まにまにころころ[192]ふんわり中国の古典(論語・その55)言葉に慎みを持て
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。年またぎのNHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回でしたね。

いやあ、まさかあんな展開になるなんて、びっくりですよねー。そうきたかー。思ってもみませんでしたよ、まさかあの明智光秀が謀反をおこすなんて!

……すみません、これを書いている今、まだ最終回放送前で。

今回の大河は撮影もままならない中で、まあよく終わらせられたなと。当初の予定通りの話だったのか、脚本にも変更が加えられたのかは知らないんですが、ともあれ関係者のみなさま、お疲れ様でした。

個人的には、日本史上最も熱いこの時代を舞台に、よくもまあここまで地味に描けたなと思わないでもないですが、これまでになかった信長像はよかった。好き嫌いは別として、アリだなと思いました。

ちょっと天下とれなさそうな感じでしたが。わざわざ光秀が謀反おこしてまで討たなくても、上手に説得すれば何とでも言いくるめられそうでしたし。

ともあれ最終回ということで、次週からは「青天を衝け」が始まります。

新たな主人公は、2024年には一万円札の肖像となる渋沢栄一。

実は渋沢栄一、過去にも何度か紙幣の肖像として候補に挙がっていましたが、そのたびに見送られてきたという経緯があります。理由、何だと思います?





それは、髭がなかったから。

偽造防止の観点から、これまで複製しにくい髭面の人が選ばれてきたそうで。今では肖像以外の方法があれこれあるので、ついに出番がきたわけですね。

樋口一葉も、紫式部も、髭ないですしね。

でもこの渋沢栄一、国外にまで目を広げれば、紙幣の肖像になるのは初めてじゃないんです。1905年頃に、大韓帝国で初の紙幣の肖像になってるんですね。

経緯はちょっと複雑で、ざっくり言うと、渋沢の経営する第一銀行が、韓国で必要に迫られ発行していた約束手形が紙幣となったという感じで。日韓併合前のことですので、国外の紙幣です。

さて、そのような形で国外にまで影響を及ぼした渋沢栄一。近代日本経済の父とも称される偉人で、まさに日本経済の礎を築いた人物で、その功績は現代にダイレクトに影響しているためについ忘れがちなんですが、生まれは江戸時代の人なんですよ。

1840年、天保11年の生まれです。大河ドラマ「花燃ゆ」にも出てきた長州藩士、久坂玄瑞と同じ年の生まれです。

「考える人」のロダンや、「睡蓮」のクロード・モネ、変わったところでは、清水次郎長一家の法印大五郎も同い年です。

若い頃には尊皇攘夷運動に傾倒していた時期もあったり、また一方では新選組とも面識があったり。農家出身の渋沢ですが、武士の身分を得て一橋家に仕え、その関係で幕臣として京都に赴任していた時期に、近藤勇と面会しています。

まさに時代の大転換期に生きていました。

同時代に生きた人としては、大阪の人には特に馴染みのある五代友厚がいます。こちらは大阪経済の父、西の五代、東の渋沢と並び称されることもある人物で、やはり近代的なイメージがありますが、元は薩摩藩士で家柄もよくて、幼名の名付け親は島津斉彬だそうです。

偶然ですが、長州藩士の高杉晋作と一緒に、上海にも渡っています。

渋沢栄一が1840年生まれ、近藤勇が1834年生まれ、五代友厚が1836年生まれ、高杉晋作が1839年生まれです。そして渋沢栄一は昭和6年まで生きています。

今これを読んでいる多くの方がおそらく、昭和、平成、令和という三つの元号を経験されていると思いますが、渋沢栄一は、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と、十一の元号をまたいでいます。(笑)

「麒麟がくる」の舞台も時代の大転換期でしたが、「青天を衝け」の舞台も、負けず劣らず大転換期です。生涯が最後まで描かれるとしたら、天保から昭和までの話になります。どこか隔絶を感じる時代の狭間がひと続きに描かれます。

楽しみですね。その渋沢栄一の講話をまとめたものが『論語と算盤』です。書名というよりも、渋沢の掲げたモットーというべきものがこの『論語と算盤』です。

論語とは、道徳を象徴する言葉。算盤とは、経済活動、利殖を象徴する言葉。この二つについて渋沢は、「甚だ不釣合で大変に懸隔したものであるけれども」とした上で、「甚だ遠くして甚だ近いもの」としています。また不可分であると。

仁義道徳あっての経済、経済あっての仁義道徳。

渋沢はおよそ470の企業設立に関わり、今なお日本の中心となっている大企業もその中には多く含まれますが、同時におよそ600もの社会事業にも関わりました。論語と算盤の両輪を、誰よりも回して実践した人物です。

「私は人の世に処せんとして道を誤らざらんとするには、まず論語を熟読せよという」

「現今世の進歩に従って、欧米各国から新しい学説が入って来るが、その新しいというは、われわれから見ればやはり古いもので、すでに東洋で数千年前に言っておることと同一の者を、ただ言葉の言い廻しを旨くしておるに過ぎぬと思われるものが多い」と述べられています。

※引用部は、角川ソフィア文庫『論語と算盤』より。

渋沢栄一は元々から特別「論語」に傾倒していたというわけではありません。さっき書いたように、江戸時代の生まれなんです。基礎教養として習っていたわけですよ、幼少期から。

実業界に身を投じることになった時、志を立てる拠り所をどこに置くべきかと考えた折に、論語のことを思い出したそうです。

つまりは、経済人としての渋沢の出発点から論語があったんですね。

「日本経済の父」の出発点に論語があったわけですから、日本経済は論語を土台として成り立っている……とは思えないこともままありますが、本来あるべき姿としては、そこに原点があると考えていいのではないでしょうか。


前置きだけでずいぶん長くなりましたが、今回も少しだけ読み進めましょう。

◆──巻第七「憲問第十四」十九

だいたいの意味:公叔文子の臣であった大夫のセンは、文子と同じく朝廷に昇った。孔子先生はこれを聞いて仰った。文と呼ぶにふさわしいね、と。

◎──巻第七「憲問第十四」十九について

そのままではちょっと意味が分かりにくいですが、公叔文子は前回に出てきた、「言わず、笑わず、取らず」と噂された立派な人物です。「文子」というのも、その立派さから没後に贈られた名です。

公叔文子は、家臣のセン(人偏に巽のような字)を自身と並ぶ朝臣に推挙したのです。それを孔子先生が聞いて、まさに文の名を贈られるにふさわしい、と。

◆──巻第七「憲問第十四」二十

だいたいの意味:孔子先生が衛の霊公の無道ぶりを語られた。

康子が言った。それほどであるなら、どうして失脚しなかったのでしょうか。

孔子先生は仰った。仲叔圉が賓客のことを取り仕切り、祝ダが宗廟を取り仕切り、王孫賈が軍事を取り仕切っていた。それほどであるなら、どうして失脚などしようか。

──巻第七「憲問第十四」二十について

ダメ君主の衛の霊公、家臣団がしっかりしていたという話です。祝ダのダは、鉈の金偏が魚編の字です。

◆──巻第七「憲問第十四」二十一

だいたいの意味:孔子先生は仰った。言葉に恥を知らないようであれば、それを実行することは難しい。

──巻第七「憲問第十四」二十一について

言葉に慎みを持て。できもしないような大言を吐くな、という話です。

◆──巻第七「憲問第十四」二十二

だいたいの意味:陳成子が(斉国の)簡公を殺害した。

孔子先生は沐浴して(魯国の)朝廷に出仕し、哀公に告げて仰った。陳恒が主君を殺害しました。これを討ってください。

哀公は仰った。あの三人に言いなさい。

孔子先生は仰った。私も大夫の末席にいる以上、あえて告げざるをえなかった。主君は、あの三人に言えと仰ったが、行って三人に告げたところ聞き入れられなかった。

孔子先生は仰った。私も大夫の末席にいる以上、あえて告げざるをえなかった。

──巻第七「憲問第十四」二十について

陳成子=陳恒です。魯国の重臣でありながら、主君である簡公を殺害しました。

それを受けて孔子先生は魯の哀公に、人道的立場からの征伐を求めましたが、哀公はあの三人=三桓氏(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)に言えと、流されました。

孔子先生は一応、三桓氏に言いましたが、受け入れられませんでした。

だって、立場的に三桓氏は、ほとんど陳成子と同じ立場で、主君をないがしろにして国政を牛耳っている身ですから。

孔子先生は最初から、言っても無駄であることを分かっていました。

分かってはいたけれど、あえて言わざるをえなかったんだよ、という話です。

◎──今回はここまで。

「青天を衝け」、渋沢栄一を演じるのは吉沢亮さんなのですが、よく見る渋沢の肖像が、私にはどうしても橋爪功さんにそっくりに思えて……(笑)

青年期から橋爪功さんというわけにはもちろんいきませんが、この大河ドラマではなくても、いつか演じてみていただきたいです。


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