
カズオ・イシグロの「わたしを離さないで/NEVER LET ME GO」が評判になっている。すでに十数刷まで版を重ねているらしい。僕が昨年の暮れに買ったのは十一版だった。呑み友だちのIさんから「NEVER LET ME GOがいいですよ」と聞いていたのと、村上春樹さんが読者あてのメールをまとめた本の中で「美しい小説です」と書いていたので読んでみたくなったのだ。
僕はまったく予備知識を持っていなかったので、読み進むほどに目の前から霧が少しずつ晴れていくような感じを味わった。次第に息苦しくなるほどの切迫感が高まり、やがてどうしようもない切なさに襲われた。抑制された一人称の語りが素晴らしい効果を上げている。
読み終わってから、CDリストを検索して「NEVER LET ME GO」の曲を探したら、八枚がヒットした。キース・ジャレットの二枚、ドン・フリードマン、大西順子、アキコ・グレース、レッド・ガーランドはピアノ・トリオでの演奏だ。ビル・エバンスは「アローン」で演奏していて、ソロピアノである。一枚だけアルト・サックスの演奏があった。山田穣の初のリーダーアルバムだ。
「NEVER LET ME GO」は、美しい曲である。その曲を聴きながら、もう一度最初から読み始めると、また別の感慨が湧き起こる。語り手がある街のがらくたを売っているような店で「NEVER LET ME GO」の入ったテープを探し出すシーンでは涙さえ出そうになった。


カズオ・イシグロは英語で小説を書く日系人として、昔から気にはなっていたのだが、本のプロフィールを読むと1954年(昭和29年である)に長崎で生まれている。歳は僕とそんなに変わらない。僕と大きく違うのは父親の仕事の関係で五歳からイギリスで育ったことである。
僕はジェームズ・アイヴォリー監督の英国的格調高さが苦手で、実はあまり熱心な観客ではなかった。そのせいで「日の名残り」も見てはいない。「わたしを離さないで」を読んだせいで、また、見なければならない映画、読まねばならない本が増えてしまった。
●死を自覚したときに人は初めて「生きる」のか?

レプリカントは工場で大量生産される模造人間であり、惑星の植民地の過酷な労働に使用される一種のマシーンである。ただ、人間の完全なレプリカとして作られ、記憶まで埋められている。しかし、レプリカントには感情がないとされていて、レプリカントを判別するテストは感情に訴える質問をし、そのときの瞳孔の動きで反応を見る。
「ブレードランナー」は、レプリカント狩りのプロである主人公が次第に人間とレプリカントの区別がつかなくなってゆく話である。原作では、そのテーマがもっと追究されていて、主人公は自分の記憶が偽でありレプリカントではないかと疑い始める。
惑星の植民地から数人のレプリカントが脱走し地球に潜入したところから始まるのだが、彼らが脱走した目的は自分たちの製造年月日を知るためである。なぜならレプリカントは製造時に寿命が決められていて、四年(だったと思う)経つと死んでしまうからだ。彼らの目的は、自分の死がいつ訪れるのかを知ることなのである。
しかし、レプリカントでなくても生物は必ず死を迎える存在である。それがいつくるか、わかっていないだけだ。だが、普段は死を忘れているが、何かのきっかけで人は死を想う。もし、確実に死が訪れる日時がわかっていれば、人は常に死を意識して生きねばならない。そのとき、人はどのように生きていけるものなのだろうか。
死を宣告された人間の生き方、というのは昔から人々の興味を惹いてきたし、様々な物語が作られてきた。最近の物語では、死を知らされた人間という設定が安易に使われている気もするが、人は死を自覚したとき、もしかしたら最も生きようとするのかもしれない。

彼は、自分の人生とは何だったのかと考える。新しい世界を体験しようと、足を踏み入れたこともない夜の歓楽街をさまよう。彼と出逢い、地獄巡りのように彼を連れまわすのは、まるでメフィストフェレスのような悪魔的な風貌の小説家である。
だが、彼は充たされない。死の恐怖から逃れられない。彼はかつての部下の娘と再会し、彼女が玩具工場で働いており、彼女が語る言葉から、何かを人のために創ることにこそ喜びがあるのだと知らされる。彼は人が変わったように仕事に打ち込み、小さな公園を作り上げる。やがて完成した公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさみながら雪の夜に死んでいく…
しかし、僕は「生きる」を貶める気持ちはないのだが、この道徳的な嘘くささが嫌いだ。余命半年と宣告された後の主人公の大仰な芝居も何だかしらけてしまう。いつものように黒澤は主人公に目を剥かせ、ヨロヨロとよろけさせるといったお約束のような演技をさせる。
人はもっと静かに死を受け入れるのではないか、淡々と最後の日々を過ごすのではないか、僕にはそう思えてならない。それは、もし僕が死を宣告されたらそうありたいと思っているからだが…
●淡々と死の準備をする姿が心に沁みる

ホ・ジノ監督の作品は淡々と物語が進んでいく。まるで小津安二郎の映画のようだ。その淡々と描写される日常がたまらない。会話だってドラマチックな言葉は出てこない。日常的な世間話のような内容である。しかし、その何気ない会話から主人公たちの想いが漂い始めるのだ。ドラマ的なヤマ場もないし、人によっては眠くなるかもしれない。だから、日本版の方がわかりやすく思えるのだろう。

「八月のクリスマス」を見たとき、死を迎える準備をする主人公の静かな生活が心に残った。彼は何度教えてもビデオデッキを扱えない父親のために、操作法を何枚もの紙に画を入れて書くのだ。また、自分の遺影を撮影するシーンの静寂さが身に沁みる。
彼は淡々と死を受け入れ、残された人間の心配をし、彼らのために準備をする。自分の死を知る彼はヒロインの好意を受け入れられない。一定の距離を保ったままの関係で死を迎えようとする。彼は自分が死んで悲しむ人間を増やしたくないのだ。父親は仕方がない。幼友達も悲しむだろう。だが、それ以上に悲しむ人を作りたくはない。
彼は小さな街の片隅の写真店を父親から受け継いで営んできた。そのことを少しも後悔はしていない。派手なこともなかったし、実家で父親と暮らしながら静かに生きてきたのだ。幼友達はいる。昔、好き合った女性もいる。限られた生であることを知らされても、彼は以前と同じように生きていく。
彼は死の準備をし、短かった人生の仕上げをしようとする。だが、今更、人が変わったように何かに打ち込む必要はない。淡々と死を受け入れ、静かに死んでいけばよいのだ。人に迷惑をかけず、悲しませず…。おそらくそれが彼の望みである。
黒澤明の「生きる」の主人公は、死を宣告されるそのときまで死んだように生きてきたという設定である。だから、死を自覚したときに必死で何かを為さねばならなかった。人が変わったように打ち込まなければならなかった。だが、それは死んだように生きてきたのが悪いのだ。
死を自覚して初めて「生きる」より、死がいつやってきてもよいように、常に「よく生きる」べきではないのだろうか。それは、いつ死んでもよいという覚悟で自覚的に生きることだ。人の人生に完成はない。死はいつも唐突にやってくる。人の営みは、常に死で中断される可能性がある。それをこそ自覚して生きるべきではないのだろうか。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
あけまして、おめでとうございます。年末年始はゆっくり休みました。暮れに娘が近くの書店にいったら映画本のコーナーに四冊ずつ本が平積みになっていたというので、正月五日にいったらそのままでした。コレって、一週間経っても全然売れてないということ??
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- カズオ イシグロ
- 早川書房 2006-04-22
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萩尾望都でいいや
この物語に出会えたことに感謝
現代科学文明への批判ではなく、生きることに真摯であるかどうかを問いかける小説として読む
主人公の視点の背景を考えさせられる
哀しく心に響く

- 日の名残り コレクターズ・エディション
- カズオ・イシグロ ジェームズ・アイヴォリー アンソニー・ホプキンス
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美しく、ほろ苦く、そしてユーモラスな大人の映画
貴族とは・・・?
静かで穏やかな、「大人の恋」

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素直に泣けてしまいました。
これでまさやんのファンになりました
恋人?
暖かい…
八月のクリスマス
by G-Tools , 2007/01/12