映画と夜と音楽と...[572]心の傷は癒えるときがくるのか?/十河 進

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〈サラの鍵/黄色い星の子供たち〉

●カバーの折り返し部分に引用される文章を選ぶ

暮れに「映画がなければ生きていけない2010-2012」(水曜社・刊)の見本が届いた。四巻目になる。索引を含めれば、過去最高の655頁だ。背幅は、ついに4センチを超えてしまった。価格は税別で2000円のままだから、一文字あたりの単価(昔から言っている)はさらに安くなった。こんな値段で出し続けてくれる版元の水曜社さんに感謝しなければならない。

体裁は2006年暮れに出た「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」を踏襲している。2010年の年明け早々に出した「映画がなければ生きていけない2007-2009」も同じだ。カバーの色だけを黄、青、赤と変えてきて、今回は緑である。この原稿が配信される頃には、書店に並ぶ予定だ。ネット書店で予約したくれた人には届く頃である。

第一巻からカバーの折り返しのソデの部分に、原稿の一部が引用されている。僕はまったく体裁や構成に口出ししなかったから、本ができてきて初めて引用されている文章を読んだ。そのとき、編集者はここを選んだか、という喜びがあった。「ビンゴ!」と言いたくなった。以下、一巻目と二巻目のソデに引用された文章である。

──ある時、「お熱いのがお好き」の最後のセリフが英語では「Nobody is perfect」だということを知って、僕はとても気に入ってしまった。完全な人間はいない(完璧な人なんて誰もいない)......。多くの言葉が今の僕を作り上げている。




──「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写技師アルフレードは言う。「トト、人生はおまえが見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ」......。しかし、だからこそ、つかの間の幸福を求めて僕は映画館へ通う。そうなのだ。僕は様々な映画に励まされながら自前の人生を生きてきた。

担当編集者は、すべての原稿を読み校正をする。大変だろうと思うが、最初のときには僕の間違いをいくつも指摘してもらい大いに助かった。おそらく校正しながら、ソデに引用する文章の候補をピックアップしておき、最終的にその文章に決めたのだろう。その文章を選んでくれたことを、僕は喜んだ。三巻目の編集が進んだ頃、今度はどこをチョイスするだろうと期待した。

──「善きひとのためのソナタ」のラストシーン。ヴィースラーは、大きくきれいな書店で一冊の本を取りレジに持っていく。店員が「プレゼントですか」と訊ねると彼は、まっすぐに店員を見て答える。「これは、私のための本だ」......。僕はその言葉を聞いて涙があふれそうになった。世界は残酷で悲惨だ。それでも人間は信じ合える、希望はある、夢を棄てるな。そんなメッセージが伝わってくる。

三巻目の中で「善き人のためのソナタ」について書いた文章は、僕の筆にも熱が入っていた。三巻目ではその部分を引用し、「これは、私のための本だ」という言葉に僕の本のことをダブらせている(おこがましいとは思うけれど)ことに感心した。編集者とは、肝になるエッセンスを抜き出すのだなと改めて思った。編集者だった頃の僕も、大見出し、リード、小見出しなどに凝ったものだ。

今回は、校正のときにいくつか候補をあげておいてほしいと言われ、校正しながらソデの引用のための文章を七、八箇所マーカーで囲んでおいた。どの部分が使われてもいいと思っていたが、担当編集者はやはりその文章を選んだ。具体的な映画のタイトルは出ないのだが、その映画は四巻目で取り上げた作品の中でも特別に僕のお気に入りだった。

──こびない、へつらわない、乞わない......、どんなにみじめで悲惨な状況でも誇り高く生きていたい。かなわぬまでも、現実の生活では貫き通せなくても、僕はそう願って生きてきた。そんな生き方の見本がスクリーンの中にあった。

これは「あんた、プライドないの?」(第四巻594頁)に出てくる文章で、「ウィンターズ・ボーン」(2010年)について書いたものだ。主演のジェニファー・ローレンスも映画も気に入ったから、自然と熱を帯びた文章になった。毎週、何らかの映画を取り上げながら3000字前後を書くのは、ときに辛くなる。特別に気に入った映画だと、やはり筆の運びはなめらかだ。

●索引頁も10頁になり作品数も1000本を超えたようだが...

単行本化に際しては、担当編集者が索引を作ってくれる。僕も編集者時代、ムックを制作し索引を作ったことがあるが、索引作りは大変だ。今はレイアウトソフトでデータ化されテキスト検索で楽になったけれど、昔は校正紙をひっくり返しながらチェックし索引を作った。僕は、こういう細かな作業は向いていないな、とつくづく身に沁みた。

一巻目と二巻目は、索引は別丁にして投げ込みだったが、三巻目から巻末につくようになった。今回は、10頁に増えた。紹介した映画が増えたので当然なのだけれど、ひとつの映画が出てくる回数も増えたのだ。たとえば「アラバマ物語」は一巻目の433頁、二巻目の84頁と455頁、それに三巻目の442頁に出てくる。何度も登場する映画は僕の特別なお気に入りなのだと、自分でもよくわかる。

索引は一段57行で20段ある。1000本以上の映画を元に、駄文を書き続けてきたことになる。1999年8月末からスタートしたから、13年と2カ月分が本にまとまった。その間、太陽が4800回昇り、西の空に沈んでいった。40代後半だった僕は、いつの間にか還暦を過ぎた。文章を読み返すと、変わったなあと思うこともあるし、相変わらずこだわり続けていることもある。

60年も生きていると、たいていのことは過ぎてしまったことになり、将来を考えればこだわる必要もないのだが、過去を振り返ると、棄てきれないもの、こだわりが溶けないもの、心の底に澱のようにわだかまるものが消えていないことに気付く。多かれ少なかれ、誰にもあることだろう。30数年前の傷が、まだ新しい傷口を見せていることを自覚する。昔ほど心が騒がなくなっただけだ。

考えてみれば、僕は平穏で平凡な人生を送ってきた人間だ。特別、人に語ることもないのに駄文を書き続け、おまけに本まで出してしまった。ある意味では、恵まれた人生かもしれない。生活するうえでは倒産にもリストラにも遭わず、未だに勤め人の生活をしている。40年近く、毎月25日には給与が振り込まれてきた。

いわゆる中流の生活かもしれないが、特に贅沢をしたいわけではない。ふたりの子供も大人になった。会話はなくなったが、とりあえず離婚もせずに暮らしている。それでも、心の中には様々な思いが存在するし、ときに「死んでしまいたい」という思いだって去来する。何もかも投げ出したくなることもある。

平凡な人生だった(と思う)僕でさえ、ときにそんな風になるのだから、子供の頃に弟を死なせてしまうという強烈な体験をした姉のその後の人生は、どんなものになるだろう。「サラの鍵」(2010年)という映画を見たときに、彼女の心の傷について考えた。心の傷は、癒えるときがくるのか? 傷の深さは、体験の重さに比例するのか?

●クリスティン・スコット・トーマスは素敵な女優になった

「サラの鍵」は新潮社クレストブックで翻訳が出ているように、世界的ベストセラーの映画化作品である。主人公のジャーナリストを演じるのは、僕の好きなクリスティン・スコット・トーマスだ。ハリウッドでロバート・レッドフォードやハリソン・フォードの相手役をやっていた頃に比べ、歳を重ね素敵な女優になった。最近は、イギリスやフランスなどヨーロッパ映画に出ることが多い。

物語は、1942年7月の早朝から始まる。ベッドの中で弟と戯れている少女サラの笑顔が、スクリーンにあふれる光を背景に描かれる。しかし、アパートのドアが叩かれ、開けると警官が立っている。フランス政府がナチスに協力して、ユダヤ人の一斉検挙を始めたのだ。サラは、とっさに幼い弟をクローゼットに隠し鍵をかける。サラと母親は連行され、帰宅してきた父親も逮捕される。

一家が連れていかれたのは、ヴェル・ディヴと呼ばれるスタジアムのような競輪場である。そこには、胸に黄色い星を付けることを強制されたユダヤ人たち数万人が収容されていた。フランス警察は、一時的にユダヤ人をこの競輪場に収容したのだが、糞尿は垂れ流し状態、水や食料もろくに与えず環境は劣悪だった。それは「黄色い星の子供たち」(2010年)でも詳細に描かれていた。

「黄色い星の子供たち」では、競輪場に収容されたユダヤ人たちを診察するユダヤ人の医師(ジャン・レノ)とユダヤ人ではないが献身的に働く看護師(メラニー・ロラン)の目を通して、収容施設の悲惨さ、過酷さが描かれる。ユダヤ人たちは人間扱いされないのだ。彼らを迫害するのはフランスの警察官たちであり、「いい気味だ」と罵声を浴びせるフランス人たちもいる。

1995年、フランスのシラク大統領は、戦争中、フランス政府もナチスに積極的に荷担し、ユダヤ人を迫害したことを正式に認め謝罪した。この演説映像は「サラの鍵」にも登場する。シラクの演説を聴き、現代を生きる若いジャーナリストが「そんなことがあったなんて...」と嫌悪感を顕わにしたとき、クリスティン・スコット・トーマス演じるジュリアは、「そこにいたら、あなたは何をした?」と問い詰める。

「サラの鍵」は、ユダヤ人迫害の歴史を現代と無縁のものとして描くのではなく、60年以上前の少女の人生が現代に重なることを伝えてくる。現代の安全地帯に身を置いて、過去を批判しても何にもならない。自分がその場にいたら何ができたのか、そのことを観客に問い詰めてくる。ジュリアが訪ねるその時代を知る老人たちは、「私に何ができたというの?」と問い返してくる。

●フランス人監督がフランス警察の容赦のなさを描いた

サラは、クローゼットに閉じ込めてきた弟のことを思うと気が気でない。そのまま収容所に送られることになるとは、夢にも思っていなかった。「おまえが閉じ込めてきたからだ...」と、父親は思わず口にする。焦りが言わせているのだとわかっていても、サラの心は深く傷つく。警察官がきたときは、そうするのが一番いいと思った。弟だけは救いたいと、彼女は弟を隠しただけなのに......

しかし、数日後、ユダヤ人たちは収容所に送られる。男と女が分けられる。父親だけが別のところに移送される。次には大人と子供が分離される。ユダヤ人を選別するフランスの警官たちに情けはない。彼らにとって、ユダヤ人は人間ではないのだ。サラは、子供たちだけの収容所に送られ、そこで病に倒れる。何日も昏睡状態が続き、目覚めると看病してくれた少女がいる。

競輪場に数日収容され収容所で何日も倒れてしまったサラは、目覚めると同時に「今日は何日?」と訊く。サラは看病してくれた少女に「パリに帰らなくては。弟を出してやらないと」と訴える。手には、クローゼットの鍵がしっかりと握りしめられている。サラは脱走し、看病してくれた少女と共に麦畑を走る。森を疾駆する。ただ、弟を救うために......

現代の物語が交錯する。ジャーナリストのジュリアはアメリカ人だが、フランス人と結婚し10代の娘がいる。彼らは、祖父と祖母が暮らしたパリのアパートをリフォームし、家族で暮らすことにする。しかし、戦争中のフランスにおけるユダヤ人迫害を調べていたジュリアは、祖父母のアパートにかつてユダヤ人家族が住んでいたことを知ってしまう。

祖父母がそのアパートを入手したのは、1942年8月のこと。ユダヤ人の一斉検挙があった一カ月足らず後のことだ。ジュリアの心に疑惑が生まれる。義理の祖父母は、ユダヤ人の財産を不当に入手したのではないか......と。ジュリアは義理の祖母を病院に見舞っても何も訊けない。義父を避けるようになり、義父の方から「話がある」と切り出される。義父はアパートに越してすぐの頃、少年だったときに走り込んできた少女の話を始める。

ジュリアの調査が進むのと併行して、サラの物語が綴られていく。脱走したふたりの少女はある農家を覗くが、老夫婦に厄介者扱いされ追い立てられる。翌朝、農夫が納屋にいくと、ふたりの少女が寝ている。サラは目を覚ますが、もうひとりの少女はひどい熱だ。農夫はいたいけな少女たちにほだされたのだろう、病気の少女を抱き上げて母家のベッドに寝かせる。

少女の病は重い。医者を呼びたいが、そのとき村にいるのは親ナチ派の医者だけだ。やむを得ず、老夫婦はサラを隠し、医者に連絡する。だが、やはり医者はナチスと共にやってくる。少女は死に、ナチスの将校は収容所からふたりの少女が脱走したことを告げ、屋敷内を探そうとする。サラを何とか隠し通した老夫婦は、安堵のため息をつく。その夫婦に、サラは「パリへいかなければ...」と訴える。

身の危険を冒してサラをパリに連れていき、アパートまで同行し、その後、サラを自分の娘として育てる老夫婦がいい。特に夫を演じたニエル・アレストリュプが印象的だ。ちょっと陰険な怖い目をしていて、最初、サラたちを追い立てるシーンでは、その陰険さが効いている。少女たちを見付けた翌朝の表情の変化もいい。サラを変装させ、列車でパリに同行する緊迫感あふれる場面の老練さがいい。

●一度傷ついた心はきっかけがあれば再び疼きだす

ジュリアの調査は進み、サラを養女にした農夫から義理の祖父に当てた手紙を入手する。義理の祖父は、サラにアパートの代金として毎月送金をしていた。養父はその礼をのべ、サラがどのように成長していったかを綴る。サラを慈しむ目で見つめる養父の映像に重なる木訥なナレーション。そのとき、過去と現在が交錯し、密接に結びつく。ジュリアはサラの心に思いを馳せる。

ジュリアは、サラの人生にのめり込む。ある日、突然、詫びを書いた一枚のメモを残して養父母の家を出たサラ。「遠い国にいきたい」と言っていたサラを、養父は窓から何も言わず見送る。彼には、サラの心の傷がわかっている。いつか、自分の元から去っていくだろうと予想していた。サラの心の傷は治らない。自分が閉じ込めたばかりに、弟が暗いクローゼットの中で餓死したのだ。それは、彼女の人生を覆う根元的な悲劇である。

サラの生涯を追うことが、自らのアイデンティティーの証明のようになったジュリアも傷を負っている。深い絶望感に囚われる。アルチュール・ランボウが「無傷な心がどこにある?」と謳ったように、人間であれば心に傷を負っている。信じられないほどの厚顔無恥、傲岸不遜な人間であっても、どこかに傷を抱えている。人間の世界に生まれ、他者たちの中で成長する限り、無傷でいることは不可能だ。

現代の日本でサラのような悲劇を背負う人がいるとは考えられないが、心の傷の深さは原因の軽重に関わりないのではないか。ささいなことでも、生涯残る傷を受けることはある。確かに大戦前のヨーロッパでユダヤ人として存在することは悲惨であり、サラのような体験をすることは想像できないほどの重さだ。しかし、サラほどの悲劇を背負わなくても、同じように深い傷を負うことはあるのではないか。

そして、一度傷ついた心は決して治癒することはない。時間が経過し、かさぶたができたとしても、完全には直らない。きっかけがあれば、疼きだす。痛む。再び血が流れる。ジュリアもサラの人生をたどる中で、そのことを知った。サラに救いは訪れなかったが、「サラの鍵」はやがて感動的なラストシーンを迎える。サラの心の傷は現代に受け継がれ、その傷も次の世代では解消されるであろう「希望」を描くのだ。

人は歴史の悲劇を知ることで、それを自分の身に重ね受け継ぐことで、賢明になれる気がする。少なくとも、無知のままでいるよりはマシだろう。僕が映画を見たり本を読んだりする根元のところに、そんな理由があるような気がする。自分が体験できない様々な人生を知ることは、それを知る以前の僕より多少はマシな人間にしてくれると思っている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

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