まにまにころころ[108]ざっくり日本の歴史(後編その26)/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

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コロこと川合です。『真田丸』ついにグランドフィナーレ!!! 今回はもう、『真田丸』の最終回について、延々と書こうかと思ったのですが、未見の方もいらっしゃると思いますので内容については控えます。(笑)

内容以外で何を書こうかと悩んだのですが、最後の決戦の舞台である「天王寺」について、ご紹介したいと思います。現在の大阪府大阪市天王寺区の話。

なお、秀忠が陣を敷いた御勝山(おかちやま)は、大阪市生野区(いくのく)です。放送で語られたように、秀忠が陣を敷いたのは岡山(おかやま)という土地でしたが、徳川の戦勝を記念し御勝山と改称されました。現在の町名では勝山北・勝山南があり、読みは「かつやま」となっています。




◎──天王寺(てんのうじ)

大阪の人でも結びついていないことが多いのですが、天王寺とは「四天王寺」が略された名前です。ひと文字でも短くするのが、せっかちな大阪スタイル。平安時代から略されていたそうなので許してください。お寺の略称だったのが、南北朝時代の頃にはそのまま界隈全体の地名として浸透したようです。

現在、天王寺といえば日本一の超高層ビル「あべのハルカス」が有名ですが、ハルカスはその名の通り阿倍野区(あべのく)に属します。道一本を挟んで隣接していますが、近鉄・大阪阿部野橋駅は阿倍野区で、その北側にあるJR・天王寺駅は天王寺区です。

駅で考えると天王寺と阿倍野はほぼ同じ場所を指すのですが、駅から北エリアが天王寺、南エリアが阿倍野。付近を開発する近鉄の力と、呼びやすさの問題もあるのか、繁華街としては「アベノ」の勝ちですね。梅田界隈の「キタ」、難波界隈の「ミナミ」に次ぐ三番手って感じです。

阿倍野には、あべのハルカスのほか、あべのキューズタウン、あべのルシアス、あべのHoop、あべのandといった商業施設が建ち並んでいます。キューズタウンは東急ですが、ほかは近鉄。

天王寺にはJRの駅ビルである天王寺ミオのほか、天王寺動物園があります。天王寺動物園の西側には通天閣やジャンジャン横町で有名な「新世界」もありますが、新世界は大阪市浪速区(なにわく)です。

また天王寺には当然「四天王寺」がありますが、阿倍野には「阿倍王子神社」があります。阿倍王子神社は、熊野参詣の街道筋の九十九王子のひとつである「阿倍王子」で、また約50m北に飛び地の境内社として安倍晴明神社があります。安倍晴明神社は、陰陽師として有名な安倍晴明生誕の地と言われています。

ここまで「阿倍野区」「阿部野橋」「安倍晴明」と、アベの漢字違いだらけで三つも出てきましたが、まあそれだけ古い縁の名前ってことでしょう。古代は漢字なんてほとんど当て字でしたから。

天王寺の話のはずが、ほとんど阿倍野の話になってしまいました……

大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が陣を張ったのは、天王寺動物園のある天王寺公園のあたりで、茶臼山(ちゃうすやま)と呼ばれる場所。前年の冬の陣では徳川家康の陣が張られていました。

茶臼山も、秀忠が陣を張った岡山(御勝山)も、どちらも古墳(茶臼山古墳・御勝山古墳)の場所です。おそらく一段高くなっていて、見通しの利く場所だったんじゃないでしょうか。

◎──四天王寺(してんのうじ)

社会科や歴史の授業で習うので、名前は誰もがご存じでしょう。聖徳太子創建の、日本最古の官寺です。西暦538年と言われる仏教公伝を受けて、当時朝廷の有力者であった蘇我稲目(そがのいなめ)と物部尾輿(もののべのおこし)の間で、仏教を公に受容するか否か、いわゆる崇仏・廃仏論争が起こりました。

それは息子の蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)にも引き継がれ、丁未の乱(ていびのらん)という戦争に発展します。

587年、馬子は聖徳太子(厩戸皇子)ら皇族とも組んで、守屋の討伐に踏み切ります。しかし朝廷の軍事担当だった物部氏は強く、追討軍は劣勢に。そこで、聖徳太子は、白膠木(ヌルデ)で四天王の像を彫って、寺塔の建立を約束して戦勝を祈願しました。

優勢だった守屋軍でしたが、総大将の守屋が木に登って指揮していたところへ迹見赤檮(とみのいちい)が忍び寄って射落とし、守屋軍は崩壊。蘇我の勝利となりました。聖徳太子が四天王への誓願に従い建立したのが四天王寺です。

四天王寺の創建は593年。聖徳太子が推古天皇の摂政となった年です。丁未の乱から創建まで6年も間が空いているじゃないかと言われそうですが、まず最初に、今の森ノ宮あたりに「元四天王寺」を創建し、その後、593年に今の場所で造営を開始して移転したという話です。諸説あるようですけれど。

元四天王寺はその後、鵲森宮(かささぎもりのみや)という神社として残り、地名の「森ノ宮」はそこからきているとのことです。

四天王寺の創建に先立ち、聖徳太子は百済から三人の宮大工を招いており、その一人である金剛重光が「金剛組」を創業。四天王寺お抱えの宮大工となり、以降、寺社仏閣や城郭などを手がけること1400年、金剛組は現存する世界最古の企業として知られています。2005年までは金剛一族が代々経営していたのですが、業績悪化により高松建設へ寺社建築事業を譲渡、今は高松建設の子会社です。

聖徳太子は四天王寺に、「四箇院(しかいん)」と呼ばれる、敬田院、施薬院、療病院、悲田院という四つの施設を設置したと言われています。敬田院は寺院、施薬院は薬局(薬草園)、療病院は病院、悲田院は福祉センターです。悲田院は今も町名として残っています。

施薬院は、今の四天王寺から谷町筋を挟んで西にある勝鬘院愛染堂(愛染さん)が跡地とされています。また四天王寺病院が施薬院、療病院を継承しています。

四天王寺は上町台地中央部西に位置し、谷町筋の西側あたりから標高が一気に下がるため(昔は)見晴らしがよく、四天王寺の西側は夕陽丘(ゆうひがおか)と呼ばれる地域になります。四天王寺の西門(西大門)は、西方浄土を臨む「極楽門」とも呼ばれ、門の外側には重要文化財である石鳥居が建っています。

こう書くと、浄土信仰から浄土宗、浄土真宗のお寺のようですが、四天王寺は八宗兼学(はっしゅうけんがく)、どの宗派にも属しません。分類上、天台宗に属していたこともありましたが、1946年からは、「和をもって貴しとなす」にちなんで「和宗」の総本山とされています。

ちなみに石鳥居をくぐると、左手には親鸞聖人の像が見えてきます。そして西門をくぐって右手を見ると、弘法大師の像が建っていて、弘法大師修行像と書かれています。

修業時代の弘法大師は聖徳太子を讃仰、四天王寺の西門から夕日を拝む日想観(じっそうかん・にっそうかん)という修行を行ったとされており、四天王寺では弘法大師を信仰される方々にとっても聖地となっています。

そのご縁から、四天王寺では弘法大師の月命日である毎月21日を大師会(だいしえ)が催され、その日は一般に「お大師さん」と呼ばれて、境内や参道に露店が並びます。

また翌日、毎月22日は聖徳太子の命日とされ太子会(たいしえ)が催されて、この日は「お太子さん」と呼ばれ、同じく境内に露天が並びます。

地域の方の話では、お太子さんはお大師さんより後にできたそうで、境内には同じように露天が並ぶものの、22日の参道は通常営業といった感じです。

別に弘法大師に比べて聖徳太子がないがしろにされているわけではなく、参道には聖徳太子をモチーフにした「飛び出し注意」の看板もあります。(笑)

四天王寺界隈は、毎月21日のお大師さんと、春秋のお彼岸に、最も賑わいます。ちょうど明後日、12月21日のお大師さんは中でも「しまい大師」と呼ばれて、大いに賑わうはずです。

四天王寺で修行したのは弘法大師・空海だけでなく、最澄、良忍、親鸞、一遍も四天王寺で修行したとされています。最澄の開いた天台宗・比叡山延暦寺が後に仏教の総合大学的な役割を担ったのと同様、八宗兼学の四天王寺は修行のメッカだったんですね。

先ほど上町台地は見晴らしがいいと書きましたが、古代では上町台地のすぐ西はもう海で、四天王寺は玄関港として迎賓館的な位置づけだったとも、海から船でくる半島や大陸からの使者に対し朝廷の威信を見せつけるものだったとも言われています。南北に一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」も、配置自体は大陸から伝わった様式ですが、見せつけるためと言われれば、そうも思えます。

なお聖徳太子創建とされる寺はあちこちにあるのですが、実際に直接関わったのは四天王寺と法隆寺のみとされています。弘法大師もそうですが、聖徳太子も超人なので、伝説めいたものも数多くあるからですね。

そのため、ゆかりの地とされる場所が全国に。富士山には「太子舘」という山小屋があるのですが、聖徳太子が馬に乗って富士山に登った時、休憩したとされる場所に建てられたそうです。

聖徳太子ともなると、馬での富士登山も尋常なものではありません。聖徳太子は「甲斐の黒駒」と呼ばれる神馬に乗って、富士山へ飛んでいったそうです。もはや、登山じゃない。

四天王寺の方いわく、本当にすごいのは、聖徳太子や黒駒よりも、黒駒のくつわを取っていた従者だろうと。黒駒にまたがる太子と違って、ぶら下がって富士山まで飛んだんですからね。(笑)

さて、法隆寺は日本最古の木造建築が残っていて、日本で最初の世界文化遺産として登録されましたが、四天王寺はそうなっていません。

幸村たちが界隈で戦をやらかしたから、というだけでなく、なにかと災害に見舞われて、何度も再建されているからです。天王寺界隈は、大坂の陣までにもよく戦場になっていまして戦火でも二度焼けていますし、落雷や台風にもやられています。

836年、落雷で焼失。960年、火災で焼失。1576年、信長による石山本願寺攻めの兵火で焼失。1614年、大坂冬の陣で焼失。1801年、落雷で焼失。1934年には室戸台風で五重塔と中門が倒壊。1945年、大阪大空襲で焼失……

そんな歴史を受けてか、今の四天王寺は鉄筋コンクリート造です。

それだけ焼けても、再建されるのがすごいですよね。それ自体が信仰の対象になりそうなくらいに。室戸台風でやられた後、五重塔、1939年に再建したのに、たった5年後に空襲で焼かれてるんですよ。それでも1957年から再建にかかり、1963年に完成しています。金剛組、大活躍です。

◎──今回はここまで

大坂冬の陣、天王寺・岡山の戦いから天王寺を紹介といいつつ、なんか大半が四天王寺の紹介になってしまいましたが、実は今ちょうど、本業で四天王寺に関係する仕事をしていまして。そのせいで詳しくなったためです。(笑)

そんなわけで、今の四天王寺の話はまだまだ書けるのですが、まあ今のことは、百聞は一見にしかずということで、ぜひお越しください。ちょいちょい一部、工事していたりしますけれども。

2022年に、聖徳太子が亡くなられて1400年の法要を控えており、その御聖忌に向けて(だと思うのですが)、大改修工事が進められています。五重塔も昨年、シートで覆われていました。

もう今は、どーんとそびえ立つ姿が拝めますので、気にせずお越しください。上層まで上ることができる五重塔って、四天王寺が唯一じゃないでしょうか。そんな風に聞いた記憶が。(違ったらすみません)聖徳太子も、初代の五重塔には上ったと思いますよ、約1400年前に。

ついでに、天王寺区のお隣、岡山(御勝山)のある生野区ですが、「生野」も聖徳太子由来の名前で、生野長者と呼ばれた長者の子が生まれつき口がきけず、そのことを聖徳太子に相談したところ、太子がその子に「前世で預けた舎利を返しなさい」と仰ると、その子が口から三つの舎利を出し話せるようになったとの伝説によるものです。

舎利(仏舎利)とはお釈迦様の遺骨・遺灰のことで、その三つの舎利は、ひとつが四天王寺に、ひとつが法隆寺に納められ、残りのもうひとつは、生野長者に授けられたそうです。生野長者は舎利尊勝寺を建立して舎利を納めたとのこと。舎利尊勝寺も現存しており、付近の町名は舎利寺(しゃりじ)と言います。

さて、今年のまにころは今回で最後。新年こそは幕末の話に戻ります。たぶん。井伊直虎の話を始めるかもしれませんが、その時はその時ってことでお許しを。

みなさま、よいお年を!


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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