映画と夜と音楽と… 615 自分のことしかわからない/十河 進

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〈運命じゃない人/アフタースクール/鍵泥棒のメソッド〉

●どんな人も一人称でしか生きていけない

小説の設定にたとえれば、どんな人も一人称で生きている。「私」であるか、「僕」なのか、「俺」なのか、あるいは「あたし」なのか、「あたい」なのか、「うち」なのかはわからないが、誰も「彼は…」とか「安倍は…」といった三人称で生きることはできない。そのせいか、物語は三人称(あるいは神の視点)によって語られることから始まった。神話はまさに神の視点を持ち、「源氏物語」は「いずれの御時にか…」とすべてを知っている語り手が語り始める。


小説が一人称で語られるようになったのは、人物の内面(精神世界)を重視するようになったからである。特に20世紀になってからは、一人称の小説が多くなった。それまでは、一人称の語り手が設定されていたとしても、内容は三人称的だった。一人称に慣れると、たとえばフローベールの「ボヴァリー夫人」を読んだとき、冒頭に登場する「私」という語り手がいつの間にか三人称的描写(神の視点)を始めるのに違和感を感じるようになる。

「偉大なギャツビー」は冒頭に語り手ニックが登場し、自分の哲学を述べる。やがてギャツビーとデイジーの物語になるが、ずっとニックの一人称視点が維持される。ギャッツビーはニックが見聞した言動(ニックの視点)によってのみ描写され、内面が直接描かれることはない。その言動や表情からニックがギャツビーの内面を推察することはあっても、「ギャツビーはデイジーを想うと、いてもたってもいられなかった」といった文章は出てこない。

ミステリでもコナン・ドイルは別としても、エラリィ・クィーン、ディクスン・カー、ヴァン・ダイン、アガサ・クリスティなどは三人称で描いた。しかし、リアリズムを重視するハードボイルド派は、一人称を採用した。コンチネンタル・オプ、フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャーなどメインストリームの私立探偵たちは「私」で語り、暴力派マイク・ハマーも「俺」と悪ぶってキャラクターを鮮明にした。もっとも、英語ではみんな「I」なのではあるけれど……

主人公のリアリティを求めると、小説は一人称になるのではないか。「ライ麦畑でつかまえて」がホールデンという少年の一人称でなかったら、あれほどの読者を得られたかどうかはわからない。多くの若者は、ホールデンの語りに自己を投影し、共感し、ホールデンのように傷つきやすい己を確認して自己満足する。あるいは、「長いお別れ」を読んでマーロウの警句に心酔し、マーロウの高潔さや精神性に憧れ、こんな男になりたいと願う。

もっとも、現実には一人称でしか生きることができない人間は、物語には神の視点を求めることが多い。その物語世界のすべてを知りたいと願う。語る方の側で、この変化をたどったのが村上春樹さんである。「僕」という一人称での語りが長く続いたが、カメラアイ的な視点を採用した長編「アフターダーク」を経て「1Q84」では完全な三人称的世界を構築した。数人の視点で物語を構成し、多層的な世界を生み出した。個人的な感性ではなく、物語的面白さを重視したのかもしれない。

映像は、一人称描写が苦手だ。かつてフィリップ・マーロウの一人称を映像化しようと試みた「湖中の女」(1946年)という映画があった。カメラはマーロウの目になり、マーロウ自身の顔が映るのは彼が鏡を見たり、ショーウインドウに映ったりするときだけだった。それ以降、全編にその手法を採用した映画はない(部分的に採用した作品はある)ようだから、おそらく失敗だと判断されたのだろう。

●複雑な物語を見事に構成して描写する内田監督

内田けんじという監督がいる。アメリカの大学で映画を学び、帰国後、自主映画「ウィークエンド・ブルース」(2001年)で、ぴあフィルム・フェスティバルに入選して注目された。その後、「運命じゃない人」(2004年)、「アフタースクール」(2008年)、「鍵泥棒のメソッド」(2012年)と、寡作だが確実に質のよい作品を作り続けている。僕が新作を待ち望む若手(もう中堅ですね)監督のひとりだ。

内田監督の作品を見ると、彼が小説を書くとしたら一人称にはならないだろうなあと思う。実は、最近の日本映画には一人称的作品が多いのだ。その中で内田監督は、徹底的に物語の面白さを追及する。その面白さを映像的にどう描けば、さらに面白くなるかと発想する。文章ではなく、映像が持つ有利さを生かす。だから、シナリオ作りに時間をかける。練りに練ったシナリオができて、初めて制作を始める。その結果、作品数が少なくなる。

「運命じゃない人」を見たとき、これはスタンリー・キューブリックが「現金に体を張れ」(1956年)で使った手だなと思ったけれど、それよりずっと洗練され、うまく構成していると感心した。たとえば、あるシーンに四人の人物が登場しているとする。最初はAの視点で描き、次に時間を遡ってBを描き、Bがなぜそのシーンに出ているかを明かし、同じようにC、Dの人物の事情を描くのだ。

「運命じゃない人」の冒頭は、マンションまで買ったのに婚約者(板谷由夏)に振られたお人好しで気の弱いサラリーマン宮田(中村靖日)がレストランで親友の神田(山中聡)に慰められ、アドバイスされているシーンである。神田の背後のテーブルには、若い女性の真紀(霧島れいか)がいる。神田は私立探偵でヤクザ(山下規介)とのトラブルを抱えているが、宮田を励ますために、突然、背後のテーブルにいた女性に声をかける。

この同じシーンにたどり着くまで何があったか、時間を遡って神田の事情を観客に明かし、さらにナンパされ宮田のマンションについていくことになる真紀の事情も時間を遡って明かされる。こう書いていて、思い出したのはクエンティン・タランティーノ監督の「パルプ・フィクション」(1994年)だ。レストランにいる客たちのそれぞれの時間を遡り、そのシーンに到るまでが描かれた。内田監督の世代ならキューブリックではなく、タランティーノに影響を受けたのだろう。

内田監督の映画では、すべてが伏線になる。宮田が夜道を歩くシーンで彼を追い越していくトラックが、別の人物の物語では重要なファクターになったりする。主要な登場人物は五人。その五人の物語(切羽詰まった事情)が錯綜し、複雑に絡み合い、影響し合って展開される。物語の核になるのが大金(だと思い込む)だから、コメディタッチでもサスペンスが盛り上がるのだ。

この映画を見たとき、僕は山下規介以外の役者を知らなかった。劇場映画第一作目で予算もなく、キャストに金がかけられなかったのだと思う。しかし、それが効果的だった。この役者がやってるのなら端役じゃないな、後で重要なキャラクターになるのかな、といった先入観から自由だったからだ。しかし、その後、宮田役の中村クン(印象的な顔です)は売れてCMにも出ていたし、板谷由夏も今では売れっ子女優になった。

劇場映画二作目の「アフタースクール」はさらにパワーアップしたフェイクとフックとドンデン返しの連続で、観客はアレアレと思っている間に完全に騙される。人気作家ジェフリー・ディーヴァーのミステリ(10頁に一度ドンデン返しがある)を読んでいるようだ。これだけのシナリオを書くには、数年かかっても仕方がないと思う。巻末のクレジットタイトルが終わってもまだ驚きのカットがあり、気持ちよく劇場を後にできるのは監督の配慮だろう。

「運命じゃない人」がカンヌで評価され話題になったためか、制作費も潤沢になったのだろう、「アフタースクール」には大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人という売れっ子俳優が主演し、女優陣も常盤貴子、田畑智子と主演級が出演した。それぞれの人物の物語が進行し、どうつながるのかわからないまま観客は驚きの瞬間を迎える。コメディだがサスペンスが高まるのは、「運命じゃない人」と同じである。これだけ、はっきりしたスタイルを持つ監督は、最近では珍しい。

●売れない役者と殺し屋の人生が入れ替わるコメディ

「鍵泥棒のメソッド」の主要な登場人物は三人である。様々な高級品を紹介するグッズ雑誌編集長で几帳面な香苗(広末涼子)、売れない役者でだらしない生活を送る桜井(堺雅人)、誰も顔を知らない闇社会で有名な殺し屋コンドウ(香川照之)である。そこに、殺される会社社長と愛人(森口瑤子)、闇社会のボス(荒川良々)とふたりの子分、香苗の入院中の父親(小野武彦)と母親(木野花)と姉がからむ。

始まってすぐ、香苗の几帳面な性格の描写がある。彼女はスタッフに結婚宣言をするが、相手は未定だという。この奇妙なオープニングで観客を興味を喚起し、車の中でクラシックを聴くコンドウが登場する。彼は用意周到な準備をして、屋敷から出てきた男を刺し殺し高級車のトランクに投げ込む。それをチンピラらしい男が見ている。続いて、大きな音と共に首つり自殺を失敗して床に落ちた桜井のシーンになる。桜井は千円ちょっとしかない財布を広げ、銭湯の入浴券を見付ける。

この三つのシーンがどうつながっていくのか、内田映画を見慣れた観客はゾクゾクする期待感が湧いてくる。伏線を見逃すまいと身構える。初めて見る観客は、たぶん戸惑いながら見ることになる。注意深く見ていても、おそらく伏線を見逃す。見終わって、もう一度見たいと思うかもしれない。よくまあ、これだけ伏線を張るものだと、僕は結末を知ってから改めて感心した。

桜井とコンドウ(手に付いた少量の血を流したくて)は、たまたま同じ時間に同じ風呂屋に入ることになり、昔ながらの鍵のついた隣り合わせのロッカーに所持品と衣服を入れる。桜井が身体を洗っていると、浴場に入ってきたコンドウが石鹸を踏んですべり昏倒して気を失う。コンドウの膨らんだ長財布を見ていた桜井は、出来心でコンドウのロッカーの鍵をすり替える。

コンドウが救急車で運ばれ、桜井はコンドウの衣服を身に着け、車を見付けて乗り込み友人たちを訪ねる。彼らは解散した劇団仲間であることが、後にわかる。桜井は最後にかつて一緒に住んでいた女性を訪ねて借金を返すが、彼女は引っ越しの最中で「今度、結婚するの。留守電に入れておいたけど…」と言う。これも、後に重要な伏線だとわかる。

気がとがめる桜井は病室で眠るコンドウを見舞うが、コンドウが記憶喪失になり、持っていた納税通知書(これも最初に伏線が張られる)の住所と氏名から、自分が桜井だと思っていることを知り、何も言わずに病院を出る。その途中でアパートの大家と会うのは辻褄を合わせる意味でも必要なシーンで、何から何まで考えられたシナリオである。

桜井の汚いジーンズとワークシャツ(きちんとジーンズの下に入れている)を身に着けたコンドウは、入院している父親の見舞いを終えて帰る香苗に道を訊ねたのがきっかけで、香苗に車でぼろアパートまで送ってもらう。その途中、ふたりは名乗り合うが、コンドウが「桜井…だそうです」と言ったのを聞き香苗はコンドウが記憶喪失なのを知る。ここで、最初のシーンが効いてくる。観客は予感する。

不安そうなコンドウが気になり、香苗はアパートの部屋まで一緒にいく。観客はふたりが恋に落ちるのでは…と思い始める。しかし、相手は殺し屋だぜ…と、観客は先はどうなるのかと気にかかる。ホラ、もう目が離せない。やがて、予測不能の展開があり、まことに気持ちのよい結末が待っている。脚本を書いた内田監督は、登場人物たちにとっては神なのだ。監督が彼らを作った。だから、彼らのすべてを監督は知っている。

●現実の人生では謎はなにひとつ解けることはない

映画を見る、小説を読むとき、観客(読者)は作者の視点に立つ。作者が一人称で描けばその人物の視点になり、三人称多視点で描けばほとんど神の視点に立つ。しかし、観客(読者)は作者によってコントロールされる。作者がいつ、どんな情報を観客(読者)に与えるか、それが「語り方(描き方)」のテクニックであり、それが成功すると作品の評価が高まる。

逆に言えば、観客(読者)に情報をいかに隠すか、ということだ。それは、謎解きや種明かしを効果的にするためのテクニックである。作者はすべてを知っていて、観客(読者)を騙し、思い込ませてミスリードする。その結果、「実は…」という謎解き、事情の説明や種明かしをしたとき、観客(読者)は「そうだったのか…」とカタルシスを感じることになる。精神を浄化された観客は、晴れ晴れと映画館を後にする。

内田監督の映画に人気があるのは、「わかりやすい映画」だからだ。結末ですべての謎は明かされ、解決する。すべての伏線が収拾される。謎は残らない。現実生活ではあり得ないから、人々はすっきりするのかもしれない。現実では、人は毎日、様々な謎を感じ、それを自覚しないまま生きている。たとえば、朝起きて妻が挨拶しなかった。なぜだろう、と思うが理由はわからない。「機嫌が悪いのか」と思って諦める。いちいち、気にしてはいられない。

人生では、ドンデン返しはほとんどない。伏線みたいなものも気付かない。人生で青天の霹靂のようなドンデン返しがあるとしたら、男女間のことかもしれない。たとえば、恋愛関係にある男Aと女Bがいるとする。彼らの友人の男Cがいて、よく一緒に飲んだり、遊んだりしている。Aは何も気付かないが、ある日、BからCを好きになったと告白される。Aは衝撃を受けるが、そういう視点で振り返ればいろいろと思い当たることが甦ってくる。

こういうドンデン返しと「そういえば、あのとき…」と思い当たる伏線は、経験した人がけっこういるのではないだろうか。夏目漱石も「こころ」や「門」や「それから」で書いていて、日本文学のひとつのテーマになっている。まあ、バリエーションはいろいろあっても、基本はこのパターンだ。結局、誰もが自分のことしかわからない。どういうことをしてきたのか、何を考えてきたのか、誰を好きだったのか、すべて一人称の世界である。

人が映画や小説など物語に明確な結末と謎解きを求めるのは、謎が謎のまま過ぎてゆく、曖昧なまま人間関係が続いていく、不可解なまま人生が進んでいくことの不安があるからかもしれない。そうはいっても、人の心が手に取るようにわかったら、あるいは神のようにすべてがわかるようになったら、それはそれで困る気がするのだけれど……

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951 >

国会を取り巻く無数の人々の反対を押し切って日米安保条約改定を強行し、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介を孫の晋三クンは尊敬している。岸の悲願だった改憲実現のために、晋三クンはまず特定秘密保護法の強行採択で祖父を真似た。岸は満州の関東軍と組み、日中戦争に暗躍した。晋三クンも祖父を真似て、日○戦争(軍事衝突)をやりたいみたいだなあ、やれやれ。(十河)

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