[3188] 子役のけなげさが胸を打つ

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《平成ええじゃないか運動》

■映画と夜と音楽と...[529]
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 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[529]
子役のけなげさが胸を打つ

十河 進
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〈がめつい奴/くちづけ/娘・妻・母/女の座/乱れる/サザエさん/月光仮面 魔人(サタン)の爪/赤ひげ/警察日記/日本の黒い夏 冤罪/がんばれ!!タブチくん!!〉

●中山千夏さんの「蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち」という本

先日、和田誠さんの「五・七・五交友録」を読み終え、今は中山千夏さんの「蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち」という本を読んでいる。和田誠さんの「五・七・五交友録」には、当然、中山千夏さんも登場した。和田さんが自分の俳句とのかかわりの歴史を語り、俳句仲間のことを書いた本だ。中山千夏さんも和田さんの俳句の会のメンバーである。

以前に書いたことがあるけれど、僕は和田さんが俳句の会を開催している現場を覗き見たことがある。20年近く前のこと。六本木の料理屋だった。あれは、白鳥真太郎さんが博報堂写真部を辞めてフリーになり、初めての大がかりな写真展を六本木で開いたときだったと思う。そのオープニングパーティーの帰り、当時の上司に誘われて僕はその料理屋に入った。

隅のテーブルに上司と向かい合って腰掛け、まず一杯とビールグラスを空けた後、ふっと見渡すと奥の座敷に和田誠さんの顔が見えた。10人近くの人がいた。冨士眞奈美さんが目立った。中山千夏さんもいた。顔がわかったのはそれくらいの人だった。矢崎泰久さんもいたのかもしれない。「和田さんの俳句の会ですね」と、僕は上司に小声で言った。上司が座敷を振り返った。

かなり時間が経った頃、座敷からひとりの男性が席を立った。コートを着て、靴を履く。その男性を見て僕は瞬間的に立ち上がった。普段、そんなことはしないのだが、そのときは酔っていたこともあったのだろう。その男性は間違いなく渡辺武信さんであり、渡辺さんの顔が判別できる人間がそんなにいるとは思えないが、僕にはわかった。それほど渡辺さんの映画評論や詩や建築エッセイを読み込んでいたのだ。

「渡辺武信さんでいらっしゃいますね」と僕が声をかけると、渡辺さんは怪訝そうな顔をして「ええ」と答えた。「『日活アクションの華麗な世界』、キネ旬連載のときから愛読させていただいています。もちろん詩集も建築の本も...」と僕が言ったとき、奥の座敷から「何だ、何だ」という感じで全員がやってきた。渡辺さんが酔っぱらいにからまれていると思ったのだろう。

和田誠さんが先頭だった。その横で僕を睨んでいるのが中山千夏さんだった。「あっ、ハカセくんだ」とは思わなかった。僕は怯んでいた。一瞬、沈黙があった。渡辺さんが「僕の日活の本、読んでくれているって...」と説明をしてくれる。それでも和田さんと中山さんの目は警戒を解いていなかった。僕は名刺を出して和田さんに渡し、「先日はお世話になりました」と挨拶をした。

僕のそのときの肩書きは、ビデオ雑誌の編集長だった。同じ会社で出しているイラストレーション専門誌が「和田誠特集号」を出したばかりだった。和田さんは僕の名刺を見て「ああ、......社の人」とつぶやき、ようやく誤解が解けたようだった。それでも中山千夏さんは状況が理解できず、視線は緩まない。子供の頃から有名だから、いろいろイヤなめに遭ってきたのだろうなあ、と僕は思った。

その中山千夏さんの「蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち」が面白い。小説を書けば直木賞候補、立候補すれば参議院議員。才女であり、元々、頭のいい人だとは思っていたが、描写が適切で客観性があり、自己を語る視線にも厳しさがある。若い頃の人に対する狭量を率直に語っているのもいいし、己への甘えのないところに共感する。へぇーというエピソードに充ちていて、読み進むのが惜しいほどだ。

中山千夏さんは、僕の世代だと「ひょっこりひょうたん島」のハカセくんの声でなじみがあるが、本人も記憶が怪しい子役時代の出演作が紹介されている。僕は四国生まれで関西文化圏で育ったから、テレビ草創期も関西系番組になじみがある。佐々十郎、大村昆、茶川一郎と一緒に、中山千夏さんも「やりくりアパート」に出ていたのだと初めて知った。「ミゼット」と連呼する生広告が懐かしい。

●川口隊長のお母さんが主演した「がめつい奴」はロングラン

中山千夏という名前を僕が憶えたのは、「がめつい奴」の舞台中継をテレビで見たときだと思う。1959年(昭和34年)10月5日から翌年の7月17日まで、日比谷の芸術座で公演し、その後、映画版も公開された。僕は8歳だったが、その芝居のことは記憶にある。相当に評判になっていたし、「がめつい」という言葉を全国的に有名にした。

「がめつい奴」の主演は三益愛子である。老け造りにして腰を曲げ、吝嗇なお鹿ばあさんを演じた。僕は増村保造の監督デビュー作「くちづけ」(1957年)や成瀬巳喜男監督の「娘・妻・母」(1960年)「女の座」(1962年)「乱れる」(1964年)などをよく見るので三益愛子はおなじみの女優だが、今の人には「川口隊長のお母さん」と言っても通じないだろうなあ。

「蝶々にエノケン 私が出会った巨星たち」を読んでいて少し意外だったのは、松島トモ子が親友だとあったことだ。もっとも、子役時代に知り合ったのではないらしい。中山千夏は1948年生まれ、松島トモ子は1945年、終戦のひと月ほど前に生まれている。僕の印象だと松島トモ子の方がずっと年上で、早くから子役として出ていたと思っていた。

松島トモ子と言えば、鞍馬天狗の杉作少年役を思い出す。江利チエミ(高倉健の奥さんだった人)主演の実写版「サザエさん」(1956〜57年)シリーズでは、ワカメを演じていた。大村文武主演の「月光仮面 魔人(サタン)の爪」(1958年)にも出ていた記憶がある。あの頃、大きな瞳をクリクリさせた美少女として、松島トモ子はひっぱりだこだったのだ。

松島トモ子の仕事リストを見ていたら「ひょっこりひょうたん島」(1964〜69年)でマリー・キャッチャーネットの声を担当したとあった。もしかしたら、「ひょっこりひょうたん島」の仕事で一緒になり、中山千夏と松島トモ子は親友になったのだろうか。もっとも、僕はマリー・キャッチャーネットというキャラクターが思い出せない。「ひょっこりひょうたん島」は、熱心に見ていたのだが...

●松島トモ子、中山千夏と並んで浮かぶもうひとりの天才子役

松島トモ子、中山千夏という名前が出たら、僕にはもうひとり浮かんでくる子役の名前がある。二木てるみ、である。映画史に残るような代表作を持たない松島トモ子、舞台とテレビが活躍の場だった中山千夏に比べると、彼女にはあの名作がある。あまり黒澤作品が好きではない僕が何度見てもハラハラと落涙する、あの不朽の名作が浮かんでくる。

熱に浮かされながら目だけをギラギラさせ、岡場所の廊下を雑巾でごしごしと何度も同じ所を拭いていた少女おとよ。女郎屋の前でいき倒れになって死んだ母親が連れていた少女である。高熱のある少女を療養所に連れ帰った新出去定は、保本登の最初の患者として彼女を託す。「この子は身体以上に心を病んでおる」と新出は保本に言う。

療養所で目を覚ましたおとよは飛び起き、壁に向かって廊下を拭き始める。おとよにかゆを食べさせようと、保本が差し出すサジをおとよは何度も何度もはねつける。それは息苦しくなるほど繰り返され、最後におとよは保本が持っていたかゆの椀をはねつけ、椀は床に落ちて砕ける。保本が顔を背け、涙を流す。それほどまで大人に気を許せなくなった少女の過酷な過去を思って、保本は本気で泣く。

保本が「おまえは本当に可愛そうな子だなあ」と泣いた翌日、姿を消したおとよを探しに出ると、保本は橋の隅に座り通行人に頭を下げておもらいをしているおとよを見付ける。おとよは、溜まった金で新しい椀を買う。保本はおとよに「私が椀のことでおまえを叱ったかい。もし、そんな風に見えたのならあやまる」と膝をつき、再びさめざめと泣くのである。

僕は今、記憶だけで書いているのだが、書きながらそのシーンが浮かび本当に涙を流してしまった。悔しいが、それだけでも黒澤映画の力を感じる。二木てるみにとって「赤ひげ」(1965年)に出演したことが、どれほどの財産になっていることか。彼女は1949年の生まれ。「赤ひげ」撮影の頃は15才くらいである。公開時、僕が中学二年生だったから、二木てるみはおそらく高校生になったばかりだった。

●名優たちが勢揃いした「警察日記」でも二木てるみが目立つ

「赤ひげ」出演の前から二木てるみは天才子役と言われていた。3歳でデビューし、「警察日記」(1955年)で注目された。僕は「警察日記」を公開時に見たかすかな記憶があるのだが、その物語を理解したのは小学生の頃にテレビ放映されたものを見たときだと思う。6歳で出演した二木てるみより僕は2歳下なのだ。4歳で「警察日記」が理解できたとは思えない。

「警察日記」には、当時の名優たちが勢揃いしている。森繁久弥、十朱久雄、東野英治郎、伊藤雄之助、三島雅夫、杉村春子、沢村貞子など、錚々たる顔ぶれだ。まだ若々しい三國連太郎、新人同然で豊頬手術前の宍戸錠も出ている。岩崎加根子が身を売るしかない貧しい19の娘役で出ており、涙を誘う。彼女に好意を寄せる若い警官が三國である。

舞台は、会津磐梯山近くの田舎の警察署だ。署長(三島雅夫)以下、ベテランの警官たち(十朱久雄、殿山泰治、森繁久弥など)と若手警官(三國や宍戸など)が勤務している。群衆劇で様々な人物が登場する。森繁が演じるのは人情警官だ。ある日、彼は駅で捨て子を保護する。赤ん坊とまだ幼い姉(二木てるみ)である。

二木てるみのセリフはほとんどないが、その表情だけで観客の涙を誘う。弟が警察署でおしっこを漏らし、森繁がおしめを取り替えようとすると、何も言わずに風呂敷包みを差し出す。そこにおしめが入っているのだ。森繁がおしめを取り替えている間、「しげる」という弟の名をつぶやきながら「よしよし」というように胸をやさしく叩く。その仕草に胸が痛む。

引き取ってくれる施設がないまま森繁は赤ん坊を抱き、二木てるみの手を引いてトボトボと歩く。たまたま預かってもいいという割烹旅館の女将(沢村貞子)に甘え赤ん坊だけを預け、二木てるみの手を引いて帰ろうとするとき、幼い娘が後ろ髪を引かれるような表情をする。監督がアップで撮りたくなるような切なさが漂う。哀れを誘う。

僕は「警察日記」がずっと気になっていた。もう一度きちんと見たいと思っていたのだが、なかなか決心が付かない。昔、見終わった後、ひどく悲しくなった記憶があるからだ。その頃は、映画の世界と現実の生活はあまり変わらなかった。多くの人は貧しかったし、子供を棄てる親もいた。だから、「警察日記」で描かれた世界は現実だった。子供だった僕は胸が痛み、もう一度見るのは辛すぎた。

●50を過ぎた二木てるみに出会った「日本の黒い夏 冤罪」

僕のビデオテープのライブラリーに「警察日記」がある。僕が録画したものではない。昔、「出版人の映画の会」の例会に出席していた頃、元出版労連委員長の愛知さんから譲ってもらったものだ。小学館を定年退職した愛知さんは、自宅を新築し映写室を作るほどの映画好きだった。録画を中心にしたテープを数千本持っているという。

ある日の例会で、愛知さんは立派な小冊子を会員に配った。ダブって保有している映画のビデオテープを欲しい人がいれば譲るつもりで、その保有リストを作り小冊子にしたのだ。その膨大なリストを見ていて、僕は「警察日記」に気付いた。「これ、僕、買います」と反射的に口にした。それが、10数年前のことだった。

しかし、僕はテープを買ったものの見るのをためらった。「もう、あんな悲しい、辛い思いはしたくない」という気持ちが僕を押しとどめたのだ。だから、ずっと気になっていたのに見ることはなかった。今回、この原稿を書くので、意を決して50年ぶりくらいに「警察日記」を見直した。NHKで放映されたものだった。

その結果、改めて二木てるみの可愛らしさに打たれた。二木てるみのシーンは多くて、これを見たら誰もが彼女のことを記憶に焼き付けるだろうと思うくらい目立っていた。沢村貞子の旅館と森繁の家と離ればなれに引き取られていたある夜、二木てるみは弟に会うために家を出る。

旅館にたどり着き、女将に「どうしたの」と訊かれ、「しげるちゃん」と口にするシーンで当時の観客は涙をこらえきれなかっただろう。名女優だった沢村貞子も本気で涙を誘われたようにさえ見えた。「動物と子役にはかなわない」という言葉があるが、沢村貞子もそう思っていたかもしれない。

それにしても、当時の貧しさが「警察日記」からは強く伝わってくる。棄てた子供に思いを募らせて警察に現れた母親は、ふたりの子供を引き取って心中するつもりだし、実家の貧しさを救うために岩崎加根子はイヤな男の嫁になる。それが当時は現実だった。そんな中で、幼いながらも「けなげさ」を見せる二木てるみの姿が脳裏に焼き付く。

「赤ひげ」の二木てるみも「けなげに生きる少女」だから、僕の記憶に強く残っているのだ。僕は「貧しくても、けなげに生きる子供たち」と書くだけで、涙ぐみそうになるくらい弱い。子供時代の貧しさは性格の形成によい影響を与えないという研究結果もあるようだが、僕は貧しさは人を育てると思う。逆境は、間違いなく人をはぐくむ。自尊心を持ち、卑屈にならず、けなげに生きていれば、必ず報われると思いたい。

50を過ぎた二木てるみにも、僕は「けなげさ」を感じた。その作品は「日本の黒い夏 冤罪」(2000年)だった。1994年6月27日に松本市でサリンがまかれ、死者8人を出した事件で第一通報者の河野義行さんが重要参考人とされ、ほとんど犯人扱いされたことを題材とした映画である。社会派監督・熊井啓らしく、力のこもった映画だった。

映画で河野さん(名前は神部と変えてある)を演じたのは寺尾聡である。事件当時の過熱報道は僕も現実に見ているが、取材される河野さんの落ち着いた態度に感心した。寺尾聡は、その河野さんの雰囲気をうまく出していた。決して激高せず、常に冷静な態度で終始する。犯人扱いするマスコミにも、きちんと対応する。正反対の性格の僕は、こんな人物になりたいと思った。

その神部の奥さんを演じたのが、上品に歳を重ねた二木てるみだった。サリンで意識不明になるから演技が見られるのは最初のうちだけなのだが、「ああ、二木てるみだあ」と僕はため息をつきそうになった。「警察日記」での幼女の頃から半世紀近くが過ぎたのに、スクリーンから受ける印象はあまりかわらない。やわらかで、やさしそうなイメージだった。

そう言えば僕も大好きで、公開されるたびに見にいっていたアニメシリーズ「がんばれ!!タブチくん!!」(1979〜80年)で、とぼけたミヨ子夫人のふんわりした声を担当していたのは二木てるみだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

暮れに亡くなった内藤陳さんを送る会の日程が決まった。日本冒険小説協会が主催する形だ。2月4日の土曜日、夕方から椿山荘の予定。新聞にも告知が出たから、大勢の人が献杯に訪れるかもしれない。

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過去から現在までの流れを延長することで未来が予測できるのだとしたら、今から30年ぐらい経つと、女子高生はスカート穿かずにパンツ丸出しで歩いているに違いない。まあ、実際にはたぶんそうはならないわけで。

時代の空気の変化は、ある方向性の軸に沿って、なんらかの量(たとえばスカートの丈)が連続的に変わっていくというのではなく、短い期間に雪崩のように質的な転換が訪れるもののようである。難しく言えば、カタストロフィとか、パラダイムシフトとか。だから未来予測は難しい。現在までの流れの延長という方法論は、たいてい裏切られる。

長く生きてると、時代のこの質的変化を振り返って「変わったなぁ」としみじみと感慨に耽る楽しみにあずかれる。今の若者たちは、この時代の空気をあたりまえと思ってるかもしれないけど、割と最近までは全然違う空気が支配してたんだよなぁ、へへー、知らないだろ、やぁーい、みたいな。もっとも、同じことを親の世代もその親の世代も思ったに違いないわけだけど。そのあたりの世代は、私のまったく知らない第二次世界大戦というものを経験しているわけで。今の子供たちは『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たち。

大阪万博の開かれた1970年は、「こんにちはー、こんにちはー」と祝祭ムードで明けた。「'70年という10年区切りでこれほどまで盛り上がってるんだから、2000年になったらきっともう大変な騒ぎになるよね」と人々は口々に言った。けど、2000年は静かに明けた。大方の予想の逆のことを言ってみると、案外当たるのかもしれない。

あるいは逆に、流れを滑稽なまでに極端なところまで延長してみるとか。星新一『テレビショー』(新潮文庫『ようこそ地球さん』に収録)が書かれたのは、今から約50年前、1961のことである。人類からなぜか急速に性欲が失われつつあり、このままでは滅亡かという危機に陥っている。これを危惧した政府は、決まった時間になったら児童を帰宅させ、政府提供の教育番組を見させることを義務づける。それは、ポルノ映像。けど、効果はなく、見た子供たちになんの変化の兆候もみられない、というもの。

私がこれを読んだのは'70年代、中学生のころだったと思うが、さすがにこれは無理があると思った。いかな社会を形成し、文明を築き、文化を培ってきた人類といえども、生物としての基本的な部分は他の動物とそんなに変わるものではなく、こういう部分は時代や環境によって変化したりしないのではないかな、と。今風の技術用語で言えば、OSやアプリケーションソフトウェアは差し替えたりバージョンアップできたりしても、ハードウェアの部分はそうそう変わったりしないだろう、と。

ところがどっこい、今「草食男子」なんてもんがよく話題に上るようになっている。すごーく負けた気分。というか、星新一、スゲー! コラムニスト・編集者の深澤真紀氏が『日経ビジネス』のオンライン版の連載コラム「U35 男子マーケティング図鑑」の中で「草食男子」という言葉を提唱したのは2006年10月のことである。そのくらい最近であれば、さすがに私も「いるいる。そういうタイプのことはときおり耳にするぞ」と共感できたが、一般のオジサン世代からは、「そんなやついるのかよ」という反応が多かったようである。書かれてしばらくは、それほど世に広まらなかった。

松田聖子の『赤いスイートピー』は今から30年前、1982年1月にリリースされた歌で、その歌詞に「何故、知り合った日から半年過ぎてもあなたって手も握らない」とある。これ、草食男子の兆候か、と読みとれなくもない。そういうタイプは昔からいたのかもしれないが、例外的少数だったに違いなく、しかも、受取られ方が違う。今の草食男子は、恋愛対象としては道端の地蔵と大差ない、こんなのが増えては困る、と世の女子たちを苛立たせているようだが、あの歌詞のニュアンスは、がつがつしない、いい人と、ポジティブである。

余談だが、中学・高校を男子校に通い、駿台予備校での一年を経て、大学は理系の学部に進んだ私は、まるで架空のマシンのマニュアルでも読むかのようにこの歌詞を自分にインプットした。先々、もし自分にも番が回ってくることがあったら、半年以内には手ぐらい握っとかないと変に思われるかもしれないのだな、ふむふむ、と。ほぼ他人事。

●なんとかしよう婚活システム

「婚活」という言葉もやはり日経ビジネスオンラインから出てきている。...と思っていたが、今調べてみると、正確には、山田昌弘、白河桃子『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)が出版されたのが2008年2月29日で、それに関連して、3月12日に日経ビジネスオンラインに対談記事が掲載されたのであった。

晩婚化、非婚化の進む流れにあって、ただ待っていても自然にパートナーが見つかったり、誰かが紹介してくれたり、ということがだんだん期待できなくなってきている、だから、就職活動と同じように、本人が意志をもって「婚活」するのがよい、と提唱するものである。それを機会に世に登場した婚活ビジネスも、あれから約4年経って、その存在は割と知れ渡ってきているようである。

しかし、これがあんまりうまくいっていないらしい。成婚率が低調だったり、利用者がサービスにあんまり満足していなかったり。2011年5月11日の asahi.comの記事によると、30歳代の未婚男女の64%は交際相手がいないことが内閣府の調査で判明した、とある。

この傾向は、社会のシステム化が急速に進んでいることと無関係ではないと、私は睨んでいる。どういうことかというと、社会のシステム化にともなって、人々の精神のモードが「花より団子」的というか、「ロマンよりも損得勘定」のようなほうへシフトしてきているような気がするのである。

社会において何らかの問題が発生するのは、システムの不完全性に由来するのであるから、システムの運用ルールの網をきめ細かに取り決め、穴をなくしていくことで、システマティックに問題を撲滅していき、社会がスムーズに回るように整備していくべきだ、という考え方が、今は支配的である。

自動改札システムが完璧ならば、キセル乗車はしようと思ってもできなくなる。だから、教育などによってモラル意識を高める、なんて雲をつかむような方法論に頼らなくても、システムさえちゃんと機能していれば、悪いことは起きなくなる。かくて、モラルという観念は次第に重視されなくなっていく。

モラルに限らず、生きていく上で、志、心意気、根性、美学といった精神論的なものはだんだん脇に追いやられ、代わりに、損得勘定、利便性、楽さ、快適さ、娯楽性、といったプラグマティックな基準のほうがクローズアップされてきている。「それのいったいどこが問題なの?」という面々には、特に差し出がましいことを言いたいわけではないけど、ひそかに、「えっ、それでいいの? 実利や利便性を追求しつづけるだけで、生きていけちゃうの? システム化社会に過適応しちゃってないかい?」と思ったりすることが折々ある。言わないけど。

システムが正しく回っていることが最優先に置かれると、個々の人間は、部品となってシステムを回す役割をこなすだけの、従属物に地位下落してしまう。そんな位置によく過適応しちゃえるなぁ、と私なんぞは思ってしまうのだが、疑問に思わない面々には余計なお世話ですな。しかしながら、もしかすると、適応しているようにみえるのは表面上のことであって、内面の、本人にも意識できないくらいの奥深い領域では、自意識が悲鳴をあげていたりするのかもしれない。

そこを深く掘り下げるのは後回しにして、システム化社会に適応した人々は、精神のモードにおいて、損得勘定や利便性に重きを置くようになっていくとしたら、その陰に隠れて引っ込んでしまう価値基準の中には、思いやり・助け合いの精神、絆・信頼関係、親密さ、などもあるのではあるまいか。細やかな情緒よりも私利私欲。満足感・充足感よりも猜疑心・嫉妬心。こんなモードにスイッチしていては、恋愛とか婚活って、うまくいきそうな感じがまるでしない。

じゃあ、システム化傾向の流れを逆転させ、江戸時代みたいな情緒たっぷりな社会に戻せばいいかというと、きっとそれは無理な話。自動改札が人手による切符入鋏方式に戻されることはない。生活の安全性、利便性、快適性を手放してどうこうしよう、って話には、ぜったいにならない。ならば、システム化傾向の流れを変えるのではなくて、その流れがますます進んでいくという前提の下で、恋愛や結婚も、システムの一部として組み込んでいく以外になかろう。

それが婚活ビジネスだ、というわけだが、現状、それがあんまりよく機能していないのだとしたら、形を変えていくしかない。未来の婚活システムは、きっとこうなっている。

システム化と技術の進歩により、我々は、労力の軽減や時間の効率化という恩恵にあずかっているわけだが、もうひとつラクをしていることがある。思考の節約である。電車に乗る際、目的地までの切符を買う必要はなく、改札口でICカードをピッとやるだけで、料金が自動的に支払われている。定期券のカバーする範囲外で乗り降りする際にも、いちいち精算する必要はなく、ICカードをピッとやれば、乗り越し分だけが自動的に支払われている。何も考えなくていい。ラクである。

まあ、そんなめんどくさいことは考えずに済むようになってありがたいのだが、もっと一般的に、人類は考えることを次第にやめていく傾向にある、となるとちょっと怖い。法律に関する知識は、それを知らずにうっかり法を犯して捕まることのないようにという実用の動機から獲得しておこうと思うことはあっても、結局つまるところどんな社会が理想的か、法律は何のためにあるのか、個々の法律の保護法益は何であるか、といったところまで掘り下げて吟味検討しようとまでは思わない。根本原理の領域には疑問を抱いてもしょうがないのだから、考えないことにしよう、と、そこで思考を節約しちゃっている人が多いように感じる。時代の流れは、労力の軽減から、思考の鈍化へ。

また、ネット通販とか、アイドルとか、パチンコとか、成功しているビジネスをみると、共通するのは、顧客が依存症(中毒)になっていることがあるようにみえる。考えない時代。身をあずける時代。ならば、婚活システムもその手で行くしかない。

ある年齢になると、誰もが婚活システムの会員として自動的に登録されている。そして、システムの側が、各会員の年齢、容姿、趣味、学歴、年収、行動履歴などの膨大なデータに基づいて、マッチング計算を行い、最適な交際相手を見つけ出す。と謳っておいて、実は裏ではランダムマッチングしてるだけ、でもいいかもしれない。

そして、デートのセッティングもシステムがやるのである。次の日曜日、午後1時に中野駅北口で待合せて、池袋へ行き、ナンジャタウンで遊んで来なさい、と。それだけではない。詳細にわたるシナリオまで。会って名前を言ったら、「今日は暖かくてよかったですね」と言いなさい、相手は「そうですね」といいます、そしたら相手のアクセサリーを「きれいですね」とほめなさい、相手は「これ、誕生日に姉からもらったんです」といいます。1時15分以降の会話はさりげなく「です・ます調」をやめ、「〜だね」の口調に変えなさい。などなど。お互いに同じシナリオが渡されているので、互いにロールプレイイングを演じるだけでいい。

だいたいアレだ、自然な会話に任せていると、交際なんてうまくいかないのだ。話の流れで、ウチで起きた面白い話なんかしている中で、ちょっと母親のことを言ったとしよう。本人は当たり障りなく面白い話をしたつもりであっても、相手方の恋愛マニュアル的なものには、「最初のデートで母親の話を持ち出すのは、マザコンの可能性高し」とか書いてあったりして、「こいつは面倒臭そうだからやめておこう」なんてことになっちゃったりしてるのだ。つまり、もともと信頼関係という基盤のないところで話をしているもんだから、相手の言うことよりも、分析本に書いてあることのほうを頼りにしちゃうのである。

システムが用意したシナリオを守らなきゃならないという義務はないのだが、シナリオから外れると会話がぎこちなくなり、不信感を抱かれるリスクを負わなくてはならない。それよりは、きっちりとしたがっていたほうがラクなのだ。考えないに限る。依存するに限る。

こんなシナリオデートでカップルが成立したとしても、つきあっていくうちに互いの素性がバレていき、すぐに関係が壊れていくだろうと思う向きもあるかもしれない。けど、今ある夫婦が、みんなお互いを深いところまで理解しあっているだろうか。かなりアヤシイんじゃないですかな? だったら、それはそれと割り切ってしまおう。夫婦になったらなったで、その後のシナリオもすべてシステムが用意してくれるのだ。一生、自分に与えられた役をシナリオ通りに演じ続けていれば平和は保たれ、つつがなく過ごせるという仕組み。

これなら誰でもできるし、一定の成婚率が確保できそうだ。あの子が年収700万円のダンナを獲得したんだったら、ワタシは800万円じゃなければ納得いかない、みたいな余計なことを考えるから婚活がうまくいかないんではないかい?

しかし、これは本気でそうなると予測して言っているのではない。過去から現在の変化の傾向をバカバカしいくらい極端にまで延長してみると、そんなところへ行っちゃうことになるかなぁ、という線で考えてみた結果、というだけのことである。どこかの時点で人々がバカバカしさに気づいたら、こうはならず、突然の質的変化という形で別のフェーズに入っていくのかもしれない。それがどんな形になるかは、とても予測がつかないけど。

●自尊心修復ビジネスもなんとかしたい

一見、システム化社会に過適応しているようにみえる人も、内面は自尊心崩壊の危機に晒され、悲鳴をあげているのではなかろうか、と思うことがよくある。システムの部品という地位に収まろうとしても、なんか自己の根底的な部分で不全感に悩まされる結果に陥るのではなかろうか、と。マルクスの言う「人間疎外」が、予想とは違う形かもしれないけど、現れてきているんじゃないかな、などと。

どうも、自他の対称性のバランスが悪いのだ。人の言うことなんか聞きたくないけど、自分はしゃべりたい。目立つやつは気に食わないけど、自分は目立ちたい。本は読まないけど、自分の書いたものは出版したい。他人の歌はうるさいだけだけど、自分の歌は人に聞かせたい。他人には興味がないけど、自分は他人から興味をもたれたい。友人であっても心の深いところまで理解したいとは思わないけど、自分のことは全部知ってほしい。

人が集まると、自他の対称性の悪い人たちの、自己顕示欲と他者の自己顕示欲の抑え込みのぶつかり合いになって、場の支配権の奪い合いみたいな会話が展開されることがよくあって、私のようなおっとり系の人間は、その争奪戦には入っていくのは面倒くさく、輪の外で静かに別の考えごとをしてたりするのだが、眺めているだけでもたいへん疲れる。

自己顕示欲を満足させ、自尊心を修復するビジネス、なんていうのも、システムの枠組みの内部で成立させることはできないだろうか。お誕生日会みたく、主役を持ち回りで、というのもいいのだけど。ちょっと矛盾っぽいテーマだけど、自己顕示欲の不全感を、他者を巻き込むことなく、各自の脳内で解決するシステムって構築できないだろうか。

自己を顕示するのは、顕示される相手なしには成立しないようにも思える。けど、自己顕示欲という欲自体は、自己の内部のことなんだから、なんらかの形でこれが満足されたと自分に思い込ませることに成功し、あーすっきりした、という気分になればいいのであって、それは他者の介在なしにも可能なんではなかろうか、とも思える。

歌を聞いて盛大に拍手をしてくれるバーチャルな(2次元の)聴衆システムとか、身の上話を熱心にうなずきながら聞いてくれる女の子たちがカウンターの向こうにいるバーチャルなガールズバーとか。人工知能の世界ではElizaという、人間の話し相手をしてくれるコンピュータプログラムがあるけど。さすがに相手がただのソフトウェアだと分かっていては、拍手してもらってもかえって馬鹿にされてるみたいで気分悪いだけであろう。

ツイッターなんて、この対称性の悪い人たちのために用意された「誰も聞いてないかもしれないけど、聞いてると錯覚して言葉を好きなだけ発してれば自己顕示欲が満たされて気分いいでしょ」的な皮肉システムのようにみえる。だから、そこに気がついちゃえば、上記のバーチャル拍手と同じ意味合いで気分悪くなりそうなもんだが、案外機能しちゃっているようである。

スナックやキャバクラやガールズバーなどを私は以前、「もったいビジネス」と呼んでいた。私の感覚ではしゃべるのなんて元来タダではないか、と思うのだが、それがさも大層なことのようにもったいをつけてお金をとるシステム。行く回数を重ねるうちに親密さが徐々に増していき、そのうちあんなことやこんなことができるのではないかと期待させられるが、その実は、その親密さの距離性は相手にコントロールされており、喫茶店で店外デート、その次の回はカラオケボックスで、みたいにステップが進んでいく毎にお金がはぎとられていくシステム。これも、そこに気づいちゃえば、バーチャル拍手と一緒なんではないかと思うのだが、案外ハマる人が多い。

最近は「もったいビジネス」から「自尊心修復ビジネス」へと存在の意味がシフトしてきたのではないかと感じる。要するに、話を熱心に聞いてくれることによって、ぼろぼろになった自尊心を修復してくれる場。私はスナックやキャバクラの空気になじめず、行ったってちっとも楽しめない。退屈なもんだから、他のお客たちのデレっとした姿を冷徹に観察し、ここから時代の傾向のエッセンスが抽出可能なのではなかろうか、と、社会学的な思索に耽ってたりするのである。

もっとも、そういう超然としたポーズをとることにより、いっそうの高みに行ったような気分になって自尊心を満たしているのだとすれば、現れ方の形が違うだけで、結局同じことか。いっそうタチが悪いとも言える。

他者を必要とせずに自己顕示欲を満足させる方法論が確立したら、これらのリアルな自尊心修復ビジネスは要らなくなってしまうのかもしれないけど、まあ、なくたっていいよね。

●ユルユル革命

女子高生がパンツ丸出しで歩く時代は実際には来ない、と言ったが、もしかしたら来るかもしれない。スカートの丈が徐々に短くなっていくのは量的連続変化かもしれないが、もう限界でこれ以上は無理という一線を越えるのは、瞬間の質的変化を伴う。「テレビショー」と同じ意味合いで、こういう不連続変化の予測なら、当たるかもしれない。

その兆候っぽい事件が最近、2件あった。

1月8日、ニューヨークで4,000人近い人たちがズボンやスカートを脱ぎ捨て、下着のパンツを晒して地下鉄に乗った。これは"No-Pants Subway Ride 2012"というイベント。今年で11年目で、今回は世界27カ国、59都市で同時開催されたとのこと。この映像はYouTubeに多数アップされている。若い女性もいるし、子供もいる。シカゴでは、警察から電車を降りるようにと指示が来ています、とアナウンスが流れている。

年が明けてからのことのようだが、フランス・パリの観光スポット3か所で、美女モデル3人組がコートを脱ぎ、鮮やかな下着姿で歩いている。これはフランスのランジェリーメーカー「エタム」がPRとして敢行したゲリラパフォーマンス。場所はエッフェル塔とシャルル・ドゴール国際空港とオルセー美術館で、その模様もやはりYouTubeにアップされている。オルセー美術館はけっこう怒っているらしい。

社会のシステム化が進んでいくと、ものごとが効率よく回り、利便性が高まり、完璧な秩序という理想に向かって徐々に漸近していく。犯罪は減り、鉄道の運行は遅れの出るケースが減り、環境は安全で清潔になっていく。いい傾向なのだけど、皮肉なことに、人々はそれに応じて生きる喜びが増大し、幸せになっていっているようには見えない。完璧という状態に漸近していくと、その差分、つまり、まだ完璧ではない、という部分が気になってしかたがなく、かえって不平不満は増えたようにみえる。電車がたった3分遅れてもイライラするとか。

人々の規範意識が強まり「何々は常にこれこれの状態でなくてはならない」というかたくなな思い込みに自分自身が縛られていっている。下着はプライベートな領域に属するものであって、むやみやたらと公共の場所で露出すべきものではない、という規範意識はずっと以前からあった。それが、最近は、ぜったいに見えてはいけないもの、と最大限の神経を払うべきものになってきている。子供のころはパンツ丸見えで遊んでいたのに、子育てするようになると、自分の子供にはぜったいに見せてはダメ、ときつく言う親がよくいる。なんとなく、パラノイアっぽくみえる。

下の世代は上の世代をよく観察している。規範をしっかり守り、システムを完璧に回そうとする努力に対してある程度の敬意を払いつつも、その結果生じる利便性などを素直に喜ぶことができず、不平不満が多いのもやはり見ている。自己顕示欲は満たされず、自尊心はボロボロ。あれははたして、自分が将来なりたい姿だろうか、と。それはきっと否定されている。行きすぎた完全主義が揶揄され、俺たちはああならなくていいよね、と冷めた目で見られている。

おそらく、脱パラノイアの時代がやってくる。ニューヨークとパリの出来事は、それを予感させる。パンツ見せて歩いたからって、世界が終わるわけでなし。脱パラノイア化は、「平成ええじゃないか運動」のような形で現れるのではなかろうか。そう考えると、どこぞのおっさんがセーラー服を着て歩き回るのも、時代が下ってから振り返ったとき、あれは「平成ええじゃないか運動」というくくりの中の一現象だったのだ、と位置付けられるのかもしれない。

とすれば、女子高生がパンツ丸出し、なんてことも、将来の日本で起きるようになっているかもしれない。長生きすれば、それなりに楽しいことに遭遇できそうで楽しみである。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散中。

ここに書きたいネタも山ほどあるのだけれど、すでに本文がえれー長くなっちゃいました。その小ネタをかき集めて次回本文に書きましょうかね。それだけで優に一回分の分量になりそう。

あ、もうひとつだけ。明日のイベントの告知です。アイドルの卵たちの練習イベント。アニソンがテーマ。私が関わっているグループはCGM & AM6。15分間の出番で3曲歌います。私は写真撮影役。セーラー服着て撮ります。先週末、進行を把握するためにゲネプロ(本番さながらのリハーサル)を見てきましたが、完成度高くて見応えありました。12月25日(日)にあった練習ライブからわずか1か月ですが、いっそう可愛くなってるし、表情が生き生きとしてきてるし、確実に進歩してます。EQがすごーく高いコたちだと思います。

2012.01/21(Sat) Open 17:00/Start 17:30 Adv¥2000/Door ¥2000
CBUプロジェクト主催
『アニソン ドミネーション2012』
ふたりはブリキ屋/ Wurtzite Boron Nitride / I☆mas
CGM&AM6 / 何事屋ボンバー / 猫君バンド / 蒼井葵
< http://hearts-web.net/main.htm >

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■編集後記(01/20)

・伊藤礼「こぐこぐ自転車」を読む(平凡社、2005)。結局、この作家の本を新しい方から古い方に向かって三冊読んだことになる。三冊中で一番おもしろかった。この年寄りがなぜリッパなサイクリストになり得たのか、その秘密を知りたかったのだ。最近とみに体力の衰えを感じる腰痛持ちのわたしも、かつてのような自転車乗りに戻りたい。先生が脚力を養成するための課題としたのは、自宅からきっかり5キロの次のステップとして、きっかり10キロを苦労せずに走ることだった。用事がなくても毎日往復した。始めのころは、きっかり5キロで自転車からおりて休むようにした。しかし、それを続けるうちに、往復40キロや50キロは平気で走れるようになったという。わたしも走ろう。脚力、体力を回復しよう。だが、14インチ内装3段変速のYS-11は長距離には向いていない。完全にポタリング用だ。では、日常使っている内装3段変速のアンパンマン号でどうか。これはかつて後ろの荷台に子供を乗せる座席がついていた、完璧なママチャリである。そのサドルをぐんとあげて乗っている。しかし、重量はそうとう重い。これで10キロ、20キロ走るのは絶対にごめんだ。GIANTクロスバイクは既にスクラップになったので、なにか安いスポーツ車を導入しようかと画策中である。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582832997/dgcrcom-22/ >
→アマゾンで見る(レビュー15件)

・しばらく生協の利用を止めていた。まず、受け取り時間に在宅しているかどうかわからない。仕事が忙しくなってきて、料理がまったくできなかったため、材料の購入が必要なかった。カタログチェックする暇もなかった。たまに来週はいけるかも〜と思っても、しばらく利用していなかったので、なんとなく照れくさい。が、そんな時に友人から情報。大好きな柚希礼音さんのライブショーがあって、行こうと誘われていたけれどチケットがまったくとれなかった。友人が入っている会場会員や友の会先行、プレイガイド先行、特別電話など全滅でコネもない。友人からの情報というのは、この即完売入手難チケットが生協で抽選販売しているというもの。生協恐るべし。このために注文したのがバレバレなので、バレバレながらも他のものを注文した。当たるわけないよと友人も注文。結果は受け渡し日にわかるシステムになっていて、先に友人から全滅の報告を受け、そりゃそうよと思いつつ自分の日に。まさかの第一希望日が当選。しばらく使っていなかったので、これをきっかけに使えよという生協側の仕込みかもしれないが、とてもラッキーである。久しぶりに食べた長崎ちゃんぽん鍋のおいしかったこと。来週分にはチキチキボーンを頼むんだぜ。(hammer.mule)
< http://kageki.hankyu.co.jp/revue/267/ >
なんでこんなポスター......。3月は忙しいが絶対行くんだっ!