まにまにころころ[108]ざっくり日本の歴史(後編その27)/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

投稿:  著者:  読了時間:12分(本文:約5,500文字)


コロこと川合です。今年もどうぞよろしくお願いします。

今年は大河を初回から見逃しまして。そのままパスしようかなと思いつつも、二話、三話は見たんですよ、ええ。

感想:「なんだこのスッカスカな話は」

直虎自身はマイナーながらも、扱う時代はせっかく一番面白いところなのに、もったいない! 柴咲コウが出てくる次週以降が本番とは言え、これはあまりに期待薄なんじゃないですかね。

なんだかんだ言いながらも、見られる時には見るでしょうけど、大河話にあまり触れられないとなると、導入の話題をどうしたものかと悩みます。(笑)

悩むと言えば、幕末話。そろそろ西郷隆盛をご紹介、とずっと前から思ってはいるんですけれども、この方、難しくて……。

色んなことが複雑に絡み合った中からスルッと出てきて、時代の重要な節目に顔を出し、最後は大騒動を引き起こして消えていくという。すごい人には違いないんですが、どうすごいのか説明に困る方です。

はっきり言えるのは、西郷さんの愛犬は薩摩犬系の雌「ツン」で、上野公園の西郷さんが連れているのは薩摩犬の雄だから、別犬。顔も兄弟や親戚の顔から作ったもので別人。あの銅像は人も犬も想像上のものだということくらいです。西郷さんが飼ってた犬は何頭もいたらしいですけどね。

犬を連れているのは狩猟のため。狩猟の目的はダイエットです。

どうでもいい話しか出てこない……。

とは言え、無視できる存在ではないので、少しずつ迫ってみたいと思います。西郷さんの前に今回はまず、薩摩藩の島津さんの話から。




◎──島津に暗君なし

島津氏と言えば戦国時代の島津義久や義弘が有名ですが、歴史は古く、初代は鎌倉幕府の御家人・島津忠久とされています

頼朝の落胤であるとも言われて、大阪の住吉大社には、頼朝の寵愛を受けた丹後局が北条政子の怒りから逃れて辿り着いたここで産気づき、この大石にしがみついて忠久を産んだんだよっていう石があります。

史実的には頼朝の落胤という話は否定されていますけれど、忠久の母は頼朝の乳母の子だったそうで、近い存在ではあったようです。

その忠久が薩摩・大隅・日向(だいたい今の鹿児島+宮崎)の守護職に就いて南九州との縁ができますが、比企能員の変に絡んで北条氏と揉め、薩摩のみに。

ただ、忠久も二代目も基本的には鎌倉の人。三代目が元寇に関連して九州へ。

四代目は島津氏の中で初めて薩摩で亡くなり、五代目は鎌倉幕府の倒幕運動で功績をあげたことから大隅・日向を再び島津氏の管轄とすることを許されて、薩摩と合わせて、南九州にがっつり基盤を築いていくことになります。

ただ、地元の反発だなんだはずっとあって、それらを徐々にまとめていくのが代々の島津氏のお仕事。お家騒動なんかも起こったり。

戦国大名としての島津の基礎を作り上げたのが第十五代・島津貴久(たかひさ)。

義弘・歳久・家久といった優秀な弟たちと力を合わせて、九州全域をほぼ手中に収めるところまで勢力を伸ばした島津義久(よしひさ)は十六代目です。

結局、秀吉に攻められて、所領は薩摩・大隅の二国(だいたい今の鹿児島)と日向の一部になり、なんだかんだを経て、それが江戸時代の薩摩藩になります。関ヶ原では西軍だったのに所領はそのままというあたり、交渉上手なんですね。

島津に暗君なし、なんてことが言われるほど、代々の島津氏は名君ぞろいだとされています。もちろん波はあるんでしょうけども。

江戸時代、薩摩藩の初代藩主は島津家久。義久の弟の家久ではなくて、義弘の三男です。紛らわしいので家久を名乗る前の忠恒(ただつね)で呼ばれることが多いです。義弘が十七代、忠恒(家久)が十八代です。

そんな島津氏ですが、ここで話は一気に幕末まで飛びます。


◎──島津重豪(しまづ・しげひで 1745年11月29日-1833年3月6日)

島津氏の二十五代目で薩摩藩八代目の島津重豪は、開明的かつド派手に攻めの政治を行う人でした。若くして実権を手にしてからは、蘭学を推奨したり藩校や武芸の教練所を次々に作ったりと教育に力を注ぎ、その門戸は武士以外にも広く開きました。

早々に家督を長男に譲るも、隠居とは名ばかりで実権は握り続け、さらに外様大名でありながら、娘を第十一代将軍・徳川家斉に正妻として嫁がせるという離れ業まで成し遂げました。

思いのままに辣腕を振るう重豪ですが、お金のことは考えないタチで。世の中、金じゃねーんだよ、金があろうがなかろうが、今やんなきゃいけねーことは今、やってしまうしかねーんだよというタイプだったんですかね。特に西洋文化の吸収にがんがんお金を費やしたので、蘭癖大名の一人と言われます。

一概に悪いこととは言い切れないですが、周りはたまったもんじゃない。誰が工面すると思ってるんだって話で。家督を譲られた長男は、見るに見かねて、緊縮財政を採ろうとしたところ、重豪に叩き潰され、家督は孫に移されました。

そんな経緯で18歳で家督を継いだのが島津斉興です。実権は重豪が握ったまま。


◎──島津斉興(しまづ・なりおき 1791年12月1日-1859年10月7日)

薩摩藩十代目藩主となった斉興ですが、祖父の重豪は亡くなる89歳まで実権を握り続けます。斉興が実権を持ったのは42歳でした。年齢的には普通ですが、息子でなく、孫ですからね。間の一代分をまるまる祖父が代行したようなもの。

長い長い雌伏の時を送りながらずっと準備していたのでしょうか、斉興はまず財政再建に着手して、重豪がこれ以上ないくらいに破綻させた財政を、祖父も顔負けの豪腕で建て直します。

斉興:「調所広郷(ずしょ・ひろさと)よ、財政を建て直すぞ!励め!」
調所:「頑張ります!」
斉興:「売れるものはないか!」
調所:「薩摩の産業である砂糖を売りまくりましょう!」
斉興:「もっと他にもないか!」
調所:「ここは九州です、清国と密貿易しまくりましょう!」
斉興:「お、おう。それでもまだまだ借金が天文学的だな、どうしたものか!」
調所:「250年の分割払いにしてもらいましょう!」
斉興:「え、まじで? じゃ、じゃあ、そうしてもらって」

調所広郷を重用した斉興の采配はぴたりと当たり、なんと、財政が一気に改善しますが、密貿易が幕府にばれてしまいます。

幕府:「どうやら薩摩藩が密貿易をしていると聞いたのだが?」
斉興:「えーと……」
調所:「密貿易、全部私がやりました! ごめん! さようなら!(服毒)」
斉興:「調所ーーーーーっ!!!」

調所は藩や斉興に累が及ばぬよう、全ての罪を被って服毒死します。

この頃、斉興ももう60歳手前。薩摩藩内では斉興の跡継ぎを誰にするかで派閥が分かれていました。正室の子で嫡男の斉彬と、側室の子で五男の・久光と。

どう考えても跡継ぎは斉彬だと思うのですが、久光の母・お由羅の方が久光を猛プッシュ。それに対して斉彬派は、お由羅の方を暗殺しようとするものの、計画が露見して自害。

このお由羅騒動と呼ばれる事件を経てなお両派閥はまだ対立を続け、最終的には幕府老中・阿部正弘の調停により、斉興が斉彬に家督を譲って隠居することで決着がつきました。1851年のことです。


◎──島津斉彬(しまづ・なりあきら 1809年4月28日-1858年8月24日)

薩摩藩十一代目・島津斉彬。このお方こそ、西郷隆盛を世に出したお方です。斉彬は、曾祖父である重豪の影響を強く受けていました。だからこそ、斉彬を聡明だと評価する派閥と、また財政破綻の種になっては困るからお由羅の方に乗っかって久光を推そうという派閥に分かれていたんですね……。

斉彬は家督を継ぐと、蘭学を大いに取り入れて薩摩の富国強兵に努めました。集成館事業と総称される一大プロジェクトを立ち上げ、製鉄・造船・紡績を軸にして、アジアで初となる近代的洋式工場を次々に建設しました。この事業で作られた反射炉跡、機械工場、紡績所技師館は、世界文化遺産となっています。

当時、大型船を作ることは幕府に禁止されていましたが、琉球防衛という名目で幕府へ願い出て認められ着工。そうこうしているうちにペリーがやってきて大騒ぎとなり、幕府は大船建造禁止令を廃止、浦賀奉行に西洋式帆船の建造を命じます。そうして浦賀奉行が鳳凰丸を完成させたおよそ半年後、斉彬は薩摩で作っていた昇平丸を完成させ幕府に献上します。豪毅なところも曾祖父似!

斉彬の事業は造船や武器弾薬といった軍事面に留まらず、食品事業やガス灯の実験などにもおよび、薩摩の地力を底上げしていきます。財政面はさておいて。

一方で西郷隆盛や大久保利通といった、下層武士も実力次第で重用。政治の面でも手腕を振るって、朝廷とも繋がっていきます。同時に、家督を継ぐ前から親交のあった、松平春嶽(福井藩)、伊達宗城(伊予宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)、徳川斉昭(水戸藩)、徳川慶勝(尾張藩)らと共に、幕政にも影響を与える存在となって、老中・阿部正弘にも積極的に意見した。

春嶽、容堂、宗城、斉彬は四賢侯と呼ばれ、阿部正弘とも協調。黒船来航以来の難局に対して、公武合体や防備の充実、開国しての西洋化を進めようとして動いていたが、1857年に阿部正弘が急死。それを受け大老職に就いた井伊直弼とは、将軍の後継問題で真っ向から対立することに。

徳川慶福(家茂)を推す井伊直弼と、慶喜を推す四賢侯とのバトルは、井伊の勝利。安政の大獄として知られる井伊の大粛正で、斉彬を除く三人は、蟄居、謹慎を命じられました。

斉彬はどうしたって? なんと斉彬はこのドタバタの中、急死してしまいました。井伊への抗議のために薩摩藩兵を五千人動員して上洛する準備をしていた折に発病して倒れ、およそ一週間後に息を引き取ります。コレラであったとも身内による毒殺であったとも言われています。存命の父・斉興によるものという説もあります。1858年のことです。

斉彬は嫡男を次々に若くして亡くしており、後は幼少の六男と娘ばかりでした。そこで遺言で、家督を争った弟・久光の長男である忠義に長女を嫁がせ仮養子としつつ、幼少の六男・哲丸を後継者に指名することで、死後に家督を巡って争いが起こりにくいように取りはからいながら、この世を去りました。結局は哲丸が夭逝したので、薩摩藩十二代目は忠義のものに。


◎──島津忠義(しまづ・ただよし 1840年5月22日-1897年12月26日)

元は忠徳(ただのり)で、家督を継いで将軍家茂に謁見したのを機に、茂久と改め、忠義となったのは維新後のこと。なお父の久光も、久光と名乗ったのは忠義が家督を継いだ後のことで、それまでは忠教(ただゆき)でした。みんなよく名前変わったり号だのなんだのと異称があったりでややこしいので、大抵いつも一番通ってる名前で書いています。本当みんな名前多すぎ。

えっと、忠義が家督を継いで十二代藩主となったのは18歳の時のことですが、存命だった祖父の斉興が実権を握ります。斉興は、斉彬が進めてきたことを、どーんとひっくり返していこうとします。斉彬は曾祖父の重豪路線ですからね。西郷隆盛ら、斉彬が重用した家臣も大粛正。集成館事業も中止させます。

ただ、混乱しかけたところであえなく斉興は亡くなります。続いて忠義の父、久光が実権を握ります。この幕末、最後の薩摩藩主である忠義よりも、結局、藩主には就いていない久光の方が名前が通っていますね。忠義、影薄い感じ。しかし傀儡というよりは、父親を立てたといった印象です。島津に暗君なし!

なお忠義の八女は香淳皇后の母、つまり忠義は今上天皇の曾祖父にあたります。


◎──島津久光(しまづ・ひさみつ 1817年12月2日-1887年12月6日)

既に何度も出てきていますが、お由羅騒動で斉彬と家督を争い、斉彬の死後、長男の忠義が家督を継いだことで権力を手にした人です。斉彬と家督を争いはしましたが、争ったのは当人たちでなく家中の人で、別に仲悪かったわけではないようです。

一方で、久光は西郷隆盛とはとことん不仲だったようで。まあ家臣相手に不仲というのも変ですが、大っ嫌いだったみたいで、島流しにしたりしています。その後、赦免するんですけど、嘆願を受けて渋々、やむなく、嫌々の赦免で。

忠義も久光も倒幕の中心人物として活躍しますが、その辺のあれこれは全部、西郷さんの説明にでも乗っけることにしますね。ここでは割愛。

久光の面白エピソード(?)を最後にひとつだけ。

明治政府:「廃藩置県しまーす。薩摩藩もなくなりまーす」
島津久光:「な、な、なにぃ!!どこのボケがそんなことするんじゃあ!」
明治政府:「えっと……薩摩の西郷さんと大久保さんですが……」
島津久光:「反対! 断固反対! 強く抗議する! 遺憾の意を表明する!」
明治政府:「といいますと? プラカード持ってデモしたり?」
島津久光:「うちの庭で、一晩中、花火上げさせたる!!!」
明治政府:「……それでお気が済むのなら、まあ、どうぞ……」

なんで花火だったんでしょうね……


◎──今回はここまで

ということで、以上、島津さんちの話でした。幕末の島津、権力者が年齢順に推移していかないからややこしいんですよ。重豪は長いし、続くのは孫の斉興だし、斉彬は壮年で急死して忠義が継ぐも実権は斉興が復帰して握るし、復帰するや亡くなって今度は忠義の父親・久光が権力を握るし。ああややこしい。

さて次回は西郷さんの話。まずは、軽くその人生を追ってみたいと思います。余裕あれば大久保さんの話も交えつつ。島津の話、覚えていてくださいね。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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