●大正生まれの母の英語
僕の母は大正十四年生まれだから、もうとっくに八十歳を越えている。山奥の田舎に生まれ、学校まで二里(約八キロ)ほどもある山道を歩いて通ったという。子供の頃に母親を亡くし、妹ふたりの子守ばかりさせられたと、数十年も経っているというのに僕が小学生の頃に聞かされた。よほど怨みに思っていたのかもしれない。
母は青春時代が戦争中に重なる世代である。だから英語など話せない。聞きかじりで英語らしきものを使ったりするが、よく間違う。僕は母が「ベテラン」のことをずっと「ペテラン」と言い間違っていたのを憶えている。滅多に英語など使わなかったから、よけいに記憶に残っているのかもしれない。
そんな母が、一度、「ゴーイング・マイ・ウェイやで」と言ったことがある。僕が高校三年になった夏休み前のことだった。その年の五月、僕の友人だったIクンが体育祭で学校を批判する造反演説を行ない、退学に追い込まれた。その後、僕も危険分子と見られていた頃のことだ。
僕の母は大正十四年生まれだから、もうとっくに八十歳を越えている。山奥の田舎に生まれ、学校まで二里(約八キロ)ほどもある山道を歩いて通ったという。子供の頃に母親を亡くし、妹ふたりの子守ばかりさせられたと、数十年も経っているというのに僕が小学生の頃に聞かされた。よほど怨みに思っていたのかもしれない。
母は青春時代が戦争中に重なる世代である。だから英語など話せない。聞きかじりで英語らしきものを使ったりするが、よく間違う。僕は母が「ベテラン」のことをずっと「ペテラン」と言い間違っていたのを憶えている。滅多に英語など使わなかったから、よけいに記憶に残っているのかもしれない。
そんな母が、一度、「ゴーイング・マイ・ウェイやで」と言ったことがある。僕が高校三年になった夏休み前のことだった。その年の五月、僕の友人だったIクンが体育祭で学校を批判する造反演説を行ない、退学に追い込まれた。その後、僕も危険分子と見られていた頃のことだ。
担任の教師はそういったことには無関心な数学一筋の人だったが、校長とか教頭とか(もしかしたら教育委員会とか)から監視を強化しろと言われたのかもしれない。ある日、僕の家に家庭訪問にやってきた。その朝、学校内で反戦ビラがまかれたからだった。
断っておくけれど、その事件に僕は何も関わっていなかった。Iクンに誘われて香川大学生が開いていたマルクスの勉強会には参加したことがあったが、その場の雰囲気になじめず、彼らとは距離を置いていたのだ。今でもそうだけど、僕は決して政治的人間ではない。センチメンタリストを自称するように、情緒的な人間である。
その頃、僕が学校や教師に反抗的な態度をとっていたのだとしたら、それは退学になったIクンへの感傷的な想いからに過ぎなかった。決してイデオロギー的な共感ではなかった。イデオロギーで結ばれていたはずのIクンの友人たちが、彼の処分撤回闘争を行わなかったことへの反発を僕は感じていた。
高校三年生だったが、僕は受験勉強に励む級友たちを許せなかった。Iが退学になったのにおまえたちは何もなかったように受験勉強できるのか、と僕はひとりひとりに詰問したかったのだ。
特にIクンと最も仲が良く、政治的な論争もよくやっていた元新聞部部長が廊下で級友と日本史年表の暗記量を競っている姿を見た途端、僕は金輪際、受験勉強なんかするものか、と決意した。退学になったIクンに、それくらいは殉じたかったのだ。
僕は授業をさぼり、教師に反抗し、ときに論争し、図書館で本ばかり読んでいた。そんな風だったから目をつけられていたのだろう。反戦ビラがまかれていた朝、僕は校長室に呼び出され、詰問された。校長は僕が犯人の一味であると確信していた。
結局、完全黙秘を貫いて校長室を出たのだが、その日の夕方に僕が帰宅したとき、母親が「担任の先生がきたで」と僕に言った。「何かゆうとった?」と僕が聞くと、「ちょうど、お父ちゃんたちが帰ってきてな。みんなも一緒やったから、先生、あわてて帰ってしもうたわ」と母は言った。
その頃、父は職人の親方をやっていて若いモンと一緒に建築現場から帰ってきたのだった。若いモンの中には我が家の塀を乗り越えて庭に飛び降りるようなひょうきん者もいて、先生は腰が落ち着かなくなったらしい。一応の事情をそそくさと説明した後、あわてて引き上げたという。
──それで、何ゆうていったん?
──あんたのことやけど。まあ、ええよ。ゴーイング・マイ・ウェイやで。我が道を往く…、あんたのやりたいようにやりなさい。
Iクンが退学になった後、僕が書いた感傷的なメモを母が読んだ形跡があった。他の母親と同じように彼女も息子の部屋に勝手に入り、息子の日記やノートをチェックする権利があるのだと思い込んでいた。だから、母はIクンに対する僕の気持ちを推察したのだろう。そのときの言葉は、彼女なりの励ましでもあったのだと思う。
●ビング・クロスビーの心を癒す歌声
長い長い時間が過ぎて、「我が道を往く」(1944年)という映画を見たとき、僕はすっかり忘れていた母親の言葉を思い出した。「ゴーイング・マイ・ウェイやで。我が道を往く…」というのは、もしかしたら母親が昔見た映画から思い浮かべた言葉だったのだろうか。
「我が道を往く」はオリジナルタイトルが「ゴーイング・マイ・ウェイ」である。それを訳した邦題は何だかクラシックだし、「往く」という字面はずいぶん古い感じがする。しかし、日本初公開は1946年、昭和二十一年のことだったのだ。当時は「往く」が普通だったのかもしれない。
「我が道を往く」は、ニューヨークの借金まみれの教会にオマリーという若い神父が赴任するところから物語が始まる。先任のフィッツギボン神父はその教会を建て四十五年間ひとりで守ってきたのだが、貧しい者に施すことを優先した結果、教会は借金を返せずに困っている。
敬虔で堅物のフィッツギボン神父は、何事も斬新で型破りなオマリー神父と合わない。逆に、心優しいオマリー神父はフィッツギボン神父の後任としてやってきたのだが、そのことを言い出せない。ある日、オマリーの転任を頼みに司教のところへいったフィッツギボン神父はオマリーが後任であることを知り、自分が引退すべきなのだと悟る。
長年愛した教会をオマリーに譲りフィッツギボン神父はひとり雨の中を出ていくが、泊まるところもなく警官に連れられて帰ってくる。その夜、フィッツギボン神父はオマリーにアイルランドにいる九十歳になる母親のことを語る。貧乏暮らしを続けたフィッツギボン神父は長い間、母親と会えないままだった。
オマリーは不良少年たちを集めて聖歌隊を作ったり、家出した歌手志望の娘の面倒を見たり、何かと忙しい。ある日、教会の窮状を救うために、自分が作った曲を楽譜出版社に売り込もうとする。聖歌隊の少年たちと歌った「星にスイング」が売れたため、教会の借金は返せる目処がつく。
オマリーを演じたのは、「ホワイト・クリスマス」で有名なビング・クロスビーである。この映画の中で彼は何度もピアノを弾きながら歌う。主題歌の「ゴーイング・マイ・ウェイ」も歌うし、ノリのいい「星にスイング」もリズムをとりながら歌う。ビング・クロスビーの声が素晴らしい。クルーナーと呼ばれる甘い歌声が何かを癒してくれる。
フィッツギボン神父を演じたのは、バリー・フィッツジェラルドだった。彼はこの映画でアカデミー助演男優賞を受賞するが、その八年後、ジョン・フォード監督「静かなる男」でアイルランドの酒好きの老人を演じて、若い日の僕に強い印象を残した。
僕は「静かなる男」だけでバリー・フィッツジェラルドという俳優を記憶した。だから、彼が出ずっぱりでお茶目な演技を見せてくれる「我が道を往く」を見たときに、僕はすごく幸せな気分になったのである。
●最高のクリスマスプレゼント
「我が道を往く」には感動的なシーンがある。クリスマスプレゼントとしてオマリーがフィッツギボン神父に送ったのは、アイルランドから母親を招待することだった。九十歳を越えた老婆をフィッツギボン神父は心から抱擁する。背後では聖歌隊の子どもたちがアイルランドの民謡を歌っている。そのハーモニーが心地よい。それを見ながら、オマリーは新しい赴任地に去っていく。
「我が道を往く」が制作されたのは1944年のことであり、まだ戦争は続いていた。映画の中でも家出した歌手志望の娘が結婚する相手の青年は、軍隊に志願し出征する。そのときの別れがつらく見えるのは、彼が戦争へいくことがわかっているからである。永遠の別れになるかもしれなかったのだ。
昭和二十一年、日本で「我が道を往く」が公開されたときも、まだまだ戦争の記憶が生々しかったに違いない。その年の元旦、昭和天皇が「人間宣言」を出した。前年の十月に封切られた「そよかぜ」という映画の挿入歌として歌われた「リンゴの唄」が一月にレコードとして発売され、大ヒットする。
二月にはマッカーサー元帥が憲法の草案作りを指示する。四月には満州からの初めての引揚げ船が博多港に着いた。また、プロ野球の公式戦が開幕になり、五月には六大学野球が再開された。戦争が終わり、ようやく人々が解放感を感じ始めた頃なのかもしれない。
そんな時代に僕の母も生きていた。まだ二十一歳の若さだった。母は何を思っていたのだろう。昭和二十一年の八月に十件に及ぶ女性絞殺容疑で小平義雄という男が逮捕されているが、僕はこの殺人鬼のことを母から聞いた記憶がある。二十一歳の若い娘としてそのニュースに戦慄し、記憶に深く刻まれたのかもしれない。
その頃、母はどんな夢を抱いていたのだろう。どんな男と結婚したいと思っていたのだろう。将来、自分がどんな子を産むのか、想像したことはあっただろうか。八十を過ぎた自分を思い描くことなど、できなかったはずだ。
「我が道を往く」を見ると、何度も歌われる主題歌が耳に残る。「ゴーイング・マイ・ウェイ」という英語を自然に覚えてしまう。母がその映画を見たかどうか、僕にはわからないが、あのとき、英語などまったくわからない母が口にした「ゴーイング・マイ・ウェイやで」という言葉は、戦後、彼女が初めて知った英語だったのではあるまいか。
母が「我が道を往く」を見たとしたら、どう思ったのだろう。ハリウッド映画に描かれた自由な雰囲気にアメリカの凄さを感じたのだろうか。母はその映画を誰と見たのだろうか。心ときめかす相手だろうか。母にも青春時代の忘れがたい思い出があるはずだ。あってほしいと、今の僕は強く願う。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
十二年乗ったプリメーラにさよならをした。さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ、というのは感傷的な人間にとっては正しい。カミサンの意見を尊重し、新車は格下のティーダになった。義弟が日産勤めなので日産車しか買ったことがない。ツーシーターのオープンカーがよかったのだけど…
■完全版「映画がなければ生きていけない」12月下旬に書店に並びます。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
>
■デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html
>
断っておくけれど、その事件に僕は何も関わっていなかった。Iクンに誘われて香川大学生が開いていたマルクスの勉強会には参加したことがあったが、その場の雰囲気になじめず、彼らとは距離を置いていたのだ。今でもそうだけど、僕は決して政治的人間ではない。センチメンタリストを自称するように、情緒的な人間である。
その頃、僕が学校や教師に反抗的な態度をとっていたのだとしたら、それは退学になったIクンへの感傷的な想いからに過ぎなかった。決してイデオロギー的な共感ではなかった。イデオロギーで結ばれていたはずのIクンの友人たちが、彼の処分撤回闘争を行わなかったことへの反発を僕は感じていた。
高校三年生だったが、僕は受験勉強に励む級友たちを許せなかった。Iが退学になったのにおまえたちは何もなかったように受験勉強できるのか、と僕はひとりひとりに詰問したかったのだ。
特にIクンと最も仲が良く、政治的な論争もよくやっていた元新聞部部長が廊下で級友と日本史年表の暗記量を競っている姿を見た途端、僕は金輪際、受験勉強なんかするものか、と決意した。退学になったIクンに、それくらいは殉じたかったのだ。
僕は授業をさぼり、教師に反抗し、ときに論争し、図書館で本ばかり読んでいた。そんな風だったから目をつけられていたのだろう。反戦ビラがまかれていた朝、僕は校長室に呼び出され、詰問された。校長は僕が犯人の一味であると確信していた。
結局、完全黙秘を貫いて校長室を出たのだが、その日の夕方に僕が帰宅したとき、母親が「担任の先生がきたで」と僕に言った。「何かゆうとった?」と僕が聞くと、「ちょうど、お父ちゃんたちが帰ってきてな。みんなも一緒やったから、先生、あわてて帰ってしもうたわ」と母は言った。
その頃、父は職人の親方をやっていて若いモンと一緒に建築現場から帰ってきたのだった。若いモンの中には我が家の塀を乗り越えて庭に飛び降りるようなひょうきん者もいて、先生は腰が落ち着かなくなったらしい。一応の事情をそそくさと説明した後、あわてて引き上げたという。
──それで、何ゆうていったん?
──あんたのことやけど。まあ、ええよ。ゴーイング・マイ・ウェイやで。我が道を往く…、あんたのやりたいようにやりなさい。
Iクンが退学になった後、僕が書いた感傷的なメモを母が読んだ形跡があった。他の母親と同じように彼女も息子の部屋に勝手に入り、息子の日記やノートをチェックする権利があるのだと思い込んでいた。だから、母はIクンに対する僕の気持ちを推察したのだろう。そのときの言葉は、彼女なりの励ましでもあったのだと思う。
●ビング・クロスビーの心を癒す歌声
長い長い時間が過ぎて、「我が道を往く」(1944年)という映画を見たとき、僕はすっかり忘れていた母親の言葉を思い出した。「ゴーイング・マイ・ウェイやで。我が道を往く…」というのは、もしかしたら母親が昔見た映画から思い浮かべた言葉だったのだろうか。
「我が道を往く」はオリジナルタイトルが「ゴーイング・マイ・ウェイ」である。それを訳した邦題は何だかクラシックだし、「往く」という字面はずいぶん古い感じがする。しかし、日本初公開は1946年、昭和二十一年のことだったのだ。当時は「往く」が普通だったのかもしれない。
「我が道を往く」は、ニューヨークの借金まみれの教会にオマリーという若い神父が赴任するところから物語が始まる。先任のフィッツギボン神父はその教会を建て四十五年間ひとりで守ってきたのだが、貧しい者に施すことを優先した結果、教会は借金を返せずに困っている。
敬虔で堅物のフィッツギボン神父は、何事も斬新で型破りなオマリー神父と合わない。逆に、心優しいオマリー神父はフィッツギボン神父の後任としてやってきたのだが、そのことを言い出せない。ある日、オマリーの転任を頼みに司教のところへいったフィッツギボン神父はオマリーが後任であることを知り、自分が引退すべきなのだと悟る。
長年愛した教会をオマリーに譲りフィッツギボン神父はひとり雨の中を出ていくが、泊まるところもなく警官に連れられて帰ってくる。その夜、フィッツギボン神父はオマリーにアイルランドにいる九十歳になる母親のことを語る。貧乏暮らしを続けたフィッツギボン神父は長い間、母親と会えないままだった。
オマリーは不良少年たちを集めて聖歌隊を作ったり、家出した歌手志望の娘の面倒を見たり、何かと忙しい。ある日、教会の窮状を救うために、自分が作った曲を楽譜出版社に売り込もうとする。聖歌隊の少年たちと歌った「星にスイング」が売れたため、教会の借金は返せる目処がつく。
オマリーを演じたのは、「ホワイト・クリスマス」で有名なビング・クロスビーである。この映画の中で彼は何度もピアノを弾きながら歌う。主題歌の「ゴーイング・マイ・ウェイ」も歌うし、ノリのいい「星にスイング」もリズムをとりながら歌う。ビング・クロスビーの声が素晴らしい。クルーナーと呼ばれる甘い歌声が何かを癒してくれる。
フィッツギボン神父を演じたのは、バリー・フィッツジェラルドだった。彼はこの映画でアカデミー助演男優賞を受賞するが、その八年後、ジョン・フォード監督「静かなる男」でアイルランドの酒好きの老人を演じて、若い日の僕に強い印象を残した。
僕は「静かなる男」だけでバリー・フィッツジェラルドという俳優を記憶した。だから、彼が出ずっぱりでお茶目な演技を見せてくれる「我が道を往く」を見たときに、僕はすごく幸せな気分になったのである。
●最高のクリスマスプレゼント
「我が道を往く」には感動的なシーンがある。クリスマスプレゼントとしてオマリーがフィッツギボン神父に送ったのは、アイルランドから母親を招待することだった。九十歳を越えた老婆をフィッツギボン神父は心から抱擁する。背後では聖歌隊の子どもたちがアイルランドの民謡を歌っている。そのハーモニーが心地よい。それを見ながら、オマリーは新しい赴任地に去っていく。
「我が道を往く」が制作されたのは1944年のことであり、まだ戦争は続いていた。映画の中でも家出した歌手志望の娘が結婚する相手の青年は、軍隊に志願し出征する。そのときの別れがつらく見えるのは、彼が戦争へいくことがわかっているからである。永遠の別れになるかもしれなかったのだ。
昭和二十一年、日本で「我が道を往く」が公開されたときも、まだまだ戦争の記憶が生々しかったに違いない。その年の元旦、昭和天皇が「人間宣言」を出した。前年の十月に封切られた「そよかぜ」という映画の挿入歌として歌われた「リンゴの唄」が一月にレコードとして発売され、大ヒットする。
二月にはマッカーサー元帥が憲法の草案作りを指示する。四月には満州からの初めての引揚げ船が博多港に着いた。また、プロ野球の公式戦が開幕になり、五月には六大学野球が再開された。戦争が終わり、ようやく人々が解放感を感じ始めた頃なのかもしれない。
そんな時代に僕の母も生きていた。まだ二十一歳の若さだった。母は何を思っていたのだろう。昭和二十一年の八月に十件に及ぶ女性絞殺容疑で小平義雄という男が逮捕されているが、僕はこの殺人鬼のことを母から聞いた記憶がある。二十一歳の若い娘としてそのニュースに戦慄し、記憶に深く刻まれたのかもしれない。
その頃、母はどんな夢を抱いていたのだろう。どんな男と結婚したいと思っていたのだろう。将来、自分がどんな子を産むのか、想像したことはあっただろうか。八十を過ぎた自分を思い描くことなど、できなかったはずだ。
「我が道を往く」を見ると、何度も歌われる主題歌が耳に残る。「ゴーイング・マイ・ウェイ」という英語を自然に覚えてしまう。母がその映画を見たかどうか、僕にはわからないが、あのとき、英語などまったくわからない母が口にした「ゴーイング・マイ・ウェイやで」という言葉は、戦後、彼女が初めて知った英語だったのではあるまいか。
母が「我が道を往く」を見たとしたら、どう思ったのだろう。ハリウッド映画に描かれた自由な雰囲気にアメリカの凄さを感じたのだろうか。母はその映画を誰と見たのだろうか。心ときめかす相手だろうか。母にも青春時代の忘れがたい思い出があるはずだ。あってほしいと、今の僕は強く願う。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
十二年乗ったプリメーラにさよならをした。さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ、というのは感傷的な人間にとっては正しい。カミサンの意見を尊重し、新車は格下のティーダになった。義弟が日産勤めなので日産車しか買ったことがない。ツーシーターのオープンカーがよかったのだけど…
■完全版「映画がなければ生きていけない」12月下旬に書店に並びます。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
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- 我が道を往く
- レオ・マッケリー ビング・クロスビー バリー・フィッツジェラルド
- ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2006-01-27
- 二人でお茶を~ビング・クロスビー・ベスト・セレクション
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- 森の水車
- 陽気なカナリア娘
- お使いは自転車に乗って
- 雨の日ぐれ
- 路よ
- 恋はおしゃれ
- 恋の道玄坂
by G-Tools , 2006/12/15