まにまにころころ[189]ふんわり中国の古典(論語・その52)君子と小人の比較
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。前回、大阪都構想は反対で決着するだろう、という二択の予想を的中させて調子に乗っていた私ですが、米国大統領選は外しました。

なんだかんだで、トランプさんの再選だと思ってたんですよねえ。

結果はバイデンさんに。

毒にも薬にもならないんじゃないかって感じで、雰囲気も柔和なバイデンさんですが、劇薬だったトランプさんの後には適任な感じでもあります。

いったんニュートラルにギアを戻して、国内外をフラットな状態に整えてから、また次の大統領に繋いでいく役割ってことで。高齢でもありますし、ご本人も、一期しか務めないよと仰ってるとのことです。

政治って色々ありますね。





なお、トランプさんは投票に不正があったと主張するなど、敗北を受け入れない姿勢を今なお取っていますが、事実は引き続き調査されるとして、別の理由で敗北を受け入れるわけにはいかない、何としてでも勝たないといけなかったと言われています。大統領じゃなくなった瞬間に山ほどの訴訟が押し寄せてくるらしくって。

利権のしがらみもとんでもなく複雑な国ですので、選挙が終わってノーサイドとはなかなかいかないでしょうけど、今なお世界に対して最も影響力の強い国ですので、いい方向に進んで欲しいです。

さて、米国の話はこの辺にして、古代中国の政治家の心得を説かれる孔子先生のお言葉に移りましょう。


◆──巻第七「子路第十三」二十二

だいたいの意味:孔子先生は仰った。南方の人が言った。常に言動に筋の通ったところがない人であれば、巫術師も医者も手の施しようがない、と。いい言葉だ。

その徳を常に筋の通ったものにしなければ、いつでも辱めを受ける、とも言う。
孔子先生は仰った。占うまでもないことだ。

──巻第七「子路第十三」二十二について

常に言動に筋の通った、とした部分、原文では「恒」という言葉です。

この「恒」という言葉は、特に触れはしませんでしたが、「述而」の二十五でも出てきていました。そこでも常に言動に筋の通った者としちゃったので、恒については触れずでした。改めて、述而ではどんな風にでてきたかというと。

聖人には私は会えないが、君子に会うことができるなら、それでいい。
善人には私は会えないが、恒の者に会うことができるなら、それでいい。

といった話でした。

聖人>君子
善人>恒の者

ということですね。

この後で出てくるので、ついでに「善人」についても触れておきます。善人は何度か出てきていますが、君子には及ばないものの善性を持った立派な人です。(完璧な善を持った人のことだ、など、諸説あります)

講談社学術文庫『論語』増補版で加地伸行さんは、
君子:教養人・学習者にして道徳的な人
善人:道徳的な人・知識は我流
小人:知識人・学習者
とされています。(私の手元にある本でP314・「子路」二十九の解説文中)

ほんと諸説あるというか、人によってまちまちなんですが、参考まで。

で、この項の話に戻りますが、巫術師と医者、どっちも医者と思ってください。というか、原文では「巫医」とひとまとめの言葉です。

何にしても、そんな奴には祈祷も薬も効かないよ、ってことでしょう。

また「その徳を常に筋の通ったものにしなければ、いつでも辱めを受ける」は、『易経』に由来する言葉です。

『易経』というのは、易者のあれです。当たるも八卦、当たらぬも八卦、ってあれです。筮竹をしならせてあれこれしてやる占いのあれ。あれの大元の書。

『易経』は、私も読んでさっぱり分からなかったので説明できないのですが、手元にある角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス中国の古典シリーズの『易経』(三浦国雄)にある、六十四卦の解説の三十二「恒 巽下震上」の九三に、こうあります。

「其の徳を恒にせざれば、或いは之が羞を承けん」
(信念がぐらつくようでは、恥をかくことがあろう)

それを受けての孔子先生の言葉です。

易経でもそう言ってるけど、占うまでもないね、って。

孔子先生が易を学びはじめたのってかなり遅い時期らしいのですが、さらっと引用してくる孔子先生、すごいです。

◆──巻第七「子路第十三」二十三

・だいたいの意味:孔子先生は仰った。
君子は和して同ぜず。(他者の意見を尊重し調和するが安易な同調はしない)
小人は同じて和せず。(他者の意見に安易な同調をするが尊重し調和しない)

──巻第七「子路第十三」二十三について

これまでにも似た話がでてきてたような。意味はそのままですね。この安易に同調する態度が、さっきの話の「恒」でない人ということです。

また、小人とは知識はあるけど徳性に欠ける人ということでしたね。心の内に一本の芯が通っていない様子が感じられます。


◆──巻第七「子路第十三」二十四

・だいたいの意味:子貢が尋ねた。郷人がみな好意を持つ人物というのはいかがでしょう。

孔子先生は仰った。
まだ十分とは言えないね。

では郷人がみな憎む人物というのはいかがでしょう。

孔子先生は仰った。
十分とは言えないね。
郷人のうち善き者は好意を持ち、善からざる者は憎むという人物には及ばない。

──巻第七「子路第十三」二十四について

なるほど。立派な人というのは、皆から好かれる人でも皆から憎まれる人でもなくて、善人には好かれ悪人には憎まれる人だと。

深い……。

裏を返せば、人気投票では判断できないってことですよね。

人気があるから立派な人とは言えない。投票する側の徳性も加味しないと判断できないということに。

冒頭で大統領選の話題に触れましたが、選挙の結果をもって「これが民意だ」ということはできても、その票を投じた人が善である保証はどこにもなくて。

これは民主主義が抱える大きな問題と言えますが、これを解消しようとすれば、なんらかの基準で有権者のランクを決めて票に重み付けをするようなことに。それはそれでもっと大きな問題がありそうで、難しい話です。

差し当たって、選ばれた人間が身を正すしかないかな。

◆──巻第七「子路第十三」二十五

・だいたいの意味:孔子先生は仰った。
君子は仕えやすいが喜ばせるのは難しい。喜ばせるには道をもってしなければ喜ばないが、人を使うにおよんではその人の器に応じた使い方をするからだ。
小人は仕えにくいが喜ばせやすい。道をもってしなくとも喜ぶが、人を使うにおよんでは何でもできることを求めるからだ。

──巻第七「子路第十三」二十五について

上司にするなら君子です。喜ばせるのは大変ですが、能力に応じて仕事を割り振ってくれるので働きやすいです。

小人はちょろいので喜ばせやすいですが、相手の能力問わず何でもやらせようとするので、そんなのを上司に持った日には大変です。

まあ世の中、小人にも及ばない人がほとんどなので、誰もが大変ですけども。

小人というのは、取るに足らないつまらない人ではありますが、さっきの加地先生の説明によれば、知識や教養を求める向上心はある人なんですよね。

そういう意味では、小人もそれなりには立派な人のうちと言えます。なかなか馬鹿にしたものでもない、最低限の素養はある人なんじゃないかなと。

大河ドラマ見てたり歴史の本を読んでたりすると、くだらない奴だなーってな人物がちょいちょいでてきたりしますよね。足利義昭なんてその典型で。(笑)

でも、そんな人物でも、少なくとも歴史に名を残した人なんですよね。

もちろん生まれとか運とか、たまたま文献が残ってただけなんて人もいますけど、それでも、じゃあお前は教科書に名前を残せるかって言われたら、とても無理。

小人の話とはちょっと違いますけど、安易に人を馬鹿にするもんじゃないなと、そんなことを思った次第です。

でもまあ、好き嫌いは別でいいですよね。麒麟がくる、足利義昭も側近の片岡鶴太郎の役(摂津晴門)も嫌いです。(笑)

どんどん話が逸れますが、大河ドラマの片岡鶴太郎、あんな役ばっかりですね。小物感溢れる嫌な奴。軍師官兵衛での小寺政職も、太平記での北条高時も。

もう、鶴太郎=嫌な奴、ってイメージで、鶴太郎さんに申し訳ないほど。役者としては、してやったりなのかもしれませんけどね。

◆──巻第七「子路第十三」二十六

・だいたいの意味
孔子先生は仰った。
君子は泰然としていて驕ることがない。
小人は驕っていて泰然としたところがない。

──巻第七「子路第十三」二十六について

また君子と小人の比較です。内容はそのまま。

◆──巻第七「子路第十三」二十七

だいたいの意味:孔子先生は仰った。剛毅木訥、仁に近し。

──巻第七「子路第十三」二十七について

剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)、剛毅とは、意志が強く何者にも屈しない様子、朴訥とは、飾り気が無く無口である様子です。

孔子先生が理想とする「仁」に近い人を具体的に表すなら、剛毅朴訥だと。

まっすぐな強さと、飾り気のない寡黙さを持った人。

学而の最初の方に「巧言令色、少なし仁」ってありましたが、その裏返しです。

口達者な人を全否定するようですが、言葉が伝えられる情報量というのはごく限られていますので、それに頼りきるようではいけないということでしょう。

決して孔子先生が言葉を軽視しているわけではないことは、丁寧に言葉を選び弟子に接する様子からうかがえます。

◆──巻第七「子路第十三」二十八

だいたいの意味:子路がが尋ねて言った。いかなる者を「士」というべきでしょうか。

孔子先生は仰った。切切偲偲(せつせつしし)、怡怡(いい)であることだ。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡であることだ。

──巻第七「子路第十三」二十八について

響きが良かったのでそのまま書きました。切切偲偲とは心をこめて励ますこと、怡怡とはにこやかで和やかであることです。ふんわりとした説明ですね。

前回にまったく同じ質問を子貢がしていて、そこではわりと具体的に理詰めで説明されていました。今回は直情的な子路が相手なので、感覚的な説明を。

孔子先生の言葉から逆に弟子の性格がうかがい知れます。

◆──巻第七「子路第十三」二十九

だいたいの意味:孔子先生は仰った。善人が民を七年教化すれば、兵役に就かせられるだろう。

──巻第七「子路第十三」二十九について

善人、でてきましたね。君子には及ばないまでも、徳性を持った立派な人です。そんな人が七年かけて民を教え導けば、民は国のために命を張れるだろうと。

そう聞くとなんだか軍国主義の嫌な感じがしますが、そういうことではなくて。いや、そういうことでもあるといえばあるのですが。

守るべきもの、守りたいもの、大切なもののために命をもかける。

国のために命をかけるというと反発もあるでしょうが、じゃあ蹂躙されるべきなのかという話で。

ま、この話に結論が出ないことは誰もが感じているところでしょう。もちろん、孔子先生は戦争を良しとしているわけではないです。心構え的な話です。

◆──巻第七「子路第十三」三十

だいたいの意味:孔子先生は仰った。教えることをしていない民をもって戦争をする。これは(民を)棄てるというものだ。

──巻第七「子路第十三」三十について

民を教え導くこともせず、無理やりに戦争にかり出すのは、民を棄てる行為だ。孔子先生はそう仰っています。

教えると言うことを軍事教練とする解釈もありますが、おそらくそうではなく、物事の道理が分かるように教育した上で、民自身が戦う意味を考え理解できるようになっていないといけないと。

それができていないのに、単に命令として戦場に向かわせるのは、民を棄てる行為であると戒めています。

さっきの話の続きですね。

あくまで孔子先生の話の対象は、為政者か為政者志望者です。

徳をもって民を教化した上でなければ、民を戦にかりだしてはいけない、と。

自分たちの都合で無理やり従わせ、単なる駒として扱ってはいけない、と。

どんな風にして民を戦争に使うかって話ではありません。為政者への戒めです。


──今回はここまで。

これで「子路第十三」は終了です。次からは「憲問第十四」です。

渋沢栄一の大河ドラマが始まる前に終わるといいな、なんて思っていましたが、とてもとても。全二十篇のうち、まだあと七篇あります。

大河のほうが先に終わりそうです。

ペースを上げるペースを上げると何度も言いつつ、面白いところはあれこれと話が膨らんじゃいますね。脱線もしつつ。

ざっと読むだけなら、一日で読める分量なんですけどね『論語』って。

先に読んでしまいたい人は書籍でぜひ。あちこちから山ほど出版されています。私の手元にも山ほど……。

定番は岩波文庫ですが、個人的には明徳出版社『論語 朱熹の本文訳と別解』がおすすめです。ちょっと朱熹の作為的なものを感じる部分もありますけど。

さて、そうこうしているうちに11月も半分終わっちゃいました。

新型コロナウイルス感染症について、最初の症例が確認されたのが、ちょうど一年前、11月17日のことではないかと言われています。

話題が出始めたのが12月の末。日本で最初の症例が確認されたのが1月中頃。

まるまる一年振り回されてきて、今また日本では第三波と呼ばれる感染拡大が進行中です。毎日のように最多、最多と報じられています。チューリップかよ。

できることと言えば、手洗いうがいとマスクの着用、あと密を避けるくらい。変な話ですが、おかげでこの一年、風邪をひかなかったような気が……。

世界中での話なのでなかなか着地点を見つけるのもまだ先になりそうですが、薬の開発も進んでいるとのことですので、みなさん引き続き健康に留意しつつ、お過ごしください。

健康に留意しつつ過ごすなんて、新型コロナ関係ない話ですけどね。(笑)


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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