映画と夜と音楽と…[632]過去は取り戻せるか?/十河 進

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〈華麗なる激情/華麗なる賭け/華麗なる週末/ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦/華麗なる対決/華麗なる大泥棒/華麗なる闘い/華麗なる一族/華麗なるギャツビー〉


●「華麗なる」という形容詞がつけられた映画は100本以上

「華麗なる」という形容詞がつけられた映画は、いったいいくつあるのだろう。ネットの映画サイトで検索してみたら100本以上ヒットした。60年代半ばから「華麗なる」という形容詞が流行し、僕が初めて見た「華麗なる映画」は「第三の男」(1949年)で有名なキャロル・リード監督が、チャールトン・ヘストン主演で撮った「華麗なる激情」(1964年)だった。

「華麗なる激情」の主人公は、華麗なる芸術家ミケランジェロである。彼がシスチネ大聖堂の天井にフレスコ画を描く姿が、今でも僕の中にはありありと浮かんでくる。深く印象に残った映画だ。天井まで足場を組み、そこに寝転がってミケランジェロは絵筆を使う。当然、文部省推薦映画となり、僕はこの映画を映画教室の一本として見た。

その次に「華麗なる」というタイトルが続いたのは、スティーブ・マックィーンだった。テレビシリーズ「賞金稼ぎ」で注目され、「大脱走」(1963年)で人気スターになったマックィーンは、60年代を代表するアクション俳優だった。彼の映画では、まず「華麗なる賭け」(1968年)が公開された。後にリメイクされ、「トーマス・クラウン・アフェアー」(1999年)として公開されるが、最初の作品も原題は同じである。

「華麗なる賭け」がヒットしたのか、原題とまったく関係のない「華麗なる週末」が公開され、サム・ペキンパー監督のロデオ映画も「ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦」(1972年)になった。その他、BB対CCの「華麗なる対決」(1971年)やジャン=ポール・ベルモンドの「華麗なる大泥棒」(1971年)なども同時期に公開された。ちなみに、BBはブリジット・バルドー、CCはクラウディア・カルディナーレである。

邦画では山崎豊子のベストセラーを映画化した「華麗なる一族」(1974年)が公開されたが、その前に「華麗なる闘い」(1969年)という東宝映画がある。人気アイドルだった内藤洋子が野望を抱く若手デザイナーに扮し、人気デザイナーの岸恵子を相手にイメージチェンジをはかった映画だったが、この後、内藤洋子は結婚し引退してしまう。

「華麗なる」という言葉が一般的になったのは、山崎豊子のベストセラーが出て以来だと記憶しているけれど、映画会社の宣伝部ではそれ以前からよく使っていたのだ。「相続人」(オードリー主演)「女銀行家」(ロミー・シュナイダー主演)「追跡」(志穂美悦子主演)「不倫」「復讐」「変身」など、いろいろある。しかし、どれも内容は想像もつかない。だいたい「華麗なる不倫」って何だ?

●「華麗なるギャツビー」が定着してしまったけれど

「華麗なる」がついた映画では、「華麗なるギャツビー」が有名だ。70年代の人気スターだったロバート・レッドフォードが主演したため、そのゴージャス感を伝えようとして宣伝部は「華麗なるギャツビー」(1974年)とした。高校時代から「グレート・ギャツビィ」として愛読していた僕は、当時、いたく憤ったのを憶えている。

しかし、女性に圧倒的人気を誇ったレッドフォードである。新潮文庫は映画のワンシーンを刷ったカバーを文庫にかぶせ、「華麗なるギャツビー」に変えた。カバーを外すと、表紙には「グレート・ギャツビー」とある。僕が最初に読んだのは集英社版「世界文学全集」に収められた「偉大なギャツビー」だったが、世の中には「華麗なるギャツビー」が定着してしまった。

スコット・F・フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」は、ことあるたびに村上春樹さんが影響を受けた本として取り上げ、自身で翻訳まで出したので日本でも多くの読者を得た。表層的には、女性にも受けそうな物語である。五度にわたる映像化作品では、ローリング・トゥエンティの華麗な狂騒を描き出し、当時のファッションを現代風に再現して話題を呼んだ。

しかし、ニック・キャラウェイという語り手を設定し、彼の視点で描き出すギャツビーという男の哀しさは、同性によって共感されるべきものだと思う。僕は何も女性を差別するつもりではないけれど、村上春樹さんと同じように十代の僕が感銘を受けたのも、そこに「男の哀しい人生」が描かれていたからだ。ギャツビーは哀しい。そして、偉大だった。一途な想いを抱いて、彼は短い人生を駆け抜ける。

「グレート・ギャツビー」は、フィッツジェラルドの死後に評価されたと言われているが、発表当時から注目はされたはずだ。小説が出たのが狂騒の20年代ど真ん中、1925年である。その翌年、ハリウッドはさっそく映画化している。「或る男の一生」(1926年)という邦題で公開された。このありきたりなタイトルは、「華麗なるギャツビー」より内容を表していると僕は思う。

二度めの映画化は、大戦後のことだった。「シェーン」(1953年)の人気スター、アラン・ラッドが主演し日本では「暗黒街の巨頭」(1949)の邦題で公開された。これではまるでギャング映画だが、当時、アラン・ラッドはハメット原作の「ガラスの鍵」(1942年)やチャンドラー脚本の「青い戦慄」(1946年)など、暗黒街映画によく出ていたからその線で売りたかったのだろう。

もちろん「グレート・ギャツビー」には撃ち合いやアクション・シーンはないが、ギャング映画的要素は皆無ではない。謎の富豪ギャツビーは禁酒法時代に酒の密売で財を築いたと噂されるし、ギャツビーの周囲には大物ギャングらしき人物やいかがわしい男たちが登場する。禁酒法時代に酒の密売で富を得るのは、シカゴのアル・カポネと同じである。ギャツビーには、暗い一面が存在するのだ。

三度めの映画化は、ロバート・レッドフォード主演「華麗なるギャツビー」だ。最初と二度めには23年の間隔があり、三度めはその25年後だった。そして、さらに27年後、テレビムービーとして「華麗なるギャツビー」(2001年)が制作された。ヒロインのデイジーを演じたのは、ミラ・ソルヴィーノだった。レッドフォード版でミア・ファローが演じた役である。

●キャリー・マリガンのデイジーに期待して見た

昨年、五度めの映像化であるバズ・ラーマン監督版「華麗なるギャツビー」(2012年)が公開されたとき、僕が期待したのはデイジーをキャリー・マリガンが演じていたからだ。少し鼻が上を向いた(「グレート・ブルー」のロザンナ・アークェット風)キュートな女優さんである。僕は「17歳の肖像」(2009年)以来、ひいきにしている。それに、生真面目そうなドビー・マクガイアは、語り手ニックに似合いそうだった。

問題はレオナルド・ディカプリオだったけれど、今までアラン・ラッドやロバート・レッドフォードなど美貌の男たちによって演じられたギャツビーを、ディカプリオは正体不明の怖さを付加して表現し、原作に最も近いギャツビーおよびその世界を創り出した。彼が初めて登場するのは、映画が始まってしばらくしてなのだが、最初に桟橋に立つ後ろ姿が映ったとき、女性ファンはグッときたことだろう。

僕はCGで描き出す世界は、未来より過去が向いていると思っている。日本なら「三丁目の夕日」シリーズが成功例だが、バズ・ラーマン監督は「ムーラン・ルージュ」(2001年)でそれを実証し、「華麗なるギャツビー」で深化させた。対岸に建つ邸宅に暮らす昔の恋人デイジーを想い、その邸宅の光を自宅の桟橋からじっと見つめるギャツビー。CGを駆使することで、象徴的な映像になっている。

ディカプリオは目つきが悪い。穏やかな表情では目立たないが、怒りのように強い感情を見せるとき、彼の目つきは「悪人の目」になる。もちろん、それは演技者としてのディカプリオの武器であり、「華麗なるギャツビー」のクライマックス・シーンでもその武器が役に立った。生まれながらの大富豪で成金のギャツビーを見下すデイジーの夫トム。彼と対決するとき、ギャツビーは怒りに駆られギャングのように凄んでしまう。

ロバート・レッドフォードには誠実さや上品さが漂うから、ギャツビーの育ちの悪さやいかがわしさがあまりうまく表現できなかった。ところが、ディカプリオには出自のわからない大富豪の胡散臭さがあり、僕は最も映像化に成功したのが今回の「華麗なるギャツビー」だと思った。原作で以下のように書かれていたギャツビー邸のパーティも狂騒感が実によく出ていた。

……数百フィートのキャンバス布と、ギャツビーの広大な庭を一本のクリスマス・ツリーに変えてしまえるほどの大量の色つき電球も一緒に運ばれてきた。ビュッフェ・テーブルにはきらびやかなオードブルや、まだら模様の野菜サラダとぴったり並べられたスパイスつきのベークト・ハムや、ほれぼれするような黄金色に焼き上げられた、豚や七面鳥のかたちをしたパンなんかが揃っていた。(村上春樹・訳)

そして、パーティのバカ騒ぎの描写が派手であればあるほど、湯水のように金を使えば使うほど、ギャツビーがやりたかったことの虚しさと哀しさが浮かび上がってくる。たったひとりの女のために、偉大なジェイ・ギャツビーは莫大な金を稼ぎ、それを浪費するのである。かつて自分を棄てて、別の金持ちの男と結婚したデイジーのために……

●ギャツビーにとってデイジーは「夢」になった

初めて「偉大なギャツビー」を読んだとき、僕は「なんだか『金色夜叉』みたいな話だなあ」と思った。パーティで上流階級の美女にひとめ惚れした貧しい将校が彼女と恋仲になり、やがて別れて戦場に赴く。その間に恋人は、大富豪の息子と結婚する。「金色夜叉」の間貫一は裏切って金持ちの男に嫁いだお宮を見返すために、高利貸しになって金をためる。ギャツビーは、恋人を取り戻すために金持ちになる。

どちらも過去に囚われた男たちである。「華麗なるギャツビー」の中で何度も繰り返されるセリフは、「過去は取り戻せない」「過去は変えられない」というものだった。そう、過去は変えられないし、取り戻すことはできない。しかし、ギャツビーは金の力で過去を取り戻そうとした。そして、それはあるところまでは成功するかに見えたのだ。

ギャツビーは、圧倒的な財力を築きあげる。無一文だった男が、五、六年でそれだけの財力を持つとしたら、酒の密売など違法なことでもしない限り無理な話だ。そこから、ギャツビーを巡るミステリアスな噂が広がる。けた外れに金をかけたパーティが連日連夜行われ、対岸の古くからの高級住宅地の連中にまで評判が伝わる。彼らにすればギャツビーは成金の田舎者であり、侮蔑の対象だ。自分たちとは身分が違うと嘲笑する。

しかし、古くからの名家であり大富豪に嫁いだデイジーは、夫の浮気に対抗するかのようにギャツビーとの再会を願う。デイジーと再会したギャツビーは、まるで少年のように恥じらう。彼にとって、デイジーは生身の女ではない。いわば「夢」なのだ。毎夜、屋敷の桟橋に立ち、対岸にいるデイジーの邸宅の光を自分の掌に包み込むように、いつか「夢」をつかむことを望み続けていた。

しかし、ギャツビーの「夢」は自分で造り上げたものであり、デイジーを美化していたにすぎない。デイジーが愛しているのはずっと自分だけなのだというのは、ギャツビーの思い込み、あるいは強い願望に過ぎない。彼は自分のあってほしい世界を作り上げすぎた。財力がそれを可能にすると勘違いをした。デイジーは、そんな彼の「夢」に値する女ではない。

結局、ギャツビーは愛しすぎたが故にデイジーの犯した罪をかぶり、デイジーの夫の卑劣な嘘にそそのかされた男によって「夢」を打ち砕かれる。デイジーはギャツビーが自分をかばったことを知りながら、夫の元に帰る。これほど俗物で残酷なヒロインはいない。初めて読んだ高校生の頃、僕はギャツビーがあまりにかわいそうだと涙を流した。

過去は取り戻せない。取り戻す価値のある過去などない。どんなに「華麗なる夢のような過去」だったとしても、取り戻そうとすることは意味がない。生きるとは、思い出を抱きながら前を向くことだ。ギャツビーは、かつて僕にそう教えてくれたのだった。

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