映画と夜と音楽と…[429]大原麗子のスウィートヴォイス/十河 進

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●大原麗子さんの早すぎる真夏の死

おはん [DVD]大原麗子さんが亡くなった。孤独死はまだしも、2週間も遺体が発見されなかったことに衝撃を受けた。どちらにしろ死ぬときはひとりだが、華やかな女優の死だけに哀れさが募る。それに、60を過ぎたばかりだ。ニュースを聞いて、あの独特なスウィートヴォィスが甦った。しかし、テレビニュースでは、彼女がテレビを仕事のメインにしてからのことしか紹介していなかった。

大原麗子といえば、僕にとってはズベ公(死語かもしれませんね。この後、スケバンという言葉ができました)映画の女優なのである。緑魔子というセクシーさを売り物にした女優はデビュー当時から脱ぎっぷりがよくて、60年代半ばの頃によく週刊誌のグラビアを飾っていたが(今で言うグラビアアイドル?)、その緑魔子主演映画の脇に出ていたのが大原麗子だった。

網走番外地 北海篇 [DVD]大原麗子は1965年に「可愛いあの娘」「いろ」「ダニ」「かも」「地獄の波止場」「夜の悪女」「網走番外地 北海篇」という映画に出ている。ほとんどが私生活でも「夜の帝王」と呼ばれた梅宮辰夫の主演作であり、緑魔子がヒロインを演じていた。それにしても、ミもフタもないタイトルである。もう少し何とかならないものか。



テレビの普及で映画の観客がどんどん減少していた時代である。映画会社はエログロに走った。東映もご多分にもれなかったのだが、エロ映画に高倉健や鶴田浩二を使うわけにはいかなかったし、佐久間良子、丘さとみ、大川恵子、桜町弘子といった東映城のお姫様たちを脱がすこともできなかった。藤純子はプロデューサーの娘だから、そんな映画には出るはずはない。

そこで、二線級の梅宮辰夫を主演にしエロを担当するのは新人女優になった。緑魔子であり、三島ゆり子や新東宝から流れてきた三原葉子などである。当時は、大原麗子もセクシー系だったのだ。もっとも緑魔子と違い、大原麗子はテレビへの進出も早かった。TBSで朝に放映されていた若者向け情報番組「ヤング720」の司会者は男女ペアの日替わりで、関口宏、竹脇無我、松山英太郎、小川知子、由美かおる、大原麗子などが担当していた。

その頃、僕は中学生だった。学校にいく前に「ヤング720」を見て最新の映画情報をチェックし、「今週の歌」のコーナーに出演していた新しいグループサウンズ(タイガースはこのコーナーで初めて見た)の歌を聴いた。そんな多感な少年は、通学の途中、「いろ」「ダニ」「かも」の看板に描かれた新人女優たちの半裸(いいとこ下着姿でしたが)を見て興奮していたのである。

不良番長 [DVD]1966年も大原麗子は「夜の牝犬」「非行少女ヨーコ」「夜の青春シリーズ 赤い夜行虫」などで緑魔子と共演、やがて梅宮辰夫のヒットシリーズ「不良番長」(1968年)への出演につながっていく。その頃になると、東映の時代劇には「大奥」シリーズが登場していて、大原麗子はそちらにも出演していた。歌謡映画やドリフターズの映画にも駆り出されたりした。

僕はなぜか「三匹の牝蜂」(1970年)という映画をよく憶えている。場末の三番館で見た三本立ての一本だった。勉強もせず、映画館に入り浸っていた浪人時代に見たのだろう。日活でも主演を張っていた夏純子の主演だった。大原麗子は、タイトルロールの二番目にクレジットされている。この映画をよく憶えているのは、共演が渡瀬恒彦だったからだ。

大原麗子が渡瀬恒彦と結婚したと聞いたとき、僕は「あの映画で共演して意気投合したのかな」と咄嗟に思った。渡瀬恒彦は東映に入社したばかりで一般的にはまったく知られていなかったし、チンピラ役ばかりやっていた。たまに知っている人がいても「ほら、渡哲也の弟で、そっくりな人」と言われていた。

●視聴者が誰も気付かなかった渡哲也の代役

渡瀬恒彦は早稲田を出て電通に入社したが、兄のところに遊びにいったとき、兄たちがやっているマージャンのレートが驚くほど高く「俳優の方がもうかるらしい」と思って東映に入った。その話は、渡哲也もインタビューで話している。同じインタビューで「弟の方が芝居はうまいですよ」とも断言していた。確かに渡瀬恒彦の方が下積みが長かったせいか、演技力はある。

渡瀬恒彦の映画デビューは1970年だから、「三匹の牝蜂」は映画に出始めてすぐの頃だったのだ。渡瀬恒彦の若い頃は渡哲也とそっくりで、それが逆に作用してあまり売れなかった。何しろ渡哲也が病気で途中降板したテレビシリーズ「忍法かげろう斬り」を渡瀬恒彦が引き継いで主演したのだけれど、視聴者は誰も気付かなかった。

というのは、ちょっと大げさかもしれないが、放映されていた1972年当時、渡瀬恒彦という俳優の存在を知っている視聴者はあまりいなかったし、まさか渡哲也にそっくりな人間がいるとも思えなかったから、本当に代役に気が付かないで見ていた人はいるはずだ。僕も、毎週、見ていたのだが、ある日、気付くと渡瀬恒彦になっていたのである。

昔、五味康祐の「柳生武芸帖」の映画化を想定して、架空のキャスティングを映画好きの友人とよく話し合っていた。主演の霞の兄弟役(東宝の稲垣浩監督版では三船敏郎と鶴田浩二が演じた)については、渡哲也と渡瀬恒彦兄弟以外に考えられないと意見が一致した。その渡瀬恒彦が大原麗子と結婚したのだから、渡哲也は大原麗子の義兄になった。

日活映画「大幹部 ケリをつけろ」(1970年)という映画を見たのは、70年代の半ばだったろうか。封切りでは見ていない。その映画を見ながら「渡が義理の妹とラブシーンをしているな」と意味もなく思ったのが、なぜか未だに記憶に残っている。だから、大原麗子と渡瀬恒彦が結婚している時期に見たに違いない。

僕は人斬り五郎こと藤川五郎を主人公とした「無頼」(1968年)シリーズをこよなく愛す人間ではあるが、その「無頼」シリーズの後、渡哲也は似たような設定の「前科」シリーズや「大幹部」シリーズ、「関東」シリーズなどに立て続けに主演した。「無頼」の夢を求めて、それらの映画を僕は池袋文芸坐で見続けたけれど、「無頼」シリーズほどの切なさは感じられなかった。

東京流れ者 [DVD]「大幹部 ケリをつけろ」にも落胆した。新鮮味を求めてヒロインを東映から借り出した大原麗子にしたのだろうが、それが失敗だった。「東京流れ者」(1966年)や「無頼」シリーズでヒロインをつとめた、いつも泣き出しそうな顔の松原智恵子がいないと、渡哲也の切なさは際立たないのである。大原麗子は、強い女なのだ。男がいなくても生きていける気がした。儚げで守りたくなる松原智恵子とはタイプが違った。

渡哲也は1974年、NHKの大河ドラマ「勝海舟」も病気のために数カ月で降板した。いくらそっくりだと言っても、さすがに知名度のない渡瀬恒彦では視聴率が取れないと判断したのか、NHKは松方弘樹を代役に立てた。勝海舟の妾役(勝は妻妾同居で有名)を演じたのは大原麗子だった。このあたりから、大原麗子はテレビを仕事のメインにして大女優になっていく。

大河ドラマ「勝海舟」の脚本は、倉本聰さんが担当していた。渡哲也に入れ込んでいた(その後、倉本さんは病気から復帰した渡哲也のために「大都会」を書く)倉本さんは、NHKとトラブルになって嫌気がさし北海道に移住する。これは後の話だが、倉本さんが移住したおかげで富良野が有名になり、国民的ドラマ「北の国から」も生まれるのである。

渡哲也 ベスト&ベスト「勝海舟」を降り、病気療養中だった渡哲也の入院費を支払ってあまりあるヒットを記録したのが「くちなしの花」だった。その年の暮れ、紅白歌合戦に渡哲也は大河ドラマの途中降板を詫びて出演し「くちなしの花」を歌った。当時、友人が「『くちなしの花』を聴くと大原麗子をイメージする」と言っていたが、僕は松原智恵子を連想した。大原麗子には、さびしげで薄幸なイメージはない。彼女からは、いつも力強さを感じた。

●「ロマンチックが、したいなあ」というキャッチコピー

大原麗子さんの逝去のニュースでよく取り上げられていたのは、「少し愛して、なが〜く愛して」というサントリーのCMである。1980年頃から数年にわたって放映されていたと思う。そのシリーズで僕がよく憶えているのは、ポスターで使われたキャッチコピー「ロマンチックが、したいなあ」というもので、確か糸井重里さんの仕事だったはずだ。

脂がのった30半ば、この頃の大原麗子は絶頂期だった。甘えたようなスウィートヴォイスが、見つめる目が、男たちの背筋をゾクゾクさせた。そのCMの大原麗子に反応したわけではなく、純粋にキャッチコピーの「ロマンチックが、したいなあ」が気に入ったので、同僚や先輩と飲むと「ロマンチックが、したいなあ」と僕はしきりにつぶやいていた。

そんなある日、いつものように会社の先輩と飲んでいるとき、怖い先輩で後に広告写真専門誌「コマーシャル・フォト」編集長になるK女史に、「あんたね、あのコピーの意味わかってんの?」と強い口調で問い詰められた。彼女は若い頃から糸井さんとも親交がある人で、広告関係については専門家である。「そう問われると、わかりません」と答えた僕に、K女史は「アレがしたいって、ことなのよ!」と留めを刺した。

「ロマンチックな愚か者」という言葉を過剰に愛し、人生にロマンチックな夢を抱いて生きていた僕は、そのひと言でかなり沈んだ。サディストぎみのK女史は、そんな風に僕が落ち込むのを見たかったに違いない。日常的にも言葉が強い(後年、彼女が部下たちを叱りつけているのを聞いて僕は身が震えた)人で、日常的にも「私はソゴーが嫌いだ」と公言していた。おそらく彼女が嫌ったのは、僕の“甘ちゃん”な部分だったのだと思う。

そんな会社一強い女であったK女史は、ある日、大原麗子さんと対決することになった。K女史は、その頃、CMの現場取材の連載を持っていた。小型カメラとテープレコーダーを持って制作現場に入り、写真を撮り、インタビューし、原稿を書くのである。その仕事は彼女も気に入っているらしく、いつも張り切って取材していた。

そして、サントリーレッドの新作CMも取材することになった。監督は巨匠・市川崑さん(取材後にK女史に確認したら、やはりずっとタバコを歯の間に挟んでいたそうだ)である。場所は、東宝あたりの撮影所のスタジオだった。もちろん、出演するのは大女優の風格が出てきた大原麗子さんである。しかし、K女史がそんなものに怖れを抱くわけがない。

ところが、大原麗子さんは強かった。スタジオで市川監督に演出され、ムービーキャメラに向かって演技をしていた大原さんは、小型カメラを向けるK女史の存在を知ると、「私を写しているカメラがふたつある。私はどっちを意識すればいいの!」と語気鋭く言い放ったという。つまり、女優としての意識が分散される、早い話が気が散って演技に集中できない、と抗議したのである。

それほどはっきりと言われると、さすがのK女史も何も言えず、取材用のカメラをバッグに仕舞うしかなかったという。珍しく落ち込んだ様子で、その話をするK女史に、内心では「たまにはギャフンと言わされた方が…」とほくそ笑みながら、僕は「まあまあ、飲みましょう」と彼女のグラスにビールを注いだものだった。

居酒屋兆治 [DVD]しかし、そのときにK女史に聞いたエピソードから、僕は大原麗子の女優魂みたいなものを感じた。案外、映画では代表作が少ない人だが、印象的な役として記憶に残るのは、高倉健がほとんどセリフを言わず彼女自身の出番も少ないけれど「居酒屋兆治」(1983年)と、市川崑監督作品で主演の吉永小百合と男を取り合う芸者役だった「おはん」(1984年)を僕は挙げたい。

加藤登紀子の名曲「時代遅れの酒場」を健さんが渋い声で歌い、「兆治さん、あなたが悪いのよ」と囁くような大原麗子のナレーションがかぶさる「居酒屋兆治」のテレビスポットを僕は甦らせる。彼女の声が、僕の耳の奥に刻み込まれているのだ。あんな風に囁かれたら、ストイシズムの化けもののような健さんと違って、僕は何でも言うことを聞くだろう。それほどの力を持つスウィートヴォイスだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
大原麗子さんの原稿を書いていたら、山城新伍さんの訃報が報道されました。同じ東映の役者だったふたりは、「不良番長」シリーズなどでも共演しています。山城さんについては、改めて書きます。主演作はあまりない人でしたが、映画が好きでたまらないのが伝わってきました。それに、硬派な論客でもありました。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
star特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 重犯罪特捜班 / ザ・セブン・アップス [DVD] 仁義 [DVD] ハリーとトント [DVD] 狼は天使の匂い [DVD]

by G-Tools , 2009/08/21