映画と夜と音楽と...[552]1970年5月の地井武男/十河 進

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〈非行少年・若者の砦/反逆のメロディー/野良猫ロック・ワイルドジャンボ/野良猫ロック・暴走集団71/濡れた荒野を走れ〉

●新人俳優のシャープな顔と鋭い視線が印象に残った

初めて主演した映画は、「ドレイ工場」(1968年)だとばかり思っていた。前田吟と勘違いしていたのだ。「ドレイ工場」は、前田吟の初主演映画である。もしかしたら唯一の主演映画かもしれないけど...。調べてみると地井武男が初めて主演した映画は、同じ武田敦監督の「沖縄」(1970年)だった。

「ドレイ工場」も「沖縄」も山本薩夫監督が制作している。ゴリゴリの日共監督だと、当時の僕は思っていた。1970年5月に公開されたのだが、その頃、日本共産党は「日共」と侮蔑的に呼ばれていた。反対に、日本共産党は新左翼の連中を「トロッキスト」と規定し、「暴力学生」たちのゲバルト闘争を批判した。

当然、僕は「ドレイ工場」「沖縄」といった「そっち系のプロパガンダ映画」を見る気はなかったが、ポスターやスチルで見た主演の新人俳優のシャープな顔と鋭い視線は印象に残った。「ちい散歩」の地井武男とはまるで違う。縮れた髪、こけた頬、人を射るような視線、尖った顎...、ひと目見て僕はその名前を覚えた。

地井武男...、印象に残る名前だった。怖い表情が似合う若者だった。全身から反抗心が吹き出しているようだった。胸に抱え込んだ鬱屈やルサンチマンを、世の中に思いっきり叩きつけている印象があった。触れれば、こちらが火傷しそうな気がした。いや、体中にトゲがあり、そのトゲに刺されそうな印象を受けた。

地井武男の主演映画を初めて見たのは、「非行少年・若者の砦」(1970年)だった。こちらは4月に公開されているから「沖縄」より先なのだが、僕は名画座で見たので5月半ば過ぎのことだった。映画館を出て見上げた初夏の空を憶えている。僕はこの映画を決して忘れないだろう、チェーンを叩きつける地井武男の姿と共に何度でも思い出すことだろう、そう確信した。




──甘ったれるな。てめぇの牙はてめぇで磨け

今も僕は「座右の銘」を問われると、いくぶんかの韜晦を交えてそう答える。会社では小言オヤジと言われているけれど、酔った拍子に若いモンを相手にそう言っていることもある。いや、10歳ほど若い後輩に「最近の若いモン」の愚痴をこぼすときに言っているだけだ。直接、彼らにそう言うことはない。本気で言えば、彼らはサッサと辞めるだろう。

42年前の5月、この言葉を口にしたのが28歳の地井武男だった。彼はグリップを付けた喧嘩用のチェーンを警察の取調室の机に叩きつけながら、血を吐くように叫ぶ。彼に真情あふれる言葉を吐かせたのは、童顔なので18歳の高校生の役をやっていた石橋正次だ。まだ新国劇に所属する若手俳優だったが、女性ファンが騒ぐような人気があった。

原作は立原正秋の短編である。昔、その本を持っていたが、いつの間にかなくしてしまった。立原正秋の小説を本屋で見かけなくなってずいぶん経つ。タイトルは忘れたが、語り手の「私」が「弁天のハート破り」という不良少年のことを思い出す物語だった。「私」自身も少年の頃、朝鮮人である母親を侮辱した教師の掌を懐剣で貫き、感化院に入っていたことがある。

その語り手の「私」と立原正秋の姿が重なった。僕自身は確かめたことはないが、当時、友人に「立原正秋は教師を刺して感化院に入っていたんだ」と教えられたことがある。立原正秋が直木賞を受賞した数年後のこと、作品がテレビドラマ化されたりしていた流行作家だった。

●昔の不良少年と現役の不良少年は次第に心を通わせる

「非行少年・若者の砦」は原作のストーリーは生かしているが、70年当時の風俗を取り入れ、かなり印象が異なる作品になった。主人公ジロー(地井武男)は教師のひと言が許せず、懐剣を取り出して職員室に赴き教師の掌を刺し貫く。ジローは感化院に送られ苦労して大学を出るがまともな就職もなく、小さな自動車修理工場で働いている。

ある日、鎌倉の財産家の妾(南田洋子)が訪ねてくる。手に負えない不良息子(石橋正次)の家庭教師をお願いしたいというのだ。「毒をもって毒を制す、ですか」とジローは皮肉な返事をする。祐一という少年と会ったジローは、彼の中に昔の自分を見る。型破りな家庭教師が生まれる。昔の不良少年と現役の不良少年...、ふたりは次第に心を通わせる。

祐一は庶子だが、正妻には長男(江原真二郎)と長女(松原智恵子)がいる。「どうしょうもない不良」という割には祐一のことを気にしている長女の聖子は、ジローに興味を持ったのか何かと近付いてくる。長男の婚約披露パーティーがあり、祐一とジローも出席する。その夜、ジローと聖子は親しく心を通わせるが、ブルジョア娘と貧しい修理工の溝は埋められない。

ある日、祐一の母親が交通事故で死ぬ。本家へ引き取ろうとする姉を断り、祐一はひとりで生きていくと宣言する。彼はジローを頼り始めているのだ。だが、祐一が教師をチェーンで殴り大けがをさせる事件が起きる。ジローは大急ぎで警察に出向く。そこには、警官に黙秘する祐一がいる。二人だけになると、彼は偽善的な教師が許せなかったと言い、「俺もあんたと同じようにやったよ」と誇らしげだ。

──俺、あそこを出たら、あんたのところへいくよ、先生。いいだろう。待っててくれるよな。

そう言った祐一に対して、突然、ジローは立ち上がり、証拠品として置いてあった祐一のチェーンを取り上げ、「何だって。誰が誰を待ってるって。ふざけるなよ、坊や。何か大層なことをやった気でいるなら大間違いだぞ」と血を吹き出すように言う。激情がほとばしる。

──おまえは、これからあそこへいくんだ。そして、あそこから出てくるんだ、わかってんのか。出てきたとき、何がおまえを待ち受けているか。お袋もいない。先生もいない。おまえはひとりぼっちなんだよ。「待っててくれ」だって、甘ったれるな。てめぇの牙はてめぇで磨け。自分を守るにはそれしかないんだ。

公開当時の映画評で「先輩格のほうがラストで、自分と同じ道をたどった少年を鎖を叩きつけながら怒鳴りつけるところには、激情の中の無限の愛情がつたわる」(映画評論1970年6月号)と書かれた。地井武男の叫びの中には、確かに自分と同じ過ちを犯した少年へのあふれんばかりの愛がある。

ラストシーン、地井武男が警察署を出ると、派手なオープンカーで松原智恵子が待っている。地井武男は目もくれず、自転車に乗って去る。カーラジオから、「よど号ハイジャック事件」のニュースが流れる。それは、映画公開(4月4日)の5日前に起こったばかりの事件だ。赤軍派の学生9人が日航機「よど号」をハイジャックしたのは、1970年3月31日のことだった。

●映画を見続けることで孤独と望郷の念を克服した

1970年春、僕は18歳だった。もちろん、その事件は憶えている。日本中が注目した。「我々は『あしたのジョー』である」と、ヒロイズムに浸った9人の赤軍派の学生たちは北朝鮮へ向かうことを要求したが、まず福岡空港で病人や婦女子23人を解放した後、韓国の金浦空港へ着陸した。国交のない北朝鮮と犯人受け入れの交渉が難航したからだ。

4月3日、当時の運輸政務次官であった山村新治郎が身代わりとなり、乗客全員の解放を実現する。よど号はピョンヤン空港で犯人たちを降ろし、4月5日に羽田に帰還した。「非行少年・若者の砦」の公開時には、まだ事件は解決していなかったのだ。そして、日本中が大騒ぎをしている4月2日の夜、山陽新幹線が開通していなかったために、夜行列車「瀬戸」の座席に一晩中腰掛けて上京した母子がいた。

無理を言い東京で予備校に通うことを親に認めさせた僕は、息子が心配でたまらない母親の同行を受け入れざるを得なかった。なぜ、母親がそんなに心配したか。間違いなく「よど号ハイジャック事件」の影響だ。高校時代、学園紛争に巻き込まれた(?)僕は、学校のブラックリストに載っていた。母親としては、そんな息子が東京に出てどんなことになるのか、心配でたまらなかったのである。

彼女は東京で唯ひとりの親戚である伯母の住む滝野川にある安アパートを見付け、その部屋に落ち着くと僕を連れて挨拶に出向いた。息子夫婦がどちらも大学の先生をしているという伯母は、滝野川神社の神主の家に嫁入りしており、「きちんとした人だから」と母親は僕に学生服を着させた。高校を卒業し、もう制服とは縁がなくなったと思っていた僕はくさったものだった。

心配しながら帰っていった母親だったが、それからの僕はストイックな生活をした。鍋がひとつと茶碗と皿がひとつずつだったのに、食事はすべて自分で作った。汁椀がないので、具の入っていないみそ汁を空き缶で飲んだ。映画を見る以外、無駄遣いはしなかった。名画座に入るために、昼食を抜くことが多かった。そのせいか、僕の体重は50キロを割り、ウエストは70センチを切った。

それでも何とか東京で予備校生の生活を始めた僕は、最初の一カ月間、まったく誰とも話をする機会がなかった。それは「1970年4月の孤独」(「映画がなければ生きていけない」第2巻62頁参照)に書いたが、自分でもおかしくなりそうなひと月だった。その頃の僕を救ったのは、多くの名画座である。映画を見続けることで、僕は孤独と望郷の念を克服したのだ。

そんなある日、「非行少年・若者の砦」の地井武男の言葉が、僕の心を震わせた。自分を守るためには、自分の牙は自分で磨かなければならない...、それが誰も頼ることができなかった僕が、上京してひと月の間に学んだことだった。誰か助けてくれるかもしれないなどと、甘い期待はしない。人をあてにするな、と言い聞かせ、「甘ったれるな、てめぇの牙はてめぇで磨け」とつぶやくと、勇気が湧いた。

しかし、僕のそんな性向は「チームメイトや仲間を信じないんですね」と批判されることもある。僕は長く編集者として、編集部単位で何人かと組んで仕事をしてきた。しかし、結局「ソゴーさん、ひとりで本を作ってる」と言われることが多かった。そうかもしれない。僕は、ひとりでしか仕事のできない人間なのかもしれない。しかし、僕ほど仲間(ダチ公)を欲している人間はいないのだ。

●男たちの友情はどのようにして成立するのか

地井武男が口にしたもうひとつの言葉が、僕の中で42年間にわたって生きている。「非行少年・若者の砦」を見た二ヶ月後のこと。僕は「反逆のメロディー」という原田芳雄主演のやくざ映画を見にいった。ジージャンとジーパン姿で長髪の原田芳雄はどう見てもやくざには見えなかったが、僕は原田芳雄が見たくて映画館に入り、改めて地井武男と藤竜也に惚れ直し、梶芽衣子の熱烈なファンになった。

原田芳雄が演じた哲と呼ばれるやくざは関西の組で修行していたが、組が解散になり関東の地方都市に戻る。彼の兄がその町でやくざの組を継いでいるのだ。その街には、広域暴力団が出張ってきている。出所してきた兄は広域暴力団と手を結ぼうとするが、裏切られて殺される。警察も、広域暴力団とは馴れ合いの関係だ。

哲の組の若者と広域暴力団の筋者が喧嘩になり、広域暴力団の男が死ぬ。その葬儀にやってきたのが広域暴力団の系列組織に属しているが、一匹狼の雰囲気を漂わせる星野(地井武男)である。彼の情婦が梶芽衣子だ。敵対する組織にいるものの、葬儀を見張る警察に食ってかかる星野に哲は興味を抱く。

一方、広域暴力団の大親分を仇とつけ狙う滝川のセイジ(藤竜也)というやくざがいる。彼は星野が経営するビリヤード場に匿われている。地井武男が演じた突っ張りヤクザの星野は、自分の組織のボスを狙っている男を匿うような、男気に生きる男なのである。その滝川のセイジを探しにきた哲に星野は言う。

──俺ぁ、くだらねぇ男だがよ、たったひとつだけ自慢にしていることがあるんだよ。滝川のセイジとダチ公だってことよ。

これほど友を誇る言葉を聞いたことがない。地井武男が演じた星野という男は、藤竜也が演じた滝川のセイジに惚れきっているのだ。大組織につぶされた弱小組織にいたセイジは、何度も何度も広域暴力団の大ボスを刺そうと試みる。自分の組織の上部団体のボスを狙っているのに、星野は「そんな馬鹿な野郎が大好き」なのだ。

「反逆のメロディー」は、単なるやくざ映画ではない。男たちの友情がどのように成立するのか、それを様々なシチュエーションで描き出した作品である。澤田幸弘監督のテーマは、ただそれだけだ。男はいつ男に惚れるのか、どんな状況で好きになるのか、なぜこいつのためなら命もいらないと思うのか、それをシミュレーションする。

星野は哲と殴り合い、互いに認め合う。その哲から「会いたい」と電話が入ると、星野は子供のように意地を張り、「哲が会いたい? 俺ぁ、会いたかねぇ、留守だ。おめぇの面なんか見たかねぇ」と答える。しかし、次のシーンは酒場の階段を降りてくるサングラスをかけた哲だ。カウンターに星野が座っている。哲が隣に腰を下ろすと、彼は言う。

星野「遅いじゃねぇか」
哲 「遅い? 11時って約束だぜ」
星野「何、言ってんだ。本当に会いてぇと思ったらな、一時間くらい前にきてしまうモンだ。俺を見ろ。一時間待ったぞ」

原田芳雄が死んだとき、弔問に訪れた地井武男が「食えない頃から一緒だったんですよ。そう言えば、芳雄に500円貸したままになってたなあ」と、さみしそうに語っていた。1971年正月に公開になった「野良猫ロック・暴走集団71」でも、ふたりは共演している。

●俳優座養成所出身の個性的な俳優たちが登場した

1970年、僕は7月公開の「反逆のメロディー」を見て、さらに8月に公開された「野良猫ロック・ワイルドジャンボ」を見た。翌年早々には「野良猫ロック・暴走集団71」を見た。地井武男は主演作であり代表作を、一年間だけで得たのだった。彼は、日活ニューアクションを代表する俳優になった。

日活ニューアクションと呼ばれる作品群は、日活が経営不振に陥りロマンポルノに移行するまでの数年間、奇跡のように輝いた。それらの作品群を代表する女優は、梶芽衣子である。その頃の彼女のイメージが、後に「さそり」シリーズにつながる。俳優陣で目立ったのは日活出身の藤竜也であり、新劇畑からやってきた原田芳雄と地井武男だった。

あの頃、俳優座養成所出身の個性的な俳優たちが登場し、それぞれ主演を果たした。原田芳雄、林隆三、前田吟、夏八木勲、高橋長英などである。原田芳雄以外は、その後、主演作がなくなり脇にまわったが、彼らはみな俳優座養成所の15期生だった。女優には、太地喜和子、赤座美代子、栗原小巻、三田和代がいる。

その他の15期生には、今や湾岸署のダメ上司として有名になった小野武彦もいたし、太地喜和子と結婚していた秋野大作(津坂匡章)、元フジテレビアナウンサー高島彩の父親である故・竜崎勝、最近は音無美紀子の夫と呼ばれることが多い村井国夫などもいた。その頃の俳優座養成所は、演劇青年たちの憧れの的だった。

地井武男も15期生を代表するひとりだ。彼は原田芳雄と共に日活ニューアクションの顔になり、3年後、日活ロマンポルノ作品として公開された長谷川和彦脚本、澤田幸弘監督の「濡れた荒野を走れ」(1973年)に再び主演した。「濡れた荒野を走れ」は、ニューアクションを甦らせる作品だった。公開前からファンの期待は盛り上がり、僕もシナリオが掲載された「キネマ旬報」を買った。

2012年6月29日、原田芳雄の一周忌を待たずに地井武男は彼の元に逝った。「反逆のメロディー」で、星野は哲と腕時計を交換しながら「俺たちはダチ公よ」と笑い合った。星野が刺されて死んだ後、形見の腕時計を梶芽衣子が哲に渡す。彼らは、あちらでも腕時計を交換しているかもしれない。

原田芳雄も地井武男も70歳を過ぎて死ぬまで、現役の俳優を続けた。42年前のあの頃、そんなことは想像もできなかった。もちろん、僕自身の人生も...。時は過ぎる。人は死ぬ。だが、記憶は残る。まして俳優ならフィルムに定着された若き日の姿が残る。永遠に...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

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