映画と夜と音楽と...[537]無傷なこころがどこにある?/十河 進

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〈殺人者はバッヂをつけていた/激突/ブルース・ブラザース/殺人者たち/狼は天使の匂い/血槍富士/冬の華/地平線がぎらぎらっ〉

●無傷な心など昔からどこにもなかったのだ

O saisons, o chateaux
Quelle ame est sans defauts

季節よ 城よ
無傷なこころがどこにある
──鈴村和成訳「ランボー全集 個人新訳」(みすず書房)より

140年も昔、ランボーはそう唱った。無傷な心など、昔からどこにもなかったのだ。言い換えれば、昔からどんな心も何らかの傷を負っているのである。何も近代になって、自我や苦悩や心の傷が生まれたわけではない。心とは傷つく存在そのものを指すのではないか、そんなことを考えてしまう。傷つかない心などどこにもないし、生きていくことは心が傷つくことなのだ。

昨年の秋、鈴村和成さんが訳した「ランボー全集 個人新訳」を時間をかけて読んでいる(あるいは、なかなか読めなかった)間、香納諒一さんの新作「心に雹の降りしきる」(双葉社)を読んだので、ランボーのこの詩が心に残った。「季節よ 城よ」というフレーズは有名だが、それに続く新訳を改めて噛みしめた。「心に雹の降りしきる」は、登場人物全員が何らかの心の傷を持ち、それと折り合いを付けるように生きている物語だった。

香納諒一さんの小説が好きで、10年ほど前から読んでいた。最初に読んだのは、日本推理作家協会賞を受賞した「幻の女」である。ウィリアム・アイリッシュや五木寛之さんにも同じタイトルの小説があるけれど、香納諒一さんの「幻の女」もそれらに負けないハードボイルドの名作である。弁護士が、ひさしぶりに再会した昔の恋人の失踪の謎を追う物語だ。正統派ハードボイルドだから、もちろん一人称で語られる。

6年前、文藝春秋から出た「贄の夜会」が評判になり、ここ数年は上梓される香納作品も増え新作を楽しみにしていたところ、昨年9月17日に行われた「日本冒険小説協会30周年記念&内藤陳会長聖誕祭」で香納さんにお会いする機会があり、僕は「いつも愛読させていただいています」と挨拶した。そうしたら、「新作がすぐ出ますからお送りしましょう」と言われたのである。

一週間ほど後、「心に雹の降りしきる」が送られてきた。すぐに読んだ。最近、香納さんは警察小説に手を染めているからか、この小説の主人公も警察官だ。しかし、「血の冠」では青森県警の所轄署に勤務する経理課の警察官を主人公に据え、青森弁で物語を展開するという一筋縄ではいかない(もしかしたら、へそ曲がりかもしれない)香納諒一さんである。「警察小説ね」と思っていると、アレアレと意外な展開に驚く。

プロローグで登場する「おれ」は、「歩行者信号が点滅を始めているのに横断歩道を渡ろうとする老婆にクラクションを鳴らして睨みつけ」るのだが、その語り手が、やがて警察官だとわかる。その警察官は「若葉マークの車の前に強引に割り込み、走り出」すのである。その露悪的な一人称は、どこかいびつな心を感じさせる。苛立ち、鬱屈...、そんなものを抱え込んだ「おれ」を想像させた。




●最近の日本の悪徳警官ものは組織的な悪を描き出す

ミステリには、「悪徳警官もの」というジャンルがある。昔の翻訳ミステリなら、ウィリアム・P・マッギヴァーンが悪徳警官ものを得意としていた。「殺人のためのバッジ」「悪徳警官」などがある。トマス・ウォルシュにも「深夜の張り込み」という悪徳警官ものがある。日本の作家では結城昌治さんが早くから手を着けていて、「夜の終わる時」「裏切りの明日(「穽」を改題)」などが有名だ。

「深夜の張り込み」は、「殺人者はバッヂをつけていた」(1954年)として映画化された。デビューして間がないキム・ノヴァクがギャングの情婦役で、大金を奪ったギャングが情婦のところに立ち寄ると予想して三人の刑事が張り込む。その中のひとり(フレッド・マクマレイ)は、ギャングを射殺して大金を横取りしようとする。警察の手の内を知り尽くしているから、彼は裏をかき犯罪は成功しそうになる。

もっとも、最近の日本の悪徳警官ものは、かなり様子が違う。黒川博行さんの「悪果」の主人公の暴力団担当刑事など、警察官なのか暴力団員なのか判別できないほど、どっぷりその世界に浸かっている。賄賂やたかりに後ろめたさを感じてなどいない。暴力をふるい、汚い言葉を口にする。彼自身が犯罪者と同じ心理なのかもしれない。もっとも、そこまで徹底して描かれるとクライム・ノヴェル的に面白いのだが、現実の警察内部の腐敗を想像してしまう。

「心に雹の降りしきる」も、そんな悪徳警官を想像させるような導入部である。「おれ」は、金持ちの飲食店チェーン経営者である井狩宅を3年ぶりに訪れる。井狩の幼い娘は7年前に行方不明になり、未だに見付かっていない。「おれ」はとっくに殺されていると思っているが、井狩は諦めきれず何か手がかりがあると「おれ」に連絡してくる。「おれ」だけが警察の中で話を親身になって聞いてやるからだ。

井狩が「おれ」を呼んだのは、娘のものらしい古着がフリーマーケットで売られていたという情報を、私立探偵の梅崎が持ち込んだからだった。その探偵は井狩が出す報奨金目当てだと思った「おれ」は彼を連れ出し、人気のない場所で話を付けようとする。そこで探偵によって明らかにされるのは、一昨年、有力情報を井狩に提供して100万をせしめたヤツがいたことだ。私立探偵は小悪党らしい言動だが、対する「おれ」も完全に悪徳警官の言動である。

──「残念ながら、その男と理絵ちゃんとは、結局、繋がりませんでしたが、
有力な情報であったことにはちがいない。井狩さんは提供主に報奨金を支払っ
た。どうですか、今度は私と分配しませんか」
 おれは体を捻りざま、梅崎の頬を狙って拳を突き出した。そっぽをむいて話
を聞きながら、間合いだけは測っていたのだ。(「心に雹の降りしきる」より)

ほら、なかなかハードボイルドなシーンでしょう。読み始めて10ページ目で、このどんでん返し。さらに、ここで語られたことが、後半の伏線になっている。また、ここまでに登場した「おれ」「井狩」「梅崎」の三人も、どこか精神的ないびつさを感じさせる。「おれ」は妙に露悪的だし、「井狩」は精神的に病んでいるようにさえ見える。梅崎も汚い探偵商売に倦んでいるように、どこかなげやりだ。

「心に雹の降りしきる」を読み進めるうちに、僕はある読み方をするようになった。語り手は「おれ」だが、僕は彼が言ったこと、行ったことだけを客観的に想像しようとした。そうすると、「おれ」自身が読み手に持たせようとするイメージとは、別の姿が立ち上がってきた。そこにいるのは、かつて行方不明の少女を捜しきれなかったことを悔い、現在、事件に巻き込まれた可能性のある女性を救うために奔走する警察官だった。

彼は、自分自身を嫌っている。だから、語りが露悪的になる。しかし、彼は夫のDVから逃れているらしい母と娘に出逢い、警察官としての義務感からではなく、ただその母子が心配で親身になる。その後、彼自身は自分の行為を「一刻も早く、あの母子の前から消えてしまいたかった。惨めったらしい男には虫酸が走る。それが自分だとなれば、なおさらだ」と強がる。悪党ぶるのだ。

心に深い傷を持つ「おれ」の過去が明かされていくのと同時進行的に、彼が追う現在の殺人事件が解決に向かう。そして、彼自身を責め続けてきた未解決の失踪事件も真相が明らかになる。心の闇を抱えた「おれ」は、犯人を含めたすべての登場人物の心の闇を照射する存在である。深い心の闇を抱える人間だから、同じものを抱えている存在を映し出す鏡になれるのだ。

人はホンの些細なことで、あるいは他者のたったひと言で心が傷つく。誰が、どんな心の闇を抱えているのか、外から見たのではわからない。まさに心に雹が降りしきる中、「無傷なこころがどこにある」と嘆きたくなる。ちなみに、香納諒一さんの「心に雹の降りしきる」は、昨年末に発表になった「このミステリーがすごい」では9位に入っている。

●香納諒一作品の全点踏破をめざしたのだけれど...

「心に雹の降りしきる」を読み終えた段階で、僕は香納諒一さんの作品を10数冊ほど読んでいたのだが、ご本人にお会いしたこともあり、すべて読んでみようと思い立った。デビューして20年になる香納諒一さんだが、初期は寡作だったので長編が24作品ほど、短編集・連作集が10作品ほどである。旧作も文庫本でかなり入手できる。僕は、図書館も活用した。

ネットで検索した作品リストをプリントし、読み終えたものをマーカーで塗りつぶしていった。現在、未読作品は初期の長編一作と、いくつかの短編だけになった。そして、集中して香納作品を読む中で僕が気付いたのは、香納さんが相当な映画好きだということである。これは間違いない。もしかしたら、学生時代、映画制作に携わろうとしたか、携わったのではないか。そんな気がする。

これは僕の勝手な連想だが、処女長編「時よ夜の海に瞑れ」(「夜の海に瞑れ」に改題)の冒頭、主人公たち四人が乗る車が、尾行してきた車に踏切に押し出されかける場面で、スピルバーグの「激突」(1971年)を思い出した。一作目に登場した魅力的なヒットマン安本兄弟が主役の二作目「石の狩人」(「さらば狩人」に改題)では、表紙のイラストを見て二本の映画を思い浮かべた。

一本は、おふざけ映画の極北とでも言いたい「ブルース・ブラザース」(1980年)だ。ヒットマン(殺し屋)の安本兄弟は、兄が冷静で頭が切れクールであり、弟は大男の力持ちというキャラクター分担になっている。「石の狩人」では、弟がプロらしくない純情なところを見せて可愛い。ブルース・ブラザースとはちょっと違うが、僕は彼らを浮かべながら読んだ。

ただし、安本兄弟のプロフェッショナルぶりは、僕が連想したもう一本のドン・シーゲル監督版「殺人者たち」(1964年)の殺し屋に近い。背の高いリー・マーヴィンとやや小柄なクルー・ギャラガーの殺し屋コンビは、本当にキマっている。ブラックスーツにサングラス、消音器を付けた拳銃が確実に標的を射抜く。彼らのコンビネーションは素晴らしく、流れるような連携を見せる。

ちなみに「殺人者たち」は、後に大統領になるロナルド・レーガン最後の出演作ではなかったか。彼が演じたのは卑劣な男で、手下を捨て駒としか見ないボスである。レーガンの情婦なのにレーサー(ジョン・カサベテス)を誘惑し、強奪計画で運転手をやらせたうえ裏切るファム・ファタール役は、100万ドルの脚線美の「女刑事ペパー」ことアンジー・ディッキンソンだった。

●映画が嫌いな小説家はいないと思うが...

小説家は、みんな映画好きだと思う。ジョゼ・ジョバンニみたいに映画監督になった作家もいる。マイケル・クライトンは一時期自作の映画化作品を監督し、好評だったのに後には小説に徹した。村上龍さんは「だいじょうぶマイ・フレンド」(1983年)の評判がイマイチだったが、その後も何本か監督した。矢作俊彦さんは、元々は映画監督になるはずだった(監督作もある)。

好きな映画にオマージュを捧げるように、自作の中に映画のシーンを引用する作家もいる。僕はメモを取らないので記憶で書くしかないのだが、原りょう(注:療からヤマイダレをとった字)さんの私立探偵・沢崎シリーズ(直木賞受賞作「私が殺した少女」だと思う)に、沢崎がある人物を尾行して映画館に入る場面がある。その映画館は早稲田松竹だと思うのだけれど、もちろん作中に劇場名は出ない。

沢崎は尾行対象を見張りながら、スクリーンを描写する。そのスクリーンの描写を読み、ある映画のワンシーンが浮かんできて僕はニヤリとした。それは、通好みの知る人ぞ知る作品だったが、今では有名になった「狼は天使の匂い」(1972年)である。監督はルネ・クレマン。ジャン=ルイ・トランティニアンとロバート・ライアンが共演した。作者は、間違いなくあの映画が好きだったのだ。

香納諒一さんの作品では具体的な映画のタイトルが出てきたり、映画のワンシーンが描写されたりといったことはあまりない。渋いところでは、何作かに内田吐夢監督の「血槍富士」(1955年)のタイトルが出てきた。片岡千恵蔵主演の不条理時代劇(?)である。満州映画協会に渡り、終戦時に甘粕所長の服毒自殺に立ち会った内田吐夢監督は、戦後も長く中国に留まった。「血槍富士」は帰国第一作だ。

香納諒一さんの作品に、映画制作の現場にいて今は故郷に帰っている青年を主人公にした短編がある。そこに友人が、映画に出資しないかとやってくる。主人公は、まだ映画の夢が忘れられない。ところが、その友人は借金まみれで、悪い筋に追われている。主人公も巻き込まれ、友人を取り立ての連中に引き渡すか、借金を肩代わりするかというところに追い込まれる。

その短編で、友人を見付けた主人公に友人が「なんとかならねぇか」と言ったと思う。その短編を読んだとき、僕は「冬の華」(1978年)を思い浮かべた。「なんとかならねぇか」というセリフは、「冬の華」のプロローグとラスト近くで使われる。冒頭、組を裏切った男(池部良)は高倉健にそのセリフを言い、健さんは無言で刺す。刑務所に入った健さんは、男の娘に10数年間、金を送り続ける。

ラスト近く、健さんの若衆のひとり(寺田農)が組によかれと思って裏切り、それが明らかになって仲間たちに取り囲まれる。彼は「なんとか...ならねぇか」とつぶやく。「冬の華」を見ると、その言葉が長く残る。僕は香納さんの短編を読み、勝手に「冬の華」を連想しただけだが、それほど的外れではないのではないか、と思っている。

頬がほころんだのは、「夜空のむこう」という編集プロダクションや出版業界を舞台にした連作長編を読んだときだ。こんな文章が出てきた。
──このところ篠原は、新東宝の映画のはちゃめちゃさにはまり、片っ端からビデオで観ていた。『地平線がぎらぎらっ』『海女の化物屋敷』『女体桟橋』『憲兵と幽霊』『東京河童まつり』など、お伽の国のワンダーランドだ。

これは、たぶん香納さんのストレートな感想だと思う。ジェリー藤尾主演の「地平線がぎらぎらっ」(1961年)は、僕も見ていて凄く面白い映画だと思う。しかし、その他の映画は見たことがない。新東宝作品は子供の頃にけっこう見ていたけれど、タイトルに記憶がない。この文章を読んで、見たくなった。それにしても、新東宝のタイトルって凄いですよね。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

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