映画と夜と音楽と…[404]経験することで見えてくるもの/十河 進

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●イギリスの少女は歳をとるとみんなヴァネッサになる

ガラスの仮面 (第41巻) (花とゆめCOMICS)いつ完成するかわからない少女マンガ「ガラスの仮面」の中で、「ふたりの王女」という舞台劇公演のエピソードが二巻ほどで描かれる。その「ふたりの王女」の話自体がすこぶるよくできている(蜷川幸雄さんの演出でやってほしいくらいだ)のだが、その中に月影先生という往年の名女優が登場するシーンがある。

ヒロインは演技に関しては天才の北島マヤ、そのライバルになる美少女が姫川亜弓で、このふたりの演技合戦がメインのストーリーとして展開する。そのふたりを指導するのが月影先生だ。この月影先生が舞台に出てくる場面では観客がざわめき、「すっげぇー存在感。誰だ、あれ」などと囁きを交わす。一場面に登場するだけで、すべてをさらっていく。

最近、イギリス映画を続けて何本か見ていたところ、ヴァネッサ・レッドグレーブがほんの少しずつ出てきた。脇役で、出るシーンは短いのに、すべてをさらっていく存在感があり、僕はそんなヴァネッサ・レッドグレーブを見ながら「ガラスの仮面」の月影先生を見た観客の驚きを思い出したのである。

ヴァネッサ・レッドグレーブは1937年の生まれらしいから、今年で72歳になる。父親は名優といわれたマイケル・レッドグレーブ、妹がリン・レッドグレープだ。日本だと歌舞伎界の名門の家に生まれたようなものだろう。それに、彼女はトニー・リチャードソン監督と結婚していたことがあるらしい。子供の頃から現在まで、演劇しかない人生だったのだろうなあ。



最近のイギリス映画は老女の役だと、すぐにヴァネッサ・レッドグレーブかジュディ・デンチをキャスティングする。もしかしたら、ジュディ・デンチの方がよく出ているかもしれない。僕はジュディ・デンチの方が若いと思っていたが、1934年の生まれだった。ジェイムズ・ボンド・シリーズの女上司Mで一般的に顔を知られるようになった。

蜘蛛巣城<普及版> [DVD]昔、銀座ニコンサロンで舞台写真の名手である松本徳彦さんの写真展を見ていたら、ロイヤル・シェークスピア劇団の日本公演の写真があった。そこにはマクベスを演じるサー・ローレンス・オリビエとマクベス夫人役のジュディ・デンチが写っていた。僕は「マクベス」を翻案した黒澤明監督作品「蜘蛛巣城」(1957年)の山田五十鈴のマクベス夫人が印象に残っているが、ジュディ・デンチも見てみたかった。

欲望 [DVD]しかし、ジュディ・デンチが歳を重ねてから映画界で演技派として重用されたのとは違い、ヴァネッサは一時期、スター女優の扱いだった。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966年)で謎めいた女を演じた頃のことである。上半身裸で自分を抱きしめるように腕をまわし、胸を隠しているヴァネッサ・レッドグレーブの写真は多くの映画雑誌に掲載された。

その後、何本もの主演作があったが、ジェーン・フォンダがリリアン・ヘルマンを演じた「ジュリア」(1977年)で親友ジュリアを演じ、アカデミー賞助演女優賞を獲得した。しかし、アカデミー授賞式で過激な政治的発言を行い、会場からはかなりブーイングを喰らった。それがきっかけという訳でもないのだろうが、その後は演技派の脇役というポジションが増えている。

ヒロインの老境の姿を演じるようになったのは、「ダロウェイ夫人」(1997年)あたりからだろうか。これはヴァネッサ・レッドグレーブが演じる老婦人の登場で始まり、若き日の回想が展開され、再び歳を重ねたヒロインの姿で終わる作品だったが、「ヒロインが歳をとると、イギリスではみんなヴァネッサ・レッドグレーブになるんだなあ」と、妙に感心した記憶がある。

●最後にヴァネッサが登場することで深遠な人生を感じさせる

ヴィーナス 特別版 [DVD]最近、僕がヴァネッサ・レッドグレープの姿を見たのは「ヴィーナス」(2006年)と「つぐない」(2007年)である。一年ほど前に公開された「ヴィーナス」は、「アラビアのロレンス」ことピーター・オトゥール主演作品で、クレジットによると谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」にインスパイアされた物語で、「老人の性」がテーマだった。

若い頃はハンサムで女たらしだったが、今は前立腺肥大に苦しむ老優のピーター・オトゥールの情けなさと悲しみが味わい深い映画である。ヴァネッサ・レッドグレープは、若い頃にオトゥールに棄てられた妻を演じていた。このふたりのシーンは、見ているだけでしみじみと胸に迫るものがあり、実にいいなあと思う。老優ふたりの見事な演技だ。

つぐない [DVD]ラストシークェンスにヴァネッサ・レッドグレープが登場し、映画の印象をひとりでひっくり返してしまったのは、「つぐない」である。数分の出演なのに、すべてをさらってしまう。単なる恋愛映画が、深遠な人生を感じさせるものに変化する。タイトルを見ると何だかテレサ・テンが歌いそうだが、1930年代のイギリスの上流階級が舞台だから、格調の高いピアノや弦楽器を主体にしたクラシック調の曲しか流れない。

原作はイアン・マキューアン。現代イギリス文学の代表的な作家だ。原作のタイトルは「贖罪」と訳されている。「つぐない」と「贖罪」…、どちらがいい訳かと考えたが、最後の最後で登場するヴァネッサ・レッドグレーブのセリフを考えれば、僕は「つぐない」の方がよかった気がする。ちなみに、英題の「ATONEMENT」を辞書で引くと「罪ほろぼし」と出ていた。

少女の映画として始まる「つぐない」は物語の展開が読めないので、その興味だけでも観客を引き込む。これは、原作がしっかりしているからだろう。それと、突然、時制が戻る描き方をしているので、ぼやぼやしていると訳がわからなくなる。

たとえば、少女が邸宅の廊下で姉が落とした装飾品を拾い、そのまま何かに導かれるように図書館へと入っていき、そこで抱き合う姉と使用人の息子を目撃するシーンがある。少女が衝撃を受けた瞬間、次のシーンは青年が邸宅の扉をノックし、姉が迎えるシーンになる。

青年が扉をノックする同じショットは少し前にあるので、つまり、時制が戻ったことを示しているのだが、うっかりしていると同じことが繰り返されているように勘違いする。これは、少女の視点から描いた世界を先に示し、本当はどのような意味を持っていたのかを時制を戻して描いているのだ。

そのように凝った造りになっているのだが、最後にヴァネッサ・レッドグレーブが登場し、ある種のどんでん返しがあり、すべて明らかになる。映画は、13歳の少女ブライオニーが戯曲をタイプしているシーンから始まる。それもラストシーンのための一種の伏線である。彼女は久しぶりにロンドンから帰ってくる兄のために創作劇を書き上げ、夕食時に演じるつもりなのだ。

13歳のブライオニーを演じるシアーシャ・ローナンが実にいい。少女のイノセントさと残酷さを繊細に細やかに演じている。少女の嘘を付けない表情は、歳は離れているが使用人の息子ロビーに幼い恋心を抱いているのを、ファーストシーンの一瞬で観客に伝える。

映画の半分近くまでは、1935年のイングランドの夏の一日の話だ。次にブライオニーが登場するのは1939年。ヒットラーのドイツがフランスを侵略した時期である。そこに、18歳になったブライオニーが登場する。だが、いくら金髪の女優をキャスティングしても「おいおい、彼女が5年経つとこうなるのかよ」と文句を言いたくなった。

●輝いていた13歳の少女がヴァネッサになっても納得する

聡明な文学少女のブライオニーは、ロビーに恋をしている。かつて彼の気持ちを試すために池に飛び込み、ロビーが必死で助けてくれたことを忘れていない。ロビーは使用人の息子だが優秀なので主人が学資を出してくれ、ケンブリッジに入学し医学の道に進もうとしている。

ブライオニーの姉セシーリアは、ロビーと口を利こうとしない。「なぜ、話をしないの」と訊くブライオニーに、セシーリアは「住む世界が違うのよ」と冷たく言う。だが、観客にはすぐにわかるだろう。セシーリアもロビーを深く愛しているのだ。

ブライオニーは自室の窓からセシーリアとロビーを目撃する。ふたりが噴水のところで諍い、セシーリアはいきなり服を脱ぎ下着姿で噴水の池に飛び込む。その出来事の意味がブライオニーには理解できない。しかし、何かを感じたのだ。ブライオニーは野原で草に八つ当たりするように、棒きれを振り回す。

そのブライオニーにロビーがセシーリアへの手紙を託す。それは、詫び状の筈だったがロビーが入れ間違い、強烈な求愛の言葉が綴られたものだった。ブライオニーはその手紙を読み、その中の卑語に強い衝撃を受ける。しかし、その手紙を受け取ったセシーリアは、強く強くロビーが自分を求めていることを知り、図書館でロビーに愛を告白し、ふたりは強く求め合う。しかし…

「つぐない」というタイトルの意味は、最後にヴァネッサ・レッドグレーブによって明かされるが、老境に入ったブライオニーの「つぐない」は実に文学的だった。さらに、映像でその場面が挿入されるのだが、普通なら甘くなってしまうそのシーンで僕は珍しく涙ぐんだ。

老作家(ブライオニーは夢を叶えたのだ)は遺作として書いた小説で、ある仕掛けをした。それを、テレビのインタビューで明かすヴァネッサ・レッドグレーブ。アップの画面で淡々と語るブァネッサがいるから、その大甘のシーンに僕は涙したのだ。「ヴァネッサ・レッドグレーブがひとりでさらったな」と、心地よい感動が僕を包んだ。

不思議なもので、あのかわいらしい13歳のブライオニーが70を過ぎしわの目立つヴァネッサ・レッドグレーブになったのが、現実のこととして感じられるのだ。18歳のブライオニーが次のシーンでいきなり老作家として登場してきても、ヴァネッサ・レッドグレーブの存在感で半世紀という時間のジャンプが埋められてしまう。

それは、ヴァネッサ・レッドグレーブの存在の中に70数年の人生の積み重ねを感じるからではないかと思う。もっとも、僕のようにある程度の歳を重ねていないと感じないのかもしれない。僕がヴァネッサ・レッドグレーブという女優を40年以上前から知っている、若い頃の裸の背中も見たことがある、ということも関係しているのだろう。

「つぐない」を見終わって、僕は経験ということを考えた。「セックス」を普通のことだと思えるようになったのは、いつ頃だったろうかと記憶を探る。間違いなく僕はオクテだったし、妙にイノセントぶっていたと思い出す。おそらく、13歳の文学少年だった僕は、手紙の中に書かれていた卑語にブライオニーと同じような気持ちを抱いただろう。

だが、半世紀以上を生きてきた僕は、ロビーがあふれる情熱を持てあまし戯れのようにタイプした「きみの××にキスしたい」という手紙を受け取ったセシーリアが、彼に愛を告白し強く求め合い、立ったまま図書館の棚に押しつけられるようにして行うセックスを感動的に見た。

あの息づかい、せつない吐息、むさぼり合う唇、待ちきれぬようにのびる指、めくれ上がっていくドレスの裾…、どれもが互いに愛を確認した恋人たちの歓びを示していた。これを感動的といわずして、何に感動するのか…なんて、やはり長い経験を経た大人の反応かなあ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
暮れの忘年会で兄弟盃を交わした。「兄弟」と呼ばれ酒をつがれた。酔っていてよく憶えていないのだが「五厘下がりの兄弟盃で…」と僕はわめいていたらしい。五分盃でもよかったけれど、やはりこちらが弟分。年明けに酒場で待ち合わせ、「アニキ」と呼んで初めて名刺をもらった。知り合って二年近くになるが、初めて本名を知った。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >


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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 恋ひとすじに(ユニバーサル・セレクション2008年第11弾)【初DVD化】【初回生産限定】 愛人関係 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初DVD化】【初回生産限定】 アメリカ映画風雲録 始祖鳥記 (小学館文庫)

by G-Tools , 2009/01/16