●志ん朝師匠が憧れた写真家
写真家の丹野清志さんとは、もう二十年以上のつきあいになる。何冊目の本になるのだろう、先日、ナツメ社から「写真屋稼業」という新刊が出た。もちろん、このタイトルは日活の「ろくでなし稼業」からきているに違いない。日活映画をこよなく愛する丹野さんらしいタイトルである。
丹野さんは僕より八歳ほど年上だから、石原裕次郎がデビューした頃は高校生くらいだったろうか。小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎など、日活アクション全盛の頃に多感な青春時代を過ごしている。その後、写大を出て、当時、日本で最大部数を誇る月刊誌を出していた出版社の写真部に入るが、勤め人の水が合わず早々にフリーになった。
僕が初めて丹野さんに会ったのは、1982年のこと。当時、僕が在籍したカメラ雑誌の筆者としてだった。丹野さんは文章も書くので、連載エッセイをお願いし、僕が担当したのである。以来、個人的におつきあいいただき、このコラムにも写真家Tさんとして何度か登場している。丹野さんがいなければ、今も僕は運転免許を取っていなかっただろう。
その丹野さんから古今亭志ん朝師匠と会った話を聞いたのは、師匠が亡くなる数年前のことだったと思う。仕事でのつきあいがなくなっても、会社の近くにくると丹野さんは電話をくれる。僕はいそいそと会社を出て、近くの喫茶店で会う。映画や本の話をすることが多いのだが、そのときは丹野さんも感激したのだろう、いきなり「古今亭志ん朝師匠に会ったよ」と始まった。
写真家の丹野清志さんとは、もう二十年以上のつきあいになる。何冊目の本になるのだろう、先日、ナツメ社から「写真屋稼業」という新刊が出た。もちろん、このタイトルは日活の「ろくでなし稼業」からきているに違いない。日活映画をこよなく愛する丹野さんらしいタイトルである。
丹野さんは僕より八歳ほど年上だから、石原裕次郎がデビューした頃は高校生くらいだったろうか。小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎など、日活アクション全盛の頃に多感な青春時代を過ごしている。その後、写大を出て、当時、日本で最大部数を誇る月刊誌を出していた出版社の写真部に入るが、勤め人の水が合わず早々にフリーになった。
僕が初めて丹野さんに会ったのは、1982年のこと。当時、僕が在籍したカメラ雑誌の筆者としてだった。丹野さんは文章も書くので、連載エッセイをお願いし、僕が担当したのである。以来、個人的におつきあいいただき、このコラムにも写真家Tさんとして何度か登場している。丹野さんがいなければ、今も僕は運転免許を取っていなかっただろう。
その丹野さんから古今亭志ん朝師匠と会った話を聞いたのは、師匠が亡くなる数年前のことだったと思う。仕事でのつきあいがなくなっても、会社の近くにくると丹野さんは電話をくれる。僕はいそいそと会社を出て、近くの喫茶店で会う。映画や本の話をすることが多いのだが、そのときは丹野さんも感激したのだろう、いきなり「古今亭志ん朝師匠に会ったよ」と始まった。
雑誌の「クロワッサン」で志ん朝師匠のインタビューが載ったとき、最後のコメントが「丹野清志さん、彼のように撮りたいですね。カメラで日記を書くような人で、瓦一枚写っていたりする。気負いがなくて、いいな、そういうのって」だったという。
「クロワッサン」の記事には志ん朝師匠がライカを構えている写真と実際に撮った写真が掲載されていた。それを見た丹野さんの知人の落語協会の人が引き合わせてくれたのだ。古今亭志ん朝師匠は相当に写真が好きらしい。僕は後に知ったのだが、志ん朝師匠の十歳年上のお兄さんである金原亭馬生師匠も高校生の頃からカメラが趣味で、自宅で暗室作業までやっていたそうである。
しかし、「丹野さんのような写真が撮りたい」とは、なかなか言えないセリフである。丹野さんの写真はすごくいいのだけど、地味である。写っているのは農家のおじいさんやおばあさん、田舎の子供たちや田園風景である。僕は丹野さんをスナップの名人だと思っているけれど、丹野作品の良さはじっくり見ないとわからない。
丹野さんは志ん朝師匠と会った後、礼状と共に自分の写真集を送ったが、師匠からは「お贈りいただいた写真集は買い求めて持っているので、これは写友に差し上げようと思います」という丁寧な手紙が届いた。
こういうことを書くと申し訳ないが、丹野さんの写真集はそんなに部数を刷っているわけではない。僕は「えっ、昔出したあの写真集を持っていたのですか」と丹野さんに聞き返してしまった。失礼な話である。
もう何年か前になるが、丹野さんの数十年の写真の中から人物の「貌」をテーマに選んだ写真集が出て、朝日新聞の読書欄で紹介されたことがあるけれど、それも「売れた」とは聞いていない。
「それで、会談はどうなったんですか」
「それがね、こっちも憧れの師匠に会うわけだろ。両方で『師匠』『先生』と言い合っているうちに時間がきちゃったよ」
丹野さんは、そういう場面でひどくシャイになる。含羞の人なのである。その話を聞いて僕は思った。古今亭志ん朝師匠も、きっと含羞の人に違いない、と…
●タワーレコードで落語CDを買う
その丹野さんと、先日、会った。僕が最近、古今亭志ん朝師匠を追悼して歴代の弟子たちがいろいろ話したことをまとめた「よってたかって古今亭志ん朝」という本を読んだことを話したものだから、自然と志ん朝師匠の話になった。
「その本読んだら、やたらに志ん朝師匠の落語が聞きたくなって、この間、帰りにタワーレコードに寄ってCDを買って帰りましたよ。タワーレコードで落語のCDを買うというのもなかなかオツなもんです」
僕のそんな言い方に「寄席へいきなさい」と丹野さんは冷ややかに答えた。丹野さんは師匠が亡くなった後、写真集を出す話を落語協会の人を通してしてもらったようだ。「志ん朝さんはドイツびいきでね、ずっとライカを愛用していたんだ。あのライカどうなったかな」と丹野さんはつぶやいた。
その数日後、いつものように某出版社のIさんといつもの店で呑んでいるときに、Iさんが寄席に誘われたのにいけなかったという話から、落語家の話題になった。Iさんと落語の話をしたことはなかったと思うが、他のジャンル同様Iさんは落語にも詳しかった。
「この前、買ったCDは三百人劇場でやったときの録音みたいです」
「あのときはよかったという評判ですね」
「聞いていると映像で見たくなるんです。でも…」
「そう、映像は残したくないと言っていたようですね。テープを録るのだって厭がってたと聞きますから」
志ん朝師匠は弟子に稽古をつけるときでも、絶対にテープを録らせなかったという。落語の芸は生でなければならない、一場限りの消えてなくなるものでいい、そんな覚悟で生きていたのだろう。それでも、少ない音源が残ったのは、僕のような遅れてきた落語ファンにはとてもうれしいことだ。
やはり早くに亡くなった志ん朝師匠のお兄さんである金原亭馬生、そのふたりの父親である伝説の古今亭志ん生、彼らも少しは録音が残っている。それらを聞くという楽しみが僕にはまだあるのだ。落語は寄席で聞くべきという意見に耳を傾けるつもりはあるけれど…
●「平成狸合戦ぽんぽこ」の語り
僕にとって古今亭志ん朝という人は、NHKドラマ「若い季節」に出ていた若手の落語家という印象だった。小学生の頃に欠かさずに見ていたドラマである。その後、思い出すと浮かんでくるのは初期の「鬼平犯科帳」(鬼平は先代の松本幸四郎だったか、丹波哲郎だったかはっきりしないけれど)の女にだらしない同心・木村忠吾である。
最初、役者になろうと思っていた志ん朝師匠は、芝居もおろそかにはしていない。舞台もいろいろ出演している。しかし、映画ではこれといった印象的な役がない。ネットの日本映画データベースで検索したら出演作が12本ヒットした。そのうち、僕は4本を見ていた。
1963年に出演した「咲子さんちょっと」は、テレビで人気が出たドラマの映画化だった。咲子さんは江利チエミが演じた。どこに出ていたか、まったく記憶にない。1968年の「日本一の裏切り男」は植木等主演シリーズで僕が最も評価する作品だが、やはりどこに出ていたか覚えていない。デモ中継のアナウンサー役らしいから、ワンシーンの顔見せ出演だろう。
驚いたのは渥美マリ主演「裸でだっこ」(1970年)という映画に出ていたことだ。僕は見ていないが、大映が倒産間際に量産した際どい映画群のひとつである。翌年には、やはり倒産しかかっていた日活で「女子学園 おとなの遊び」に出ている。これは夏純子の主演シリーズでタイトルの割にはよくできていた。その後、1974年に実相寺昭雄監督の「あさき夢みし」に為家の役で出た後、映画出演は途絶えたようだ。
僕が見た古今亭志ん朝師匠出演の最後の映画は1994年に公開されたスタジオ・ジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」である。このアニメーション作品で師匠は全編の語りを担当している。狸たちが活躍する、このとぼけた愛すべきアニメーションの仕事は、まさに師匠に最適だったと思う。
古今亭志ん朝、本名は美濃部強次。昭和十三年(1938年)三月十日に生まれる。昭和三十二年(1957年)に前座名・古今亭朝太を名乗る。昭和三十四年(1959年)に二ツ目に昇進し、三年後の昭和三十七年(1962年)に真打ち昇進。三代目古今亭志ん朝を襲名した。
以来、四十年近く古今亭志ん朝の名を大きくして、平成十三年(2001年)十月一日に亡くなった。享年六十三歳。落語家としては、まだまだこれからという歳だった。父親の古今亭志ん生は八十三歳まで生き、晩年は病気のために高座には昇らなかったが、名人の名をほしいままにした。
古今亭志ん朝師匠の一周忌に合わせて出版されたお姉さんの美濃部美津子さんの「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」(文春文庫)には、父親と弟たちに関するいい話がいろいろ載っているが、中でも印象に残ったエピソードがある。
ずっとうなぎを食べなかったから、美津子さんは志ん朝師匠はうなぎが嫌いなのだと思っていた。しかし、あるときテレビ番組に出た師匠が「最後の晩餐には、うなぎが食べたい」と言ったのでひどく驚いたという。
──志ん朝の守り本尊が虚空蔵様でね。谷中に虚空蔵様を奉った小さなお寺があって、お正月やことあるごとに「芸が上達するように」というんで熱心にお参りしてたの。その虚空蔵様のお使いがうなぎだったんですよ。
師匠が亡くなった後、お姉さんはうなぎ屋で陰膳を用意し「強次、食べな。大好きなうなぎだよ。本当は好きだったのに食べないで、一生懸命頑張ったんだね」と語りかける。
噺家になった十九の頃から四十四年間、好きなうなぎを断ってまで自分の芸を磨こうとした人なのだ。CDでもいいから、改めて聞き直してみたい。もうすぐ五回目の命日がやってくる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
単行本は一回目からの全編を二巻に収録する予定で、四百字詰め原稿用紙三千枚強をすべて整理し直しました。一巻は六百頁近くになりそうです。沢木耕太郎さんの作品集「ミッドナイト・エキスプレス」みたいに分厚くてコンパクトな二段組みになるといいなと思いますが、読む方は大変でしょうか。
デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html
>
「クロワッサン」の記事には志ん朝師匠がライカを構えている写真と実際に撮った写真が掲載されていた。それを見た丹野さんの知人の落語協会の人が引き合わせてくれたのだ。古今亭志ん朝師匠は相当に写真が好きらしい。僕は後に知ったのだが、志ん朝師匠の十歳年上のお兄さんである金原亭馬生師匠も高校生の頃からカメラが趣味で、自宅で暗室作業までやっていたそうである。
しかし、「丹野さんのような写真が撮りたい」とは、なかなか言えないセリフである。丹野さんの写真はすごくいいのだけど、地味である。写っているのは農家のおじいさんやおばあさん、田舎の子供たちや田園風景である。僕は丹野さんをスナップの名人だと思っているけれど、丹野作品の良さはじっくり見ないとわからない。
丹野さんは志ん朝師匠と会った後、礼状と共に自分の写真集を送ったが、師匠からは「お贈りいただいた写真集は買い求めて持っているので、これは写友に差し上げようと思います」という丁寧な手紙が届いた。
こういうことを書くと申し訳ないが、丹野さんの写真集はそんなに部数を刷っているわけではない。僕は「えっ、昔出したあの写真集を持っていたのですか」と丹野さんに聞き返してしまった。失礼な話である。
もう何年か前になるが、丹野さんの数十年の写真の中から人物の「貌」をテーマに選んだ写真集が出て、朝日新聞の読書欄で紹介されたことがあるけれど、それも「売れた」とは聞いていない。
「それで、会談はどうなったんですか」
「それがね、こっちも憧れの師匠に会うわけだろ。両方で『師匠』『先生』と言い合っているうちに時間がきちゃったよ」
丹野さんは、そういう場面でひどくシャイになる。含羞の人なのである。その話を聞いて僕は思った。古今亭志ん朝師匠も、きっと含羞の人に違いない、と…
●タワーレコードで落語CDを買う
その丹野さんと、先日、会った。僕が最近、古今亭志ん朝師匠を追悼して歴代の弟子たちがいろいろ話したことをまとめた「よってたかって古今亭志ん朝」という本を読んだことを話したものだから、自然と志ん朝師匠の話になった。
「その本読んだら、やたらに志ん朝師匠の落語が聞きたくなって、この間、帰りにタワーレコードに寄ってCDを買って帰りましたよ。タワーレコードで落語のCDを買うというのもなかなかオツなもんです」
僕のそんな言い方に「寄席へいきなさい」と丹野さんは冷ややかに答えた。丹野さんは師匠が亡くなった後、写真集を出す話を落語協会の人を通してしてもらったようだ。「志ん朝さんはドイツびいきでね、ずっとライカを愛用していたんだ。あのライカどうなったかな」と丹野さんはつぶやいた。
その数日後、いつものように某出版社のIさんといつもの店で呑んでいるときに、Iさんが寄席に誘われたのにいけなかったという話から、落語家の話題になった。Iさんと落語の話をしたことはなかったと思うが、他のジャンル同様Iさんは落語にも詳しかった。
「この前、買ったCDは三百人劇場でやったときの録音みたいです」
「あのときはよかったという評判ですね」
「聞いていると映像で見たくなるんです。でも…」
「そう、映像は残したくないと言っていたようですね。テープを録るのだって厭がってたと聞きますから」
志ん朝師匠は弟子に稽古をつけるときでも、絶対にテープを録らせなかったという。落語の芸は生でなければならない、一場限りの消えてなくなるものでいい、そんな覚悟で生きていたのだろう。それでも、少ない音源が残ったのは、僕のような遅れてきた落語ファンにはとてもうれしいことだ。
やはり早くに亡くなった志ん朝師匠のお兄さんである金原亭馬生、そのふたりの父親である伝説の古今亭志ん生、彼らも少しは録音が残っている。それらを聞くという楽しみが僕にはまだあるのだ。落語は寄席で聞くべきという意見に耳を傾けるつもりはあるけれど…
●「平成狸合戦ぽんぽこ」の語り
僕にとって古今亭志ん朝という人は、NHKドラマ「若い季節」に出ていた若手の落語家という印象だった。小学生の頃に欠かさずに見ていたドラマである。その後、思い出すと浮かんでくるのは初期の「鬼平犯科帳」(鬼平は先代の松本幸四郎だったか、丹波哲郎だったかはっきりしないけれど)の女にだらしない同心・木村忠吾である。
最初、役者になろうと思っていた志ん朝師匠は、芝居もおろそかにはしていない。舞台もいろいろ出演している。しかし、映画ではこれといった印象的な役がない。ネットの日本映画データベースで検索したら出演作が12本ヒットした。そのうち、僕は4本を見ていた。
1963年に出演した「咲子さんちょっと」は、テレビで人気が出たドラマの映画化だった。咲子さんは江利チエミが演じた。どこに出ていたか、まったく記憶にない。1968年の「日本一の裏切り男」は植木等主演シリーズで僕が最も評価する作品だが、やはりどこに出ていたか覚えていない。デモ中継のアナウンサー役らしいから、ワンシーンの顔見せ出演だろう。
驚いたのは渥美マリ主演「裸でだっこ」(1970年)という映画に出ていたことだ。僕は見ていないが、大映が倒産間際に量産した際どい映画群のひとつである。翌年には、やはり倒産しかかっていた日活で「女子学園 おとなの遊び」に出ている。これは夏純子の主演シリーズでタイトルの割にはよくできていた。その後、1974年に実相寺昭雄監督の「あさき夢みし」に為家の役で出た後、映画出演は途絶えたようだ。
僕が見た古今亭志ん朝師匠出演の最後の映画は1994年に公開されたスタジオ・ジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」である。このアニメーション作品で師匠は全編の語りを担当している。狸たちが活躍する、このとぼけた愛すべきアニメーションの仕事は、まさに師匠に最適だったと思う。
古今亭志ん朝、本名は美濃部強次。昭和十三年(1938年)三月十日に生まれる。昭和三十二年(1957年)に前座名・古今亭朝太を名乗る。昭和三十四年(1959年)に二ツ目に昇進し、三年後の昭和三十七年(1962年)に真打ち昇進。三代目古今亭志ん朝を襲名した。
以来、四十年近く古今亭志ん朝の名を大きくして、平成十三年(2001年)十月一日に亡くなった。享年六十三歳。落語家としては、まだまだこれからという歳だった。父親の古今亭志ん生は八十三歳まで生き、晩年は病気のために高座には昇らなかったが、名人の名をほしいままにした。
古今亭志ん朝師匠の一周忌に合わせて出版されたお姉さんの美濃部美津子さんの「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」(文春文庫)には、父親と弟たちに関するいい話がいろいろ載っているが、中でも印象に残ったエピソードがある。
ずっとうなぎを食べなかったから、美津子さんは志ん朝師匠はうなぎが嫌いなのだと思っていた。しかし、あるときテレビ番組に出た師匠が「最後の晩餐には、うなぎが食べたい」と言ったのでひどく驚いたという。
──志ん朝の守り本尊が虚空蔵様でね。谷中に虚空蔵様を奉った小さなお寺があって、お正月やことあるごとに「芸が上達するように」というんで熱心にお参りしてたの。その虚空蔵様のお使いがうなぎだったんですよ。
師匠が亡くなった後、お姉さんはうなぎ屋で陰膳を用意し「強次、食べな。大好きなうなぎだよ。本当は好きだったのに食べないで、一生懸命頑張ったんだね」と語りかける。
噺家になった十九の頃から四十四年間、好きなうなぎを断ってまで自分の芸を磨こうとした人なのだ。CDでもいいから、改めて聞き直してみたい。もうすぐ五回目の命日がやってくる。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
単行本は一回目からの全編を二巻に収録する予定で、四百字詰め原稿用紙三千枚強をすべて整理し直しました。一巻は六百頁近くになりそうです。沢木耕太郎さんの作品集「ミッドナイト・エキスプレス」みたいに分厚くてコンパクトな二段組みになるといいなと思いますが、読む方は大変でしょうか。
デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
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- 古今亭志ん朝 新選独演会
- 古今亭志ん朝
- Sony Music Direct 2006-09-11
- 曲名リスト
- 明 烏 (あけがらす)
- 船 徳 (ふなとく)
- 居残り佐平次 (いのこりさへいじ)
- 雛 鍔 (ひなつば)
- 愛宕山 (あたごやま)
- 宿屋の富 (やどやのとみ)
- 黄金餅(こがねもち)
- 大工調べ(だいくしらべ)
- 文七元結 (ぶんしちもっとい)
- 柳田格之進(やなぎだかくのしん)
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- 大山詣り(おおやままいり)
- 粗忽の使者(そこつのししゃ)
- 二番煎じ(にばんせんじ)
- お茶汲み(おちゃくみ)
- 井戸の茶碗(いどのちゃわん)
- 今戸の狐(いまどのきつね)
- 崇徳院(すとくいん)
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- 三軒長屋(さんげんながや)
- 羽織の遊び(はおりのあそび)
- 堀の内(ほりのうち)
- 化物使い(ばけものつかい)
- 佃祭(つくだまつり)
- 搗屋幸兵衛(つきやこうべえ)
by G-Tools , 2006/09/29