
映像作家でイメージフォーラムを主宰するかわなかのぶひろさんには、ずいぶんとご無沙汰し不義理を重ねていた。このコラムでは、かわなかさんにお世話になった時期のことを何回も書かせていただいたが、2000年に現在のイメージフォーラムのビルが渋谷に完成したとき、そのお披露目に写真家の丹野清志さんと一緒にうかがってお会いしたのが久しぶりのことだったし、そのとき以降も年賀状での挨拶くらいしかしていなかった。
2005年の秋に五百部限定の「映画がなければ生きていけない」が出たときも、かわなかさんに送らねば…と思いながら、映画への愛と記憶に関しては僕など足元にも及ばないかわなかさんに、つまらない駄文をまとめたものを送って恥をかくのがいやで二の足を踏んでいた。その背中を押してくれたのは、やはり丹野さんだった。

しばらくして、かわなかさんから電話がかかってきた。何しろ造形大の映像学科の教授である。たくさんの教え子は映画監督や映像作家になっている。僕は先生の前に立たされてテスト結果を聞く学生の気持ちになった。幸い、かわなかさんからは「いつの間にあんなことやってたの?」という感じで好意的な批評をいただき、ホッとした気分になった。
昨年、完全版「映画がなければ生きていけない」を水曜社が出してくれることになり、「解説をどなたかに」と言われたときに真っ先に浮かんだのがかわなかさんだった。ちょうど、かわなかさんの作品上映会の案内をいただいたところだったので、その上映会で改めてお会いしてお願いしようと思い、まず手紙を書いた。
しかし、かわなかさんの作品上映会が近づくにつれて緊張し始めた。自分の本の解説をお願いすることはもちろん初めてだし、駄文を連ねた本にそんな価値なんてないのではないかと、いつもの弱気の虫が騒ぎ始めたのである。僕が八年もこのコラムを書き続けてくることができたのは、読者からのメールに励まされたからだ。何の反応もなければ「こんな駄文に意味はない」と迷ってやめていただろう。
●記憶はゆらゆらと揺れる映像に似ていた
その日、表参道駅を降りて青山学院大学を通り過ぎスターバックスのある角を曲がった途端、イメージフォーラムの前に人がたむろしているのが見えた。何だろうと思いながらイメージフォーラムのビルに近づくと、路地側の壁にいくつか貼ってある映画のポスターが見えてきた。「なるほど、そうか」とひとりで納得した。
イメージフォーラムには、ビル落成のお披露目のときにきて以来だった。あれからもう何年も経っている。そのときには、一階の映写ホールを始めすべて見せてもらった。映画館としてはそんなに広くはないが、映写設備が充実したホールだった。そのホールはシアター・イメージフォーラムとして単館ロードショーを行っている。
たむろしていた人たちは、次回の上映を待っていたのだ。新聞でも取り上げられ、話題になっている「蟻の兵隊」という映画である。僕は人々を掻き分けるようにして受付へいき「かわなかさんの作品上映は何階ですか」と聞いた。外の入り口から入って三階だという。「イメージフォーラム、ダゲレオ出版」と書かれたドアを押し、三階へ上がる。
三階はイメージフォーラムの教室であり、映写ホールでもあるのだろう。時間が早すぎて、まだ前の作品を上映していた。受付の人に「かわなかさんはいらしてますか」と訊くと、まだだという。どちらにしろ上映後に改めてお願いしなければならない。かわなかさんに会うのも、イメージフォーラムの落成お披露目以来だった。
時間がきて正面のスクリーンを背にしてかわなかさんが立った。上映される作品は「私小説」の102分バージョンである。その作品を撮り始めたきっかけから、かわなかさんは話し始めた。時代は1960年代後半まで遡り、草月ホールが前衛芸術のメッカだった頃の話になる。当時の文化運動の雰囲気まで伝わってきた。

かわなかさんの「私小説」はシリーズ作品だったが、それらをまとめて一本の作品にしたのが「私小説」102分バージョンである。サイレントであり、時々、スーパーインポーズでタイトルが入る。そのサイレント作品を見続けていると、不思議な記憶の感覚が甦ってくる。
トワイライトの都市風景が映る。遠い記憶の中から浮かび上がってきたような、揺れているような映像が無音で綴られてゆく。フッと見知った顔が出てくることがある。それは寺山修司の葬儀に現れた山田太一であったり、ゴールデン街の「まえだ」のママの葬儀のシーンに登場する野坂昭如や三上寛だったりする。
「私小説」の中では、三つの葬儀が映る。寺山修司、川喜多和子、「まえだ」のママの葬儀である。僕は川喜多和子さんと「まえだ」のママには面識があったし、ほんの少しだけだが会話したこともあった。「まえだ」のママは喉頭ガンの手術後で、マイクを喉にあてその震えで発声していた。だからだろうか、そのシーンに心を掻き立てられる。102分のサイレント作品に時を忘れた。
●久しぶりの新宿に備えてホテルを予約
──僕でいいの。一般的には知名度はないよ。もっと有名な人を紹介しようか。
上映後にかわなかさんはいきなりという感じで、そう言った。僕は、まず手紙に書いたことを改めてお願いし、引き受けてもらえるかどうかを確認しなければと思っていたので、断られるのではなさそうだと安心した。「いえいえ、勝手なことを書かせていただいていますし、僕のことを知っていただいているかわなかさんに是非お願いしたいので…」とモゴモゴと答えた。
引き受けてもらったものの膨大なゲラに目を通してください、と言うのは気が引けた。しかし、何とかわなかさんはすべてのゲラを読んで、解説を書いてくれたのだ。同じゲラは僕のところにも校正のために送られてきたが、重ねれば十五センチくらいはありそうだった。自分でもうんざりする分量である。
締め切りの日、水曜社の担当の北畠さんから、かわなかさんがわざわざ自分で原稿を届けにみえたことをメールで知らされた。同じ日、かわなかさんからメールが入り、解説文が添付されていた。初めての出版を応援してやろうという愛情に充ちた文章に僕は心打たれた。
──編集者として、映像や写真を中心とする出版に長年携わってきた著者が、その激務の傍らでずっとずっと思い続けてきた夢---映画への、小説への、音楽への、そしてさまざまな憧れへ---の滋味あふれる結晶からなる玉手箱にほかならない。
──本書のきわだった特長は、映画を中心に小説や音楽や詩やマンガなど多くのジャンルにまたがる蘊蓄を俎上にあげながら、それらが単なる知識としてではなく、必ず「僕」を基点として発語されているところにある。そこが類書にないきわだった魅力だ。
ちょっと誉めすぎじゃないか、と思ったけれど、とても嬉しかった。人の喜びのひとつに「理解された実感」というのがある。わかってくれたのだ…という幸福感だ。人は自分の想いを伝えるために表現行為をする。言葉では伝わらない何かを伝えるために文章を連ねる。その「何か」が確実に伝わったのだ、という実感…

そんな記憶違いが他にもあるだろう、と改めて本を出すことの怖さを思い知ったのだが、一方で「この本にはソゴーという男の映画的記憶が書かれているのだ、と思ってもらうしかない」と思い定めた。一種の居直りである。蓮見重彦さんや山田宏一さんのような映画的記憶の高みには至れないのだと諦める他にない。
かわなかさんには、本が出る前から何かと宣伝をしていただいたが、見本が届いた頃から、いろいろと贈呈先を教えていただいた。年明け早々には、かわなかさんと親しい長部日出雄さんや内藤陳さんにも送るといいよ、とメールが届いた。昨年、僕は「天才監督・木下恵介」を読んで改めて長部さんの仕事に感服していたので、長部さんに読んでもらうほどの価値があるのかと思ったが、版元にパブリシティとして送ってもらうように連絡した。

年明けの二週目、かわなかさんと新宿でお会いすることになった。水曜社の近くの中華料理店からのスタートである。編集担当の北畠さんとデザインとイラスト担当の鈴木さんの四人だ。少し歩けば新宿ゴールデン街である。僕は新宿の花園神社の向かいにあるビジネスホテルを予約した。門限は夜中の二時だという。門限までには帰れないかもしれないな、と僕は思った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
アマゾンでは上巻が在庫なしのようなので、ちょっと検索してみたら、楽天ブックスやヤフーブックスの他に大手書店のサイトもいくつかヒットして、在庫何点なんてすぐに調べられるようになっているんですね、今は。小林信彦さんの「映画が目にしみる」(すぐに買いました)と並んで出ていて、ちょっと嬉しい。
●第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店およびネット書店で発売中
出版社 < http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
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●デジクリ掲載の旧作が毎週金曜日に更新されています
< http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html
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- 映画・日常の実験 (1975年)
- かわなか のぶひろ
- フィルムアート社 1975