たちの意外な関係が徐々に明かされていくことで読者に頁をめくらせる小説だ。そのタイトルの由来が「ひまわり」だった。

今は銀座でクラブを経営する中年を過ぎた主人公には、少年時代から共に育った男がいる。貧しい生まれの主人公は、母の死後、母が勤めていた温泉旅館に引き取られて育つのだが、男はその旅館の息子だった。屈折した感情がふたりの男の間にはある。やがて、共に東京の大学に進学したふたりは、ある女性と親しくなる。

ある日、彼らは3人で「ひまわり」を見る。スクリーン一面に描かれた黄色いひまわり畑…、青春の思い出と共に主人公には「ひまわり」が甦るのだ。それが小説のコアになるイメージを作り出していた。おそらく、白川さんにとっても思い出の映画なのだろう。

●「魂萌え!」のヒロインはなぜか「ひまわり」を映写した

なるべく近づかないようにしている女性作家がいる。桐野夏生さんだ。ジェイムズ・クラムリーが作り出したアル中探偵ミロ・ミロドラゴヴィッチから名前をとった女性探偵が活躍するミステリで乱歩賞をとり、今や国際的にも活躍する作家。しかし、僕は、主婦4人が殺した夫をバラバラにする話やら、東電OL殺人事件を下敷きにしたような設定など、気にはなるけれどちょっとご遠慮したい気分なのである。

魂萌え !その桐野さんの小説に「魂萌え!」という作品がある。定年後すぐに夫に死なれてしまった女の話だ。桐野さんは世代的には僕と同じだから、たぶん50代後半の主婦であるヒロインは自分の世代を投影しているのだと思う。この「魂萌え!」は、阪本順治監督によって2007年に映画化された。主人公の主婦を演じたのは風吹ジュンである。

映画は、いきなりお葬式から始まる。ヒロインは、退職の日に夫に握手を求められ何かを言われたのだが、その言葉が思い出せないことを気にしている。勝手なことを言う息子や娘にうんざりしていたとき、夫の携帯電話に訳のありそうな女の声で電話がかかってくる。夫の死を知らせると、相手の女は絶句する。

魂萌え!ヒロインが予想したとおり、女は長い間、夫の愛人だったのだ。よくある設定だが、この後に予想外の展開があり、出てくる登場人物が魅力的なので面白く見られる映画になっている。特に印象的なのは、ヒロインが夜の街に出て初めてカプセルホテルに泊まるエピソードだ。

ヒロインは風呂を出たところでお婆さん(加藤治子)に出会い、その身の上話を聞く。地方都市でしっかりした商売をしていたその女は、甥の保証人になったために財産も家もなくし、今はカプセルホテルで暮らしているのだという。老人への功徳のつもりで身の上話を聞いていたヒロインは、最後に「では、五千円」と手を出される。

──あたしの身の上話、タダで聞くつもり?

TBSドラマ「七人の孫」以来、僕は加藤治子さんのファンであり、向田邦子ドラマの加藤治子さんもほとんど見ているが、このお婆さん役が一番記憶に残るかもしれない。翌日、お婆さんが倒れ、ヒロインは慌ててカプセルホテルのマネージャー(豊川悦司)を呼んでくる。マネージャーは病院のベンチでヒロインに「私が甥なんです」と告白する。

高校以来の3人の仲間たち(今陽子、由紀さおり、藤田弓子)との食事会、夫のそば打ち仲間だったダンディな紳士(林隆三)とのラブ・アフェア、夫の愛人だった女(三田佳子)との対決、遺産を要求する勝手な息子とのやりとりなど、いろいろなトラブルを乗り越えて、やがてヒロインは自立しなければならないと気付き、なぜか映写技師になろうと決意する。

老練な映写技師がいると聞いたヒロインは、ポルノ映画館のチケットを買って入っていく。首にタオルを巻いた怖そうな顔の男(麿赤児)がいる。「何だい」という男に「弟子にしてください」と60近いヒロインは頭を下げるのである。そして、ラストシーン。ヒロインは、映写室で慣れた手つきで35ミリの大きな映写機を操作している。

映写窓から、ヒロインがスクリーンを見る。そこに映っていたのは「ひまわり」だった。黄色一面のひまわり畑に、あのメロディが流れていた。こういう場合、シナリオ作家に特別な思い入れがない限り、具体的に何の映画と指定されていることはあまりない。とすると、阪本順治監督のこだわりなのだろうか。

原作はどうなっている? と気になり「魂萌え!」を図書館から借りてきてラストだけ斜め読みをした。まったく違うようだ。やはり、阪本順治監督が「ひまわり」を選んだのかもしれない。だが、「どついたるねん」(1989年)で監督デビューし、「闇の子どもたち」(2008年)「カメレオン」(2008年)が最新作である阪本順治監督と「ひまわり」は、僕の中ではうまく結びつかない。

「ひまわり」が公開された1970年、「イージーライダー」「明日に向かって撃て」「冬のライオン」「地獄に堕ちた勇者ども」「ひとりぼっちの青春」「いちご白書」「王女メディア」「Z」などが立て続けに封切りになった。それらの名作群は、世間知らずの僕に衝撃を与えた。だから、「ひまわり」は分が悪かったのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
あと2回。今年で400回はクリアできそうです。凄いなあ。メルマガ連載記録としてギネスに申請しようかなあ。ダメだろうなあ。などと思いながら、先日のギネスの日に世界各地で行われたという珍記録のニュースを見ておりました。確か「男はつらいよ」の寅さんシリーズは認定されていたと思います。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 恋ひとすじに(ユニバーサル・セレクション2008年第11弾)【初DVD化】【初回生産限定】 愛人関係 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初DVD化】【初回生産限定】 金魚屋古書店 7 (7) (IKKI COMIX) アメリカ映画風雲録

by G-Tools , 2008/11/21