映画と夜と音楽と...[576]書かれる側の論理/十河 進

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〈わが母の記/黒い潮/あした来る人/海辺の光景〉

●自分の父母について冷静に観察して描き出す

どしゃ降りの雨だ。丸髷を結い、黒っぽい着物に羽織を着た母親が軒下に立っている。彼女は、両脇に立つふたりの娘の手をしっかりと握っている。道を挟んだこちら側の軒下にいるのはひとりの少年だ。少年はじっと母親を見つめている。困った子ね、という表情をして母親が雨に濡れながら道を横切ってくる。少年の頭をコンコンとやさしく叩く。その手にはお守りが握られている。

カットが変わると、それが歳を重ねた小説家(役所広司)の記憶の中のシーンだとわかる。実家の日本間に寝ころび、遙かな過去を甦らせていたのだ。それはとても鮮明だが、断片的な記憶でいつのことかもわからない。妹たち(キムラ緑子、南果穂)が食事を運んでくる。彼女たちにその思い出を確かめてみるが、共通の記憶があるはずもない。兄妹でも、記憶は個々で違っている。

「わが母の記」(2011年)の伊上洪作は40代半ばで小説家になり、すでに20年近くが過ぎている。ベストセラー作家だが、昭和30年代のことだから「流行作家」と呼ぶ方がふさわしい。彼は父親の容態が悪いという知らせで、実家に帰っているのだ。食事を終え、床に横たわる父親に帰ると告げにいくと、父親が布団の中から右手を差し出す。戸惑いながら、洪作はその手を握る。

しかし、握りあった親子の手はどちらからともなく突き放すように離れる。50を過ぎた息子と80になる父親。父と息子という関係には、どこか照れくさいものが存在する。50を過ぎ社会的にも成功した息子は、父親の人生を理解できるだろうが、その生き方を客観的に見てしまうのも事実だ。まして、作家である主人公はひとつひとつの些細なことにも意味を見出そうとする。

井上靖の原作「わが母の記」では、「次の瞬間、私は自分の手が軽く突き返されたような感じを持った。(中略)いい気になって、父の手を握り、冗談じゃないよと、突き離されでもしたような冷んやりとした思いがあった」と記述されている。彼はそのことについていろいろ考え続け、「また一方で、自分の方で父親の手を突き離したのではないかという思いも払拭」できない。小説家らしく、親子の関係を冷徹に描き出す。

昨年の春、「わが母の記」が公開されたとき、「井上靖の小説の映画化は、久しぶりだなあ」と思った。その原作は読んでいなかったので、映画のスチールをカバーにした文庫本を買って読んだ。僕は中学生の頃から井上靖作品を愛読してきたのだ。戦国ものはほとんど読んだし、自伝的な作品も大半は読んだが、それでも未読の作品はたくさんある。




原作を読んでから見たせいか、主人公の気持ちが理解しやすかった。映画的な脚色は多々あったけれど、随筆風に綴られた原作のテーマを鮮明にするには、そういう形になるのだろうなあと思いながら見ていた。特に三女の琴子を演じた宮崎あおいのキャラクターは大きく膨らませている。彼女と父親である伊上洪作の関係、伊上洪作と母親の関係が重なり合う部分もあった。

「わが母の記」は父親の死から始まり、次第に記憶を失っていく母親を描き、その死で終わる物語だ。自分の父母について語るとき、ことさら冷静に観察したような文章になるのは、仕方がない気がする。感情を抑制し、父母の言動、やがて訪れる死について、客観的な描写を心がけるのだろう。しかし、その描写の中から、父母に対する複雑で、深い情感がにじみ出す。

●たった数年間で10数本が映画化された流行作家

最初のシークェンスには「一九五九年」とクレジットが出る。事実に基づいているのだ。実際に井上靖の父親が亡くなったのは、1959年(昭和34年)5月のことだった。代表作「敦煌」の連載が終わったばかりだった。その5月、「楼蘭」と「ある落日」が発売になり、「井上靖集」が新潮社から刊行された。相当に多忙だったことだろう。

「わが母の記」の中でも伊上を演じる役所広司が何度も口にするが、井上靖が小説家として独立するのは40代半ばである。1950年(昭和25年)、43歳のときに「闘牛」で芥川賞を受賞し、毎日新聞社に籍を置いたまま創作の仕事を始める。初めての新聞小説は「その人の名は言えない」であり、これは刊行後すぐに映画化された。

「その人の名は言えない」というタイトルから想像できるように、初期にはメロドラマ風の作品も多い。同時期に書いた「戦国無頼」にしても、時代小説というより恋愛小説の要素が強い。ひとりの武士を巡るふたりの女性の物語である。「戦国無頼」(1952年)は、稲垣浩監督によって三船敏郎主演で映画化された。

当時、井上靖の小説は出せばすぐに映画化されるほど人気があった。次から次に公開されている。1954年から1956年の3年間だけでも11本が映画になっているのだから、売れっ子の流行作家だった。その中では「黒い潮」(1954年)「あした来る人」(1955年)「あすなろ物語」(1955年)などが僕には印象に残っている。

「黒い潮」は、毎日新聞社らしき新聞社が舞台で、扱われるのは下山事件である。当時の下山国鉄総裁が轢死体として発見された事件だ。原作でも仮名ではなく下山総裁と出てくる。主人公の新聞記者を演じたのは山村聰で、彼は監督も担当した。下山事件は他殺説と自殺説があり、東大医学部が他殺説を唱え、慶應大学医学部が自殺説を主張した。新聞社も他殺説と自殺説に別れた。

「黒い潮」は井上靖の代表作のひとつだが、ドキュメンタリー・ノヴェルのような味わいがある。現実の下山事件が未解決のままになったように、「黒い潮」も何も解決しないで終わってしまう。井上靖は後に歴史上の人物を主人公にしたり、史実を元に作品を書いたが、その実証主義的な書き方は「黒い潮」から始まっているように思う。

恋愛小説の系譜は、初期の「猟銃」から脈々と流れている。三人の女性の手紙で構成される恋愛劇は、悲劇の予感を秘めて展開され、ひとりの孤独な男の姿を浮かび上がらせる。「わが母の記」の中で書生の瀬川(三浦貴大)が「先生の初期の作品の中で...」と語るように、井上靖の恋愛小説は互いの気持ちを確かめ合った瞬間に終わる、今の時代から見ればプラトニックな話ばかりだ。

その代表作が「あした来る人」だ。これは川島雄三監督が映画化した。関西の財界人を山村聰が演じ、その娘が月丘夢路であり、月丘夢路の夫で山岳家を演じたのが三橋達也だった。山のことしか頭にない夫を妻は不満に思っている。その妻は東海道線の中で「かじか」の研究をしている学者肌の青年(三國連太郎)と知り合い、心を惹かれる。

一方、銀座に洋裁店を出している新珠三千代は、山村聰から経済的な援助を受けているのだが、肉体関係があるわけではない。山村聰の道楽だ。その新珠三千代は三橋達也と知り合い、山に熱中する男に魅力を感じ、自分の店の二階を連絡事務所に提供する。AはBを愛し、BはCを愛し......まるでフランスの古典悲劇の人物たちのようだが、彼らの慕情は淡く悲劇にまで達することはない。

●自分は母親に棄てられたという思いが物語を創り出す

「わが母の記」の底辺で常に響いているのは、「自分は母に棄てられたのだ」という伊上洪作の思いである。最初に現れる軒下でどしゃ降りの雨を避けている記憶の中でも、少年はひとりだけ離れて母親を見ている。ふたりの妹は、母親にしっかりと手を握られている。少年の顔は見えないが、自分だけなぜ...という表情をしているに違いない。

自伝小説「しろばんば」を読めばよくわかるが、井上靖は子供の頃に戸籍上では祖母に当たる「土蔵のおばあちゃん」に育てられた。彼女は曾祖父の妾だった人である。その生い立ちから彼は「母親に棄てられた」という気持ちを抱くことになる。「わが母の記」のハイライトは、老いて認知症のようになった母親に主人公が子供を棄てたことを確認するシーンである。

それにしても、小説家というのは因果な商売だと思う。映画では三女が父親である伊上洪作に反抗的な態度をとる場面が描かれるが、それは自分たちが小説の素材として描かれることへの抗議でもあるように見える。伊上は父母の姿を描く筆にも、容赦はない。伊上は死んだ父に仕草が似てきたことに、やはり親子だと思うと同時に嫌悪を抱いたことを率直に書く。

先日、92歳で安岡章太郎が亡くなった。第一次戦後派、第二次戦後派に続く第三の新人と呼ばれる小説家の中の代表的なひとりだった。吉行淳之介、遠藤周作などと一緒に括られる。初期には、戦後の貧窮した生活と家族のことを題材に多くの短編を書いた。僕はその陰気な小説が好きで、講談社版「安岡章太郎全集」を揃え、後には岩波版「安岡章太郎集」を購入した。

安岡章太郎がよく題材にしたのは、戦後ふぬけのようになってしまった父親とお嬢さん育ちだが切迫した戦後の生活の中で逞しく口やかましくなる母親、そしてカリエスを患いながらみじめに生きている己である。安岡章太郎が描く父親像は、嫌悪の対象であるかのようだ。それほど冷徹で容赦がない。母親に関しては、愛憎が交錯するような描写である。息子を溺愛し、マザコン気味の息子は、それを嫌う。

代表作「海辺の光景」は、小説家として成功した浜口信太郎が一年前に入院させた母親が危篤だと知らされ、高知の病院に向かう場面から始まる。母親は、一年前、精神病院と知らされずに入院させられたのだ。病院に向かうタクシーに同乗する父親の信吉を描写する眼は、やはり小説家のものだ。

──信太郎は、となりの席の父親、信吉の顔を窺った。日焼けした顎を前にのばし、助手席の背に手をかけて、こめかみに黒味がかった斑点をにじませながら、じっと正面を向いた頬に、まるでうす笑いをうかべたようなシワがよっている。

その後、母親の最期を見守りながら、信太郎は戦後の自分たちの生活を回想する。鵠沼海岸の親戚の別荘に居座り、その日暮らしのように生きていた日々だ。ひとり息子だけに愛情を注ぎ、頼りにしている母親は次第に追い詰められていく。カリエスを患う息子は、あてのない職探しに明け暮れる。そのふたりに疎外されたように生きている父親。そんな家族関係が小説の中から立ち上がってくる。

「海辺の光景」は父母に対する容赦のない描写ばかりだが、当然、信太郎という主人公に対しても同じ眼が向けられる。小説家というのは、ここまで己を晒すものなのか、と僕は初めて読んだ高校生のときに思った。そして、この中編を読み終えたとき、心の深い部分から形容しがたい感情が湧き上がってきた。僕は、感動していたのだ。心が震えるほど、感動していた。

●父母を冷徹に描いても許してもらえるという甘え

「わが母の記」で祖母の面倒を見るために三女の琴子は、一緒に軽井沢の別荘にいく。父親が様子を見に現れる。ある日、大学の友人とテニスをすると出かけた琴子の相手が気になった伊上は、テニスコートに出かけラウンジから琴子の様子をうかがう。父に気付いた琴子がやってきて、ふたりで酒を飲む。そのとき琴子は「今日のこと、小説に書くの?」と問う。

彼女は、父親の小説に自分のことが書かれるのがイヤなのだ。だから中学生の頃は反抗した。母親のように「あなたは、よい作品を書いてくださればいいのです」と、割り切った気持ちにはなれない。小説家の家族であることは、そんなことを覚悟しなければならないのか、と琴子は理不尽に思っているに違いない。

書かれる側の論理で考えれば、言語道断だと思うことはある。たとえば安岡章太郎の書く父親像は、あまりに容赦なさ過ぎないか。短編を発表順に読んでいけば、母親が死んで父親を引き取る話がある。小説家として成功した息子の家の玄関に立つ老父は、ことさら老醜を強調する描き方になっている。それが安岡作品の深さではあるのだが、これを父親が読んだら...と思わないのだろうか、と僕は心配した。

ある有名な小説家の長女が、「私のことを書いたら、絶対に許さないからね」と宣言した話を聞いたことがある。その小説家は息子のことや妻のこと、友人たちのことを書いて売れた人だ。最初はエッセイストとして書いていたから、読者も書かれたものは実際の出来事であり、登場する人物たちは実在の人だと認識していた。彼に書かれたことで有名になった人もいるが、確かに娘は一度も登場していない。

井上靖や安岡章太郎と同列に考えているわけではないが、僕も実在の人のことを書いてきた人間として、書かれる側の論理については気を遣ってきたつもりだ。子供の頃の貧しさについて書いたことがあり、母親が僕の本を読んで「こんなに貧乏だったかな」と兄にこぼしたと聞き気になった。誇張があったかと言えば、あったかもしれない。受け取り方の違いもある。

幸い、うちのカミサンは僕が書くものに何の興味も示さない。というか、僕がものを書くこと自体を嫌っているフシがある。子供たちも関心を示さない。僕は僕なりに人を傷付けないように書くことを心がけているが、何が気に障るかはわからない。書かれる側の立場になって想像するしかないのだが、父母のことを書くときには「これなら許してもらえるだろう」という甘えがある。もしかしたら井上さんも安岡さんも、そうだったのだろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

「紀元節復活」だと建国記念日の反対運動があったのは憶えているが、僕にとっては入社日を憶えておく目安になっている。建国記念日の翌日が社会人の一日目だった。まだ大学卒業前だった。あれから38年が過ぎ去った。

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