まにまにころころ[195]ふんわり中国の古典(論語・その58)上がまずしっかりしろ
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。前回、ちょこっとウマ娘のことに触れましたが、すっかりハマってしまいました。(笑)

ゲームがリリースされて話題になったのをきっかけに触れて、まずはゲームをダウンロードして始めたんですが、さっぱり分からなくて。

で、とりあえずアニメを見ることにしたんですが、これが素晴らしい出来で。それでキャラクターのことを少し知ると、ゲームの方もすんなり遊べるようになりました。キャラへの思い入れ、ストーリーって大事ですね。

元々ちょっとだけとは言え、競馬のことを知ってたというのも大きかったかも知れませんが、良くできたコンテンツです。特にアニメはオススメです。

競馬をちょっとだけ知っている、くらいの人がちょうどハマるのかも。

ちょっとだけ知っている人が、ウマ娘をきっかけに改めて調べたりするうちに、どんどん魅力に気づいていくというか。(私のパターン)

詳しく知りすぎている人は、いったん細かい知識をリセットして、フラットな気持ちで観ると、それはそれでより深く楽しめるかも知れません。

ただ、往年の名馬がこぞって登場するんですが、馬はどうしても人間に比べて短命なので、ほとんどが既に他界している事実は、ちょっと辛いですけどね。ケガで安楽死、という最期もありますし。

ウマ娘はケガしても、ちゃんと治療すれば治るんですが。

実際の馬がそうはいかない理由は、馬は馬であって人じゃないというところも大きいんですよね。そもそも自重が重くて治療が困難な上、お医者さんの指示に従って療養に専念する、というわけにいかなくて。

その点、擬人化されたウマ娘は、ちゃんとギプスしてベッドで安静にしてくれ、車いすや松葉杖も使えるので……

いつか医療がさらに発達して、馬のケガもちゃんと治せる日が来るといいなあ。かなり治せるようにはなってきてるようなんですけどね。あと一歩。

さて、ウマ娘の話はこの辺にして、今日もまた『論語』を読んでいきましょう。今回で「憲問第十四」の最後までいきます。






◎──巻第七「憲問第十四」四十

だいたいの意味:子路が石門で一夜を過ごした。
門番が言った。どこからきたのか。
子路が言った。孔氏のところからだ。
門番が言った。それは、できないことと知っていながら、それをしようという者か。

◎──巻第七「憲問第十四」四十について

石門というのは、地名だとも、魯の外門とも言われています。中国の都市は、ぐるりと城壁で囲まれていて、夜になると城門が閉まります。

この時の子路は、夜遅くに魯について、門の外で一夜を過ごしたんですね。

門番は原文では「晨門」となっていて、名前のように書かれているのですが、晨は朝のことで、朝に城門を開ける門番を指してこう呼んでいるとのこと。

この門番は隠遁した賢者との説もあるのですが、孔子先生を皮肉っています。できないと分かってて理想を語っている者だと。まあ、一般的にそんな風に見られていたのかもしれません。

◎──巻第七「憲問第十四」四十一

だいたいの意味:孔子先生が衛国で磬(けい)という打楽器を叩いていた。簣(あじか:竹などで編んだかご)を担いで孔氏の門を通るものがいて言った。心の内を感じるな、磬の打ち方に。

しばらくしてまた言った。いやしさがある固い音だ。己を知る理解者がいないなら、止めればいいだけだ。
「深い川なら脱げ、浅い川なら裾をたくしあげろ」と言うだろう。

孔子先生は仰った。思い切りのいいことだ。それなら難しくはないのだ。

◎──巻第七「憲問第十四」四十一について

楽器を叩いていたら、絡まれた孔子先生。

分かってもらえないという思いが固い音になって表れているぞ、もっと柔軟に、状況に応じて生きればいいだろう、と言われています。

この人もさっきの魯国の門番同様、隠者だと言われています。

孔子先生は、それで済むなら簡単なんだけどねと軽く反論しています。深い川なら云々は『詩経』からの引用です。

◎──巻第七「憲問第十四」四十二

だいたいの意味:子張が言った。『書経』に、高宗は喪に服して三年ものを言わなかった、とあるのはどういう
意味でしょうか。

孔子先生は仰った。何も高宗に限ったことではない。いにしえの人は皆そうだった。前君がお亡くなりになれば、百官は己の仕事をきちんととりまとめて、大臣の長に指示を仰ぐこと三年であった。

──巻第七「憲問第十四」四十二について

そのままだと、ちょっと分かりにくいですね。

殷の王である高宗が、喪に服して三年何も言わなかった。つまり政務の指示を出さなかったことについて、子張が質問しました。

孔子先生は、高宗だけじゃなくて、昔はみんなそうしたものだと。三年は喪に服して、その間は大臣の長が代行して指示を出し、すべての官吏は皆その指示に従って政治を執り行っていたと、仰っています。

三年間喪に服すというのは礼によるもので、孔子先生は礼の中でもこういった服喪について特に重要視されています。

喪に服すというのは今でも普通に行われていますが、形骸化していますよね。当時も割とそうだったようです。孔子先生はそれが不満です。

◎──巻第七「憲問第十四」四十三

だいたいの意味:孔子先生は仰った。上の者が礼を好めば、民は使いやすいものとなる。

──巻第七「憲問第十四」四十三について

使いやすい、というとちょっとアレですが、民衆にも礼の心が波及して心がけが良くなると。感化、教化されるわけです。人民を操作するためにそうしろと言っているわけではなく、上がまずしっかりしろと仰ってるのです。

◎──巻第七「憲問第十四」四十四

だいたいの意味:子路が君子というものについて尋ねた。孔子先生は仰った。己を修めて、慎みを持つ。

(子路が)言った。それだけでしょうか。

(孔子先生は)仰った。己を修めて、人を安らかにする。

(子路が)言った。それだけでしょうか。

(孔子先生は)仰った。己を修めて、万民を安らかにする。己を修めて万民を安らかにすることは、堯や舜でさえ苦労されたことだ。

──巻第七「憲問第十四」四十四について

しつこい子路を、いにしえの聖帝の名を出して黙らせた感が。(笑)

◎──巻第七「憲問第十四」四十五

だいたいの意味:原壤が立て膝座りで待っていた。

孔子先生は、幼い時は年長者にへりくだりもしないで、大きくなっても話にもならない、老いては死にもしない、こんなやつを賊だと言うのだ、と仰って、杖でその膝を叩かれた。

──巻第七「憲問第十四」四十五について

原壤(げんじょう)というのは、孔子先生のろくでなしの旧友だそうです。

孔子先生も本気で怒って殴ったというか、呆れ半分、冗談半分といったところでしょうか。態度の悪さに文句を言ったわけです。

◎──巻第七「憲問第十四」四十六

だいたいの意味:闕(けつ)の村出身の少年が、取次係をしていた。

ある人がこの少年について尋ねた。進んで学問をするみどころのある者なのですか。

孔子先生は仰った。私はあの者が大人の席に座っているのを見ましたし、年長者と並んで歩くのを見ました。

進んで学問をするみどころのある者ではありません。はやく一人前だと見られたいと思っている者です。

──巻第七「憲問第十四」四十六について

少年が客人の取次係を任じられているのを見て、みどころがあって抜擢されたのですかとの問いに、年少の者として礼をわきまえることを知らないやつで、そんな立派な者じゃありませんよ、と答えられています。

じゃあなんで、という話ですが、はやく態度に実が伴うよう、勉強させようとして取次係をやらせているんじゃないでしょうか。OJT的に。

当然、この少年が失態をおかせば、孔子先生が頭を下げることになるわけで、何とも優しく何とも厳しい教育です。

こういう子には、こういったやり方が向いていると判断されたのでしょう。孔子先生は相手に応じて上手に教え方を変化させますので。

──今回はここまで。

これで「憲問第十四」が終わりました。次回から「衛霊公第十五」です。手元にある岩波文庫で残り約100ページ分です。ここまでが約300ページ分でした。あと四分の一ですね。

……まだ結構ありますね。大河ドラマ「青天を衝け」の完結より先に読み終えられるか、勝負です。


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