映画と夜と音楽と...[524]親を喪う・子を棄てる
── 十河 進 ──

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〈冬の小鳥〉

●記憶の中の伯母は貫禄のある体型でどっしりと座っていた

初秋の頃、故郷から訃報が届いた。父の姉で、僕には伯母に当たる人だ。父は女一人、男四人兄弟の次男である。伯母は長女で祖母の最初の子供だったから、僕の父より数歳は上になる。おそらく、90を超えていたと思う(僕は正確な年齢を知らないのだ)。年賀状だけはやりとりしていて、今年の正月にも年賀状が届いた。元気だと思っていたから、訃報は突然だった。

伯母と最後に会ったのは、父方の祖母の告別式だった。もう20数年前になる。元気なときの姿しか憶えていないので、僕の中ではいつまでも伯母は歳を取らない。子供の頃には、ずいぶん可愛がってもらった。母は電話で「無理して帰らなくてもいいから、香典はおまえの名前で出しておくよ」と言った。僕はその言葉に甘えてしまったけれど、後から悔いる気持ちが湧いた。

先日、四十九日の法要が終わり、香典返しが届いた。喪主は見慣れない名前である。伯母にはセッチャンという娘しかいなくて、セッチャンは婿を取った。そのご主人が喪主なのだが、セッチャンの結婚式の記憶はあるのに、お婿さんには会った記憶がない。セッチャンは僕が子供の頃すでに年頃で、イトコたちの最年長だった。セッチャンは、もしかしたら70歳くらいになっているのだろうか。

数年前、伯母から何かのお祝いを送ってもらった。そのとき、久しぶりに長い礼状を書いた。50年も昔のことを思い出して書き、それが印象的だったらしく、法事で「ムーちゃんに、ええ手紙もろた」と伯母に言われたと、帰省したとき母から聞かされた。苗字はみんな同じだから、僕は子供の頃、親戚の人たちに「ムーちゃん」と呼ばれていた。「ススムちゃん」が縮まったのだ。




僕の記憶の中の伯母は貫禄のある体型をして、いつもどっしりと座敷に座っていた。伯母の家は旧家の佇まいで、何畳かわからないほど広い座敷があった。ふすまを開け放って、仏間と居間を続けていたのかもしれない。香典返しに添えられていた薄墨で印刷された挨拶状を読んでいたら、その広い座敷の真ん中に敷いた布団の上で、困った顔をしている伯母の姿が浮かんできた。

あれは、小学校に上がる前のこと、僕は6歳だった。ひとりで伯母の家に泊まったときのことである。それまで父母や兄と一緒に泊まったことはあったが、ひとりで泊まるのは初めてだった。どうしてそういうことになったのだろう。僕は伯母に懐いていたから、伯母が我が家を訪ねてきて帰るとき「一緒にくるかい?」と聞かれ、「うん」とでも答えたのだろう。我が家は市内にあり、伯母の家はバスで一時間近くかかる田舎だった。

伯母の家は敷地も広く、農機具を入れておく納屋も大きかった。時代劇に出てくるような屋根の付いた長い渡り廊下があり、その先に離れがあった。その離れではセッチャンが暮らしていた。その夜、僕は伯母と一緒に床に就いた。どれほど経った頃だろうか、僕は寝ぼけて目を覚まし、両親が横にいないことに驚き、世界が失われたほどの心細さを感じた。それから、「家に帰りたい」と泣き出した。

──あのときは往生したで。いつまでも泣きやまんし。お父ちゃんに迎えにきてもらおうか思ても、まだ電話も車もない時代やったし...。

後年、僕の顔を見ると、伯母はよくそんな話をした。伯母は男の子を扱いなれていなかったから、よほど困惑したのかもしれない。伯母を困らせたのは悪いと思うけれど、僕はあのとき感じた心細さを今でもよく憶えている。いつも身近にいるはずの父母がいなかった。世界が喪われてしまったようだった。あのときの不安と心細さ...を、僕は今でも甦らせることができる。

●親に保護されている実感があるから子供は安心して眠れる

幼い子供にとって、親は絶対の存在だ。自分を守ってくれる者は、親しかいない。絶対的保護者である。親に保護されている実感があるから、子供は安心して眠れる。その親がどこかへいってしまうかもしれないという怖れがあれば、何度も何度も目を覚まして親の存在を確認し、少しでも姿が見えなければ小さな心の中に不安が広がる。世界がなくなってしまうような心細さに震える。

フランスと韓国の資本で制作された「冬の小鳥」(2009年)の少女ジニの至福の瞬間は、父親の背中に顔をこすりつけるようにして眠ることだった。パリにひとりで到着したジニの脳裏によぎったのも、父親が漕ぐ自転車の荷台に乗り父親の大きな背中に頬をすりつけている自分の姿だった。生まれてから9年間、彼女が最も幸せだったときに違いない。父親に庇護され、心安らかに生きていた...。

冒頭のシーンも父親の漕ぐ自転車の前に乗り、風を切って走るジニの姿だ。その幸せそうな笑顔がたまらない。人は幼い頃、こんな風に安心しきって身をゆだねていたのだ。これほど親を信頼し、その愛を絶対のものだと信じ、至福の表情を浮かべていたのだ。9歳のジニがどれほど父親を好きかということが、スクリーンから伝わってきた。

ジニは父親に新しい洋服や靴を買ってもらい、食堂の座敷で向かい合って食事をする。父親が呑んでいる酒を「少しちょうだい」とねだり、杯に口を付ける。「歌ってあげるね」と言って大人びた歌を口ずさむ。その夜、目を覚ましたジニは、並んで寝ている父親の背中に抱きつき、身をすりつけるようにする。そのとき、頭のいいジニにはわかっていたのだ。もしかしたら、この父親が自分から去ってしまうかもしれないことを...

翌日、父親とジニは一緒に出かける。尿意を催したジニがバスを降りて田んぼの干し草の陰に隠れる。バスに帰ろうとして新しい靴を泥で汚してしまうと、父親が水道でキレイに洗ってくれる。ジニは父に抱きつく。次のシーンは、ケーキ屋で大きなデコレーションケーキを選んでいるジニだ。父親が「一番おいしそうなのを選べばいい」と言う。

小さなジニが大きなケーキの箱を抱えて田舎道を歩いていく。隣を歩く父親。父親の顔は一度も映らない。ジニの視点で描かれる父親は、いつも背中や大きな体ばかり。やがてジニと父親の前方に鉄の格子で造られた門が見えてくる。門の内側で、黒縁メガネの男と尼僧姿の女性が待っている。格子越しに見えるのは広い中庭であり、教会のような建物である。

黒縁メガネの男は、そこの所長だった。所長室に入る瞬間、一度だけ父親の顔が映る。その視線がジニに刻み込まれる。若い尼僧がジニを他の女の子たちのところに連れていく。年嵩の女の子が寄ってくる。彼女が話しかけてもジニは答えない。ジニが門に走ると、父親を見送った所長が引き上げてくる。父親は、すでに遠くに去っている。ジニは小さくなった父の背中を無言で見送る。

ジニは棄てられたのだ。そこはカトリック系の養護施設であり、親に棄てられた女の子たちが生活している。ジニはわかっている。だが、その事実を彼女は信じたくないし、信じようとしない。「私は親のない子じゃない。家だってある。お父さんは迎えにくると言った」と言い張る。「家に電話したい」と所長に訴える。施設を抜け出そうと、忍び返しの付いた門をよじ登る。

●幼い少女にとって親に棄てられることは世界の崩壊に等しい

「冬の小鳥」の時代設定は、1975年だった。なぜその時代を選んだのだろうと思っていたが、この映画が監督の自伝的な作品だと知って納得した。監督のウニー・ルコントは、1975年に9歳でカトリック系の養護施設に預けられたのだろう。彼女のこだわりが、年代の設定にあるに違いない。彼女にとっては、1975年の物語でなければならなかったのだ。

ウニー・ルコントは、「冬の小鳥」が初監督作品だという。この物語を作らなければ、彼女は次に進めなかった。そんな気持ちが伝わってくる。舞台は、ほとんど養護施設の中だけであり、ジニの視点で世界が描かれていく。徹底した私映画なのかもしれない。そこにはジニの悲しみがあり、戸惑いがあり、悔しさがあり、希望があり、失意と絶望がある。それらが静かに描き出され、見る者の心を打つ。

幼い少女にとって、親に棄てられることは世界の崩壊に等しい。彼女を愛し、守っていたものが喪失する。それは生きていた世界がなくなることである。自分を最後に見つめた父親の目がジニには忘れられない。父親は迎えにくる。自分を愛している。擁護施設に預けるわけがない。新しい母親と弟ができたのだとしても、自分をこんなところに置き去りにするはずがない。

ジニは施設になじまない。子供たちの面倒を見ている下働きのおばさんは、そんな子供を見続けてきたのだろう。厳しい現実をジニに自覚させるために、「甘ったれるんじゃないよ」と叱咤する。少し年上のスッキという少女が、そんなジニをかばい面倒を見る。それはスッキが夜中にひとりで血の付いた下着を洗っているところを、ジニに見られたからかもしれない。

ジニには生理の知識がない。スッキに「誰かに言ったらひどいからね」と言われ、「病院にいかなくていいの?」と心配する。「生理よ。でも生理が始まったら引き取り手がいなくなるの」とスッキは言う。そのカトリック系養護施設は、世界中に養子を斡旋しているのだが、やはり幼い子供の方が引き取り手が多い。生理になるほどの歳の子は、養子として人気がないのだ。

その施設で育った子供たちの中に、ひとり飛び抜けて年嵩の少女がいる。もう娘と言ってよい年令だ。彼女は下働きのおばさんの補佐をするような立場で、子供たちの面倒を見ている。彼女は養子先が見付からないまま、その歳になってしまった。その理由は語られないが、見ればわかる。彼女は一歩足を踏み出すたびに、大きく体を左右に振る。足が不自由なのだ。

その足の不自由な少女が、施設に出入りする若い商人に恋をする。その挿話も、ジニの視点で描かれる。ある日、ジニとスッキは怪我をした小鳥を拾い、中庭の隅の藪の中に隠す。食堂から盗んだ餌をやっているとき、ジニとスッキは足の悪い少女が若い商人に手紙を渡すのを目撃する。数日後、スッキは商人から手紙を渡してほしいと預かり、足の悪い少女に渡す。

●余計な説明をしないことで観客の胸に熱い想いが届く

「冬の小鳥」は監督の体験がベースになっているからだろう、9歳のジニの視点が守られ、余計な説明をしないことで観客の胸にダイレクトに熱い想いが届く。説明しないからといって、わかりにくいことなどはない。ジニが目撃したこと、それを描くだけで何が起こっているのかはわかるし、その人物の気持ちが伝わってくるのである。

自分の中に閉じ籠もり心を開かず、いつか父親が迎えにくると信じ(自分に言い聞かせ)、養子を選びにきたアメリカ人夫婦の質問にも(私を選ばないで...と)無表情のまま何も答えなかったジニだが、「私はアメリカへいって、医者になる」というスッキには徐々に心を開く。「一緒にアメリカにいこう」と言うスッキと指切りをする。

スッキは、養子を選びにきたアメリカ人夫婦に積極的に自分をアピールする。英語で話しかける。愛嬌を振りまく。私を選んで...と露骨だが、その積極さが成功する。ある日、ジニはスッキを待っている。しかし、スッキはいつまで経っても帰ってこない。下働きのおばさんに訊くと、「里親候補のアメリカ人夫婦のところに泊まるのよ」と教えられる。

スッキが養子になり、アメリカにいくことが決まる。「ごめんね」とスッキがジニに詫びる。養子にいく子を施設の全員が並んで見送るときに、いつも歌う歌がある。去っていくスッキを見ながら、ジニだけが歌っていない。スッキが去り、日曜日のミサにみんなが出かけた留守、ジニは庭の隅の小さな十字架を抜き掘り返す。それは死んだ小鳥を、スッキと一緒に埋めた墓だった。

ジニは、黙々と地面を掘り返す。深い穴を掘る。その穴に自らの身を横たえ、土をかける。下半身が埋まる。腰が埋まり、上半身が埋まる。それに続く場面で僕は声を挙げた。ジニは両手で土をかけ、自分の頭まで埋めてしまうのだ。ジニの体がすべて土の下に隠れる。カメラはその様子をじっと写し続ける。ジニの絶望が伝わってくる。明確な自殺の意志だったのかどうか...は、わからない。

なぜ、それほどまでの絶望を、年端もいかない女の子が味あわねばならないのか。子供にとっては神のごとき存在である親。絶対的な保護者であるべき親が、子を棄てる。虐待し、殺しさえする。それは昔からあったことかもしれない。しかし、親に棄てられ、親を喪った子供の絶望の深さを想像したことはあるのか。幼児虐待などのニュースを聞く度に湧き起こる、深い怒りを内在させた想いが僕の身のうちに膨らんだ。

●子に棄てられるさみしさを含んだ喜びと子を喪う深い悲しみ

──親を棄ててこそ子供は育つ。

昔、そんなことを書いた記憶がある。今でも、そう思っている。精神的な意味で「親を棄てる」ことは、子供が独立するために通過すべき必要な過程だ。子供だけが親を棄てる権利を持つ。親はそれを赦し、歓迎さえする。それが親の愛情だ。子供が独立し、大人として生きていることを確認すれば、親は子供に顧みられなくなってもかまわない。少しはさみしい思いをするだろうが、それが親の願いだ。

親にとって最大の悲しみは、子を喪うことである。子に先立たれた親の深い悲しみを、大江健三郎は「人生の親戚」と名付けた。昔、80を過ぎた老優がマスコミのカメラの砲列の前で、60近くで死んだ息子の名を呼び慟哭するのを見たことがある。60近くまで生きたとしても、子供に先立たれるのは耐えられないのだとそのときに思ったが、今の僕にはその悲しみが想像できる。

それでも、子を棄てる親はいる。親を喪う子供がいる。11月6日付の朝日新聞が「養子という選択」のテーマで特集を組んでいた。何らかの理由で実の親と暮らせない子供たちを育てる養子制度について、世界各国の現状を取材していた。日本では養護施設に入る形が多いのだが、アメリカは養子大国だという。アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット夫妻もアジアの子を何人も養子にしている。

韓国もレポートされていた。「朝鮮戦争以来、韓国から多くの子どもが養子として米国など海外に渡った。その数は1980年代には年8000人を超えた」という。「冬の小鳥」の監督ウニー・ルコントもそのひとりだった。ジニのようにフランスの老夫婦にもらわれ、フランス人として育った国際養子のひとりである。彼女もジニのようにひとりで飛行機に乗り、パリに着いたのだろうか。

朝日新聞の記事によれば、「日本には、何らかの事情で実親と暮らせない子が4万人以上いる」という。実の親と暮らしていても虐待されている子もいるだろう。幼い子は、保護者がいなくては生きていけない。保護がなければ、子供たちはすぐに不幸になる脆い存在だ。それなのに、不幸な子供たちで世界はあふれている。大人たちの争いが子供たちを不幸にし、飢餓や病気や死を呼び寄せる。

「冬の小鳥」は少女の至福の笑顔から始まる。しかし、父親が去った後、彼女は一度も笑みを浮かべない。父の背中にもたれ安心しきって眠れる時代が、二度と戻ってこないことを少女は知った。幼い頃、可愛がってくれた伯母と寝ていたのに、親がいないだけで感じた心細さと不安があれほど僕を悲しませたのだ。親に棄てられた子の悲しみがどれほどのものか、「冬の小鳥」は教えてくれる。

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