映画と夜と音楽と...[607]音もなく忍び寄る者/十河 進

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〈ストーカー(案内人)/静かな生活/希望の国/ストーカー/スニーカーズ〉

●「ストーカー」はいつからマイナスイメージで使われ始めた?

悲しいことに、またストーカー殺人事件が発生した。新聞やテレビが大騒ぎしている。後追いで、週刊誌の記事が賑やかになるだろう。被害者と犯人がネットで知り合っていたことも、いろいろ書かれるに違いない。被害者が18歳の女優志望の美人女子高生、おまけに倉本聰さんの血縁らしい。また、事前に警察に相談していたのに殺されてしまったことで、警察への非難が高まっている。

もう、ずいぶん前のことになったけれど、桶川ストーカー事件では警察が何の対応もしなかったことで娘が殺された、と被害者の両親が訴えた。以来、ストーカー事件があるたびに警察に批判が集まり、警察もストーカー対策を取り始めている。しかし、現実問題として具体的な事件が起こっていないことに対して、警察の動きは鈍い。門前払いされた話も聞く。極端に言えば、殺されなければ警察は動かない。

こういう時代だから、民間のボディーガード会社に依頼が殺到しているらしい。海外ではよく聞く話だが、日本でそんな時代がくるとは思わなかった。昔、僕はフリーのボディーガードを主人公にした物語をいろいろ考えたが、今だったらリアリティのある話になる。セコムやアルソックといった警備会社には個人警備部門はないようだが、ネットで検索すると個人を対象にした警備会社は山ほどある。




「ストーカー」という言葉は、いつからマイナスイメージで使われるようになったのだろう。アンドレイ・タルコフスキー監督の「ストーカー」(1979年)が日本で公開されたのは、1981年のこと。そのとき、僕は初めて「ストーカー」という言葉を知った。当時、「ストーカー」は聞き慣れない言葉だった。映画「ストーカー」がその言葉を広めたのは間違いないが、映画を見た人は「案内人」という意味で受け取った。

原作は映画が公開された後、1983年にハヤカワSF文庫として翻訳された。僕が持っているのは1992年に発行された7刷だから、それなりに売れたのだろう。ソ連時代の小説だから、当然、ロシア語で書かれたもので、タイトルは「道端のピクニック」という意味である。主人公の密猟者が「ストーカー」と呼ばれている。

映画は「ストーカー」をタイトルにした。もっとも、原題はロシア語であり、それを英訳した言葉が「ストーカー/STALKER」だった。「獲物を追う者」という意味の他に、「忍び寄る」という意味がある。森の中で獲物を見つけ、音もなく忍び寄っている猟師の姿が浮かぶ。対象が人間になると、現在、使われている「ストーカー」の意味になるのだろう。

「ストーカー」はタルコフスキーのすべての作品がそうであるように、非常に喚起的なイメージにあふれた映像に充ち、だからこそ理解することが非情に難しい。描かれるイメージは何らかのメタファー(隠喩)であるし、作者のメッセージを含んでいる。それを読み解こうとすれば迷宮に陥り、そのまま受け取ろうとすると不可解さに戸惑う。

正直に書くと、僕はタルコフスキー作品はどれも好きだし、ときどき、その映像に浸りたくなるけれど、その一端でも理解できたとは思わない。だから、あるときから理解することを放棄した。物語も追わなくなった。ただ、その映像に浸るだけだ。すべての作品に登場する「水」のイメージ。それがたまらなく好きである。「ストーカー」も「水」のイメージに充ち、原初の感覚を呼び覚ましてくれる。

●「ゾーン」と呼ばれる地域の存在は何を意味しているのか?

地球を訪れ人間とコンタクトしないまま去った異星人たちの痕跡がある地域が、「ゾーン」として隔離されている。そこでは何が起こるか予想ができず、危険に充ち、入った人間たちは戻ってこない。「ゾーン」は立入禁止とされ、官憲によって厳重に警戒されている。「ストーカー」と呼ばれる者たちは、その警戒網をかいくぐり、命がけで「ゾーン」に浸入し、異星人たちが残していったものを持ち出す密猟者である。

その設定を継承して映画版「ストーカー」も展開するが、原作者が脚本に参加しているものの、原作とはまったく別のものになった。主な登場人物はストーカー(案内人)と妻と娘、「ゾーン」への案内を依頼する作家と物理学者だけだ。3時間近い映画のほとんどのシーンには、ストーカーと作家と物理学者の三人だけしか出てこない。

作家と物理学者は、なぜ危険を冒して「ゾーン」の奥にある「部屋」にいこうとしているか。それが謎のまま彼らは「ゾーン」の奥へと入っていく。「ゾーン」の奥にある「部屋」に入れば人間の最も切実な望みが叶うと言われている。だから、禁を犯し、危険を省みず「ゾーン」に浸入する者が後を絶たない。観客に思索を強いる、哲学的な作品である。

そんな危険な「ゾーン」に出入りする「ストーカー」は「呪われた者」であり、その子供は肉体的な奇形を持って生まれてくる。しかし、その子が最後には超能力らしいパワーを見せる。何度見ても完全には理解できないし、その必要もない。映画を「完全に理解する」必要などないのだ。ただ、圧倒的なイメージと音の世界に身を浸らせばいい。

「ストーカー」について、より深く思索しようとするときに最適のテキストがある。大江健三郎さんの連作長編「静かな生活」である。大江家を思わせる一家がいる。父母が長期に海外にいき、マーちゃんと呼ばれる長女が知的障害のある兄イーヨーの面倒を見ている。弟のオーちゃんとの三人暮らしである。語り手はマーちゃんであり、6編の短編で構成されている。

「案内人(ストーカー)」と題された章は、3編目に配置されている。260頁の単行本の89頁から110頁までの22頁の短編だ。「深夜テレヴィ映画から弟が録画してくれた、タルコフスキーの『ストーカー』を見た。めずらしくイーヨーが一緒に最後まで見たのは、かれにとってこの映画の音楽が面白かったからだ」と始まり、全編、「ストーカー」をどう理解するかと会話する話である。

マーちゃんが「ストーカー」について会話する相手は、弟のオーちゃん、イーヨーの音楽の先生である重藤さんと奥さんだ。重藤さん(たぶん武満徹さんだと思うのだけど)は友人のロシア文学者にいろいろ確認して、マーちゃんに新しい解釈を示唆してくれる。そして、頭がふたつある姿で生まれ(「個人的な体験」を読むべし)、音楽的才能にあふれたイーヨー(大江光さん)の喚起的な言葉にハッとする。

「静かな生活」(1995年)は、イーヨーやマーちゃんのモデルになった大江家の子供たちの伯父(母親の兄)、伊丹十三監督によって映画化された。主演は「毎日が夏休み」の佐伯日菜子である。この頃の彼女は非常に魅力的だ。あの大きすぎる目も役柄に合っている。イーヨー役を演じた渡部篤郎は、この映画で一躍注目された。日常を描くだけで次第にサスペンスを感じ始めるのは、さすがに名手・伊丹監督だと思った。

小説が書かれたのは、1990年のこと。チェルノブイリ原発事故の5年後だった。「ストーカー」が制作されたのは1979年だから、チェルノブイリ原発事故の6年前である。しかし、チェルノブイリの事故を経た今になって見ると、「ゾーン」と「チェルノブイリの立入禁止地域」が重なる。タルコフスキーは、まるで予言していたようだ。そして、大江さんもオーちゃんにこう言わせている。

──タルコフスキー監督は、大きい隕石かなにかが落ちて一瞬にして消滅した村を描いているようだけど、それはチェルノブイリの原発事故のあとの村、としてもいいわけだ。

●「希望の国」は「絶望の国」の意味で使われているのだろうか?

園子温監督の「希望の国」(2012年)を見たとき、僕は「ストーカー」に出てきた「ゾーン」を思い出した。この映画では地名や県名や、その他のいろいろな固有名詞は変えられているが、そこで描かれているのは、もちろんフクシマの原発事故だ。ある村で牛を飼っている畜産農家が描かれる。年老いた父親(夏八木勲)と認知症気味の母親(大谷直子)、長男と結婚したばかりらしいその妻の四人が働いている。

ある日、大きな地震が起こり、その後、何かが爆発する音が聞こえてくる。翌朝、防護服の男たちがやってきて、隣の家の人たちを強制的にバスに乗せて連れていく。隣の家との間に大きな柵を作り、立入禁止にする。男たちは「20キロ圏内は立入禁止」と言うのだが、その柵のすぐ外側にいる彼らは、当面、避難の対象ではない。庭に大きな木と母親が丹精している花壇があるが、男たちはそんなことに頓着せず画一的な対応しかしない。

父親は、妊娠した嫁と息子を避難させる。嫁は生まれてくる子のために、周囲から異常と思われるほど放射能に対する過剰な防護をする。全身を覆う防護服を着て買い物にいく嫁は、周囲から指をさされても子供のことを思えば平気でいられる。息子は汚染地域に残してきた父母を思って後ろめたく感じ、心が揺れている。ふるさとの山には、もう戻れないことが悲しい。

やがて20キロ圏外の人たちにも退去命令が出る。しかし、父親は動かない。自分が育った場所だし、その家には自分の歴史が刻み込まれている。妻に結婚を申し込んだ思い出の場所もある。毎年、夏祭りに出かけた場所もある。庭の大きな木は、結婚したときに植えたものだ。それが大きく育った。妻の花壇もある。それを棄てることはできないし、どこへいけというのか。

認知症が進行した妻が柵を越えて、立入禁止地域(まさに「ゾーン」だ)に入っていく。雪が降り、周りが真っ白になっている。美しい風景である。父親は警察官の制止を振り切って小型トラックを走らせ、「ゾーン」の中へ入っていく。妻は盆踊りを思い出したのか、雪景色の中で一心に踊っている。妻と一緒に彼も踊り出す。老夫婦が、誰もいない雪景色の中で踊り続けるシーンが美しく、悲しい。

彼は決断する。猟銃を持って牛舎に入る。丹精して育てた牛たちだ。何も知らず餌を食べ、モーと鳴いている。決意した表情に悲しみが宿る。誰もいなくなった「ゾーン」の空に銃声が響く。これは、フィクションではない。現実だ。フクシマの現実なのだ、と強いメッセージがスクリーンから伝わってくる。夏八木勲の最後の主演映画、そして遺作になったことも「希望の国」に意味を与える。「希望」は、本当にあるのか。

「希望の国」を見てから「ストーカー」を見返すと、チェルノブイリ、フクシマと続く、人類の愚かさから生まれた悲劇が伝わってくる。「希望の国」は「絶望の国」なのではないか。人類は、ついに「ゾーン」的世界を放逐することはできないのではないか。そう感じつつ、「希望の国」では生まれてくる子供に希望が託され、「ストーカー」では主人公の娘に希望が託されている気がする。「希望」がなくては生きていけない。「絶望」とは「死に至る病」だから......。

ちなみに「ストーカー」(2002年)というハリウッド映画が、2003年春に公開されている。その頃には「つきまとう異常者」の意味で、「ストーカー」が使われていた。コメディアン出身で名優のロビン・ウィリアムスが主演した、当時流行の「異常な隣人もの」の一本である。ロビン・ウィリアムスは、大型スーパーなどに入っている、一時間で現像・プリントを仕上げるショップの店員を演じた。

彼はいつも写真を出しにくる若妻に好意を持ち、その家族にも異常な愛着を示す。彼女に渡す写真とは別にワンセットを自分のためにプリントし、その家族の写真をアルバムに整理している。家族がいつどこへいったのか、すべて把握している。彼は家族と仲良くなり、食事に招かれる。気のいい友人と思っていた一家は、やがて彼の異常な執着に気付く。まさに、ストーカーである。

調べてみたら原題は「ONE HOUR PHOTO(一時間プリント)」であり、「ストーカー」という言葉はどこにも出てこない。英語にはあるけれど、もしかしたら「ストーカー」は日本で使われ始めた言葉だろうか。昔、ロバート・レッドフォードの「スニーカーズ」(1992年)という映画を面白く見た。「音もなく忍び寄る者」という意味では、「スニーカー」の方が合っている。しかし、「スニーカー」じゃ、みんなゴム底靴を連想するだろうなあ。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951 >

会社の若者が結婚し、披露宴に呼ばれた。新郎新婦の友人代表がスピーチでそれぞれ感極まって泣き出し、「もらい泣きしそうだ」と言っていたら、年のせいか本当に泣いてしまった。最後の両親への挨拶で新婦の父親が涙をこらえているのがわかり、少しうらやましかった。我が家の息子と娘は、結婚しそうにないなあ。

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< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
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