映画と夜と音楽と...[502]おめおめと生き恥を晒して.../十河 進

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〈ニューメシネマ・パラダイス/酔いがさめたら、うちへ帰ろう。/毎日かあさん/ロード・ジム〉

●「辞めてやらあ」と会社を飛び出した22年前のこと

20年勤めて、初めてリフレッシュ休暇をもらったときのことだ。社内の全員に向かっての挨拶で「何度も...というべきか、何度か...というべきか、辞めようと思いましたが、辞めるほどの度胸も才能もなく、おめおめと20年勤めてしまいました」と切り出した。挨拶する僕の背後には当時の社長が立っていたのだが、どんな顔をして聞いていたのかはわからない。

思い出すと冷汗が出る。若気の至りではない。もう40をいくつも出た歳だった。その数年前に「辞めてやらあ、こんな会社」と怒鳴り散らして机を蹴り、会社を飛び出したことを思い出す。そこまで言って辞めなかったのだから、本人は「おめおめと生き恥晒している」気分だった。現在から数えればリフレッシュ休暇をもらったのが17年前、会社を飛び出したのが22年前になる。

そのとき僕が納得できなかったのは、何の根まわしもなく(それまでは事前にそれとなく本人の意思確認があった)寝耳に水の異動命令だったこと、自分のキャリアや人脈がまったく生かされないジャンルに異動させられること、異動先の編集部は創刊誌を立ち上げたばかりなのに4人のスタッフのうち上のふたりが入れ替わること、などだった。僕は写真雑誌の平編集者だったが、いきなり右も左もわからないビデオ誌の編集長を命じられたのである。

当時は、ビデオカメラが全盛だった。そのため、僕の会社は撮影を中心にしたビデオ誌を創刊した。業界が元気でふたつの陣営が競っていたから、広告だって期待できた。1985年にソニーが8ミリビデオを出し、ビクターはVHSにこだわって8ミリテープ並の大きさのVHSテープで撮影できる小型カメラを発売していた。それぞれにグループを作り、競合していたのである。

しかし、そんなことは写真雑誌を編集していた僕には何の興味もなかった。僕は30過ぎまでは「小型映画」という雑誌の編集部にいたから、フィルム・ムービーについてはそれなりに知識があったけれど、「小型映画」はビデオの台頭によって休刊に追い込まれたのである。休刊前の一年ほど、僕はビデオの記事を2頁だけ作って連載したが、「ビデオの記事は載せるな」という読者の声が凄かった。


「小型映画」が休刊になって8年が過ぎていた。自分が担当していた雑誌がなくなるほど、編集者にとって屈辱的なことはない。僕が何となく「ビデオは仇」という意識を持ったのも無理はないと思う。それに、僕はフィルムのテイストが好きだった。電気信号はどうしても好きにはなれなかったし、ビデオアートと称する作品は理解できなかった。

それに、自分で言うのもナンだけれど、僕は写真雑誌に8年いて人脈もかなりできたし、毎号のように特集を担当していたし、雑誌は右肩上がりで伸びていたし、充実した編集者生活を送っていたのである。毎日、電車の中で「次はあの企画をやりたいな」と頭の中で頁のイメージを浮かべては、ほくそ笑んでいたのである。

その頃の分厚いシステム手帖を見ると、細かな字で企画メモが書かれ、実際の頁のイメージをミニラフで描いている。それを書いたのが自分だとは信じられないほど、熱気が伝わってくる。僕は30代後半だった。それが、40を目前にして、まったく知識のないジャンルの雑誌、人脈も筆者のあてもまったくない、そんな世界への異動を、突然「業務命令」として言い渡されたのである。

さらに僕が激高したのは、創刊誌を作った編集長と副編集長の異動である。同じ編集者として、その無念さはよくわかった。「創刊3号から編集長として入れとは、創刊誌の否定ですよね。『きみのセンスを生かしてくれ』と言うのなら、なぜ創刊スタッフとして呼ばなかったんですか」と、今から考えれば上司を困らせる部下ではあった。実際、ほとんど怒ることがなく人のいい上司のYさんは、血相を変えた僕を前に困惑するばかりだった。

●会社を飛び出した翌々日のロケで出会った鴨志田くんのこと

「辞めてやる」と会社を飛び出す前から、僕は翌日の休暇届を出していた。会社を飛び出した後、僕は連載でタイアップをもらっていた企業に次号の打ち合わせで出向き、そのまま直帰し、翌日は休暇を取った。その日、人事のゴタゴタから逃げるように銀座に出て、シネスイッチで見たのが「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)だった。その辺のことは「犬よりましな人生」(「映画がなければ生きていけない」第一巻78頁参照)などで何度か書いている。

会社を飛び出した二日目は、以前から予定していたロケだった。僕はロケに直行し、そのままスタッフと打ち上げをやって会社には出なかった。そのときカメラマンの加藤孝のアシスタントをやっていたのが、後にマンガ家の西原さんと結婚することになる鴨志田くんだった。彼は「ニュー・シネマ・パラダイス」に感激して、生まれた国を出る決意をしたと語った。アジアにいくのだと言う。

その後、鴨志田くんはアジアへいき、日本からきた女性マンガ家と出会って結婚したと風の噂で聞いたのだが、僕は西原理恵子さんのマンガを読んだことがなかったので、相手が西原さんだとは加藤くんに教えられるまで知らなかった。鴨志田くんは「アジアパー伝」などの著作を上梓し、小説「酔いがさめたら、家に帰ろう。」を出した少し後に亡くなった。

昨年、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」(2010年)が公開になった後、「毎日かあさん」(2011年)も映画化され、鴨志田くんの役を浅野忠信と永瀬正敏が続けて演じた。まあ、今の日本の俳優の中では順当な配役だと思う。鴨志田くんはアルコール依存症になり、離婚し、矯正施設に入り、退院して家族の元に帰ったが、すでにガンに冒されていた...。それをふたりの俳優が別々の作品で演じたのだ。

一日ロケで付き合っただけの鴨志田くんのことをよく憶えているのは、鴨志田くんとロケ地へ向かう車の中で「ニュー・シネマ・パラダイス」がいかに素晴らしい映画かと盛り上がったからだ。それから僕は、期限切れが近いけれどメーカーにもらったトライXが編集部にたくさんあるので、よければ差し上げると言い、後日、鴨志田くんは会社に受け取りにきた。

もっとも、加藤くんに言わせると僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」の話より、人事異動の話ばかりしていたという。確かに不満を言い募っていたのだろう。そのロケのモデルは碇さんというボーイッシュな美人だった(当時放映中のコカ・コーラのCMに出ていた)のだが、ひと月ほど後に加藤くんが再び彼女と仕事をしたとき、「ソゴーさん、会社辞めました?」と心配そうに訊ねたそうだ。

●自分が非難した人間と同じ行動を取ってしまったみじめさ

大言壮語しながら、結局、日和ってしまうのが多くの人間の結末なのだが、僕も「こんな会社辞めてやる」と大騒ぎしたくせに、それからも同じ会社に勤め続けた。自虐的に言えば、生き恥を晒しているという気分がまったくないわけではない。それだけに「会社に貸しは作っても、借りは作らねぇぞ」という強がりで精神的なバランスを取り、勤め人生活を送ってきた。まあ、そういうバカで身勝手な人間を飼ってくれる会社ではあったのだけれど...。

人間は弱い。一時の感情に駆られて大口を叩いても、冷静になっていろいろ考えると、宣言を撤回しなくてはならない場合もある。屈辱的だし、何しろみっともない。言ったことをきちんと実行するのは首尾一貫していてかっこよいが、口ばかりで実行しないのは信用をなくす。おまけに言い訳など始めたら、恥の上塗り、周りからは軽蔑を通り越して憐れみの視線さえ注がれるだろう。

僕が中学生の頃に封切られた「ロード・ジム」(1965年)という映画がある。「アラビアのロレンス」(1962年)で一躍、国際的映画スターになったピーター・オトゥールを起用し、「アラビアのロレンス」の二番煎じを狙った作品である。オトゥールが演じたジムは心の傷を持つ複雑な主人公だが、やがて英雄になる。そのキャラクターはロレンスに近い。原作はジョセフ・コンラッド。世界文学全集に入るほどの作家で、自らの船員経験を生かし海洋を舞台にすることが多かった。

ちなみに、ジョセフ・コンラッド原作の映画化作品を調べてみたら、意外に多い。「地獄の黙示録」(1979年)の原作「闇の奥」は有名だが、リドリー・スコット監督のデビュー作「デュエリスト/決闘者」(1977年)もコンラッドの原作だった。「卑怯者」(1925年)という古い映画もあった。もしかしたら、これは「ロード・ジム」を原作にしているのだろうか。

ジムは卑怯者である。船員として客船に乗って海に出るが、その船が座礁し、救命ボートだけでは船客を乗せられないため、白人の船員たちは自分たちだけで逃げようとする。ジムはそれを拒否し仲間を非難するが、結局、船が沈没しそうになると、数百人の船客(彼らはほとんどがアジア人で、白人の船員たちは露骨に差別している)を見捨てて自分も逃げてしまう。

その後のジムは、自分は卑怯者だという声を常に聞いていたに違いない。責め続ける己の声からは逃れようもない。彼は船客たちを見殺しにしようとする仲間の船員たちを責めながら、結局、自分も命惜しさで救命ボートに乗ってしまったがために、より自らを責め続けるしかないのだ。彼は、己が非難した恥ずべき行為を行った。言うこととやったことが正反対なのである。それだったら良心の呵責もなく、船客たちを残して逃げようとした卑怯な船員たちの方がマシではないか。

彼は、世界を放浪する。それは逃亡だったのか、あるいは、自分が卑怯者ではないことを証明する場を求めていたのだろうか。どちらにしろ、その間のジムは生き恥を晒している気分だったろう。そういう意味では、死に場所を求める放浪だったのかもしれない。そして、その場所をある南の島で見付けたジムは、島民たちの解放に尽くし、英雄的行為を行うのだ。

「ロード・ジム」には、我らが伊丹十三(当時は「一三」だった)が出演している。イギリスのジェームス・メイスン、ドイツのクルト・ユルゲンスなどと一緒である。ただし、彼が演じたのは南の島の村民の役だった。「ロード・ジム」撮影中にオトゥールから聞いたという「アラビアのロレンス」の裏話は、伊丹十三のエッセイ集で読んだ。オトゥールはデビッド・リーン監督の厳しさをぼやいていた。

●大口を叩いたくせにおめおめと勤め続けてきたのは...

ジムは何百人もの船客を見殺しにすることを非難していたのに、自分も同じことをやってしまったために苦しみ、やがて南の島の島民たちのために英雄的行為を行う。しかし、それで彼の卑怯な行為が帳消しになるわけではない。卑劣な行為は卑劣な行為として残っている。結局、自分は卑怯者ではないことを証明したいために、彼は英雄的行為を行うわけだから、厳しい言い方をすれば、それはジムの自己満足に過ぎない。ジムが精神的バランスを取るための行為である。

ジムのようなタイプの人物は、多くの映画で描かれてきた。ハリウッド映画では主人公が卑怯者では困るので、脇役にジムのような設定の人物がよく登場した。昔、卑怯未練なことをやって後ろ指を指されながら生き恥を晒している男である。彼は、ある日、英雄的な行為を行い卑怯者の汚名を晴らす。彼らの行為の多くは、「再生」という積極的な意味で描かれる。誇りや自尊心を取り戻し、自分が臆病な卑怯者でなかったと己に証明して死んでいくのである。

さて、僕の場合、大口を叩いた以上、きちんと辞表を出し、フリーになって売れっ子編集者になるか、編集プロダクションでも立ち上げてメジャーな仕事を請け負い、会社を発展させるかできていれば、かなりかっこよかったし、精神的にもバランスが取れたと思う。

しかし、挨拶でも言ったように「組織を離れてやっていける才能も度胸もなく」僕は組織に残ることを選択し、おめおめと生き恥を晒してきたのである。今でも、あのとき辞めていればどうなっていたんだろう、と夢想することはあるが、それは意味のないことだ。

あのときのことを思い出すと、出社しないまま三日目になった朝、写真家の管洋志さんの事務所を訪ねる己の姿が浮かんでくる。前からの約束だった。打ち合わせで訪ねたのだと思う。いつも約束した時間ぴったりに姿を現す僕を見て、管さんは「時計みたいな奴だな」と言った。

あの当時、管さんの事務所は講談社と大通りを挟んだ向かいのマンションの裏にあった。事務所の前には、愛車のシトロエンが駐車してあった。夜、ときどき管さんの事務所で呑んでいると、講談社の編集者が「やあやあ」と顔を出したりしていた頃のことだ。

管さんに初めて会ったのは入社してすぐだったが、管さんの記憶にはないだろう。その後、何度か会ってはいたけれど、編集者として本格的につきあい始めたのは、僕が30を過ぎて写真雑誌の編集部に異動になってからである。作品を借りにいったり取材をしたりするうちに、僕を信頼してくれるようになった。

管さんに土門拳賞内定の知らせがあった夜、僕にうれしそうな電話が入り、先輩のHさんと三人で呑んだ。そんな大事な記念の夜に呼んでもらったことが僕はうれしかった。管さんは多くの編集者とつきあいがあったし、ほとんどがメジャーな出版社に勤めていた。

その日、管さんの事務所で打ち合わせを終えた後、「今日で三日、会社に顔を出してないんです」と僕は言った。その途端、堰を切ったように会社の異動人事に対する不満が噴き出した。そんな僕の愚痴ともぼやきとも取れる話を、管さんはイヤな顔をせず真剣に耳を傾けてくれた。しばらくして、管さんが口を開いた。

──辞めるんなら、いくらでも仕事は紹介してやるよ。おまえくらいのキャリアと実力があれば、いくらでも仕事はくるよ。それに写真について、よくわかってる。そういう編集者は少ないんだ。

管さんの仕事は講談社を始め、大手の出版社が中心だった。週刊誌、月刊誌など、仕事の数も多い。僕は管さんの事務所で紹介された、「週刊現代」や「月刊現代」の編集者たちを思い浮かべた。そんな雑誌でライター稼業をやるのも悪くないなという考えが、一瞬、脳裏をよぎった。

──しかしな...、辞めるのはいつでも辞められる。「辞める」と言って、撤回できるのは一度だけだぞ。編集者として、おまえのことは買ってる。とらえどころがないところもあるが、写真を見る眼はあるし、企画力もある。約束は守る。それに、会社の言うことだけを聞く編集者じゃない。組織にそういう人間がいるだけで、カメラマンは心強いんだよ。どこの編集部にいようとな...。

管さんの声は低くて口跡がよく、言葉は明瞭だ。喋り方も僕と違って落ち着きがあり、ナレーターとしてもプロの仕事ができるくらいだ。耳に心地よく響き、じっくりと心に沁みる声である。その声で言われたから、余計に何かが伝わってきた。そのとき「生き恥...晒してみるか」と、僕は心を決めたのかもしれない。以来、おめおめと...と下唇を噛みながら、己の人生を幾分でも筋の通ったものにしようとあがいている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
児玉清さんの「週刊ブックレビュー」は好きだった。亡くなって夫人と出演した映像が流れていて、おっ、と思ったのは、奥さんが北川町子さんだったこと。昔の東宝映画にはよく出ていた。成瀬巳喜男監督の「女が階段を上る時」にはホステスの役で出ていたなあ。懐かしいぞ。

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