映画と夜と音楽と…[326]今を生きるために…
── 十河 進 ──

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007は二度死ぬ アルティメット・エディション●「007は二度死ぬ」のシナリオライター

シリーズ五作目の「007は二度死ぬ」(1967年)が公開された頃の話だから、もう四十年も前のことになるだろうか。僕は高校に入学したばかりだった。「007は二度死ぬ」は日本を舞台にした話なので、ロケ中から映画雑誌には様々な記事が掲載されていた。何しろ人気絶頂のショーン・コネリーが日本にやってきたのである。

そんな映画雑誌の記事のひとつに「シナリオを書いているのはロアルド・ダールという作家で、あのパトリシア・ニールのご主人である。パトリシア・ニールは最近の人には『ティファニーで朝食を』のジョージ・ペパードのパトロン役でおなじみだろう」という文章があった。

えっ、と僕は驚いた。ロアルド・ダールがシナリオを書いていることを知らなかったのと、奥さんが女優であることを知らなかったからである。中学生の頃から「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」を愛読していた僕は、時々、掲載されるロアルド・ダールの短編はすべて読んでいた。

それに、田村隆一が訳したポケットミステリ版「あなたに似た人」は好きな一冊だった。「SOMEONE LIKE YOU」という「あなたに似た人」の原題がひどく気に入っていたのだ。それに、開高健が訳した異色作家短編集シリーズの「キス・キス」も古本屋で手に入れていた。


チャーリーとチョコレート工場 特別版容易に素顔を見せない怪優ジョニー・デップが出た「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)が有名になり、最近は原作者のロアルド・ダールは児童文学者のような紹介をされることもあるけれど、元来、彼はブラックでシニカルで残酷な短編を書く作家だった。江戸川乱歩は「奇妙な味の小説」と名付けたものである。

アルフレッド・ヒッチコック監督がテレビ・シリーズとしてプロデュースした「ヒッチコック劇場」の伝説の名作のいくつかは、ロアルド・ダールの短編を原作としている。「おとなしい凶器」「南から来た男」などだ。それら有名になった短編ばかりが「あなたに似た人」には入っている。

ティファニーで朝食をだから、僕はロアルド・ダールについてはよく知っていたのだが、パトリシア・ニールという女優についてはまったく知識がなかった。「ティファニーで朝食を」(1961年)の主人公の作家志望の青年に金を貢ぐ有閑マダムは覚えていたけれど、あの映画の中ではイヤな役だし、印象に残る女優でもなかった。

そのときの映画雑誌の記事だったかどうかは覚えていないのだが、パトリシア・ニールが若い頃「摩天楼」(1949年)で大スターだったゲーリー・クーパーと共演し、運命的な恋に落ち、当時のハリウッドを賑わしたスキャンダルの主だったということを僕は知った。

地球の静止する日その後、僕はいくつか彼女の出演作を見たが、一番若い頃の姿を見たのは「地球の静止する日」(1951年)である。彼女は子持ちの未亡人を演じていた。後に名匠と呼ばれるロバート・ワイズ監督作品であり、今ではSF映画の古典として名高いが、低予算であることが一目瞭然のB級プログラムピクチャーだった。

●「ゲーリー・クーパーとの恋に破れた女優」の自伝

僕がパトリシア・ニールという女優を意識したのは、1990年の春に「真実」という彼女の自伝の翻訳が新潮社から出たからである。その自伝は評判がよく、様々な書評で取り上げられた。決まって「ゲーリー・クーパーとの恋に破れた女優」という紹介だったが、それは仕方のないことだったかもしれない。

本の帯には「私は情熱的な恋愛をしました。しかし人生はそれ以上のものであるはず…」とキャッチコピーが大きく入り、「ゲーリー・クーパーとの恋、ロアルド・ダールとの結婚が残した『真実』」と小さく書かれている。パトリシア・ニールという名前は多くの人が知っているわけではない。ゲーリー・クーパーの恋の相手として版元は売りたかったのだろう。

その前書きで、パトリシア・ニールは自伝を書くきっかけになったある女性との出逢いを語っている。その女性はゲーリー・クーパーの娘、マリア・クーパーである。パトリシア・ニールは臆面もなくこう語る。

──わたしたちふたりを結びつけている絆は、わたしの心の中にも彼女の心の中にも生きている、ひとりの人だった。その最愛の人の名前は、ゲーリー・クーパー。彼との出会いは、わたしの人生の、この上なく素晴らしい出来事のひとつだった。わたしは今でも彼を愛している。

自伝の原書が発行されたのが1988年。三十年連れ添ったロアルド・ダールと離婚した五年後であり、ゲーリー・クーパーが死んでから二十七年が過ぎている。彼女が彼を恋してからだと四十年近い月日が流れていた。それでもパトリシア・ニールはそう書くのだ。長い年月がゲーリー・クーパーとの苦しい恋を美しい想い出に変えたのかもしれない。

妻子があり、すでに大スターだったゲーリー・クーパーは、ブロードウェイからやってきた娘ほども歳の違う新人女優に恋をする。ふたりは人目を忍んで逢瀬を重ねる。やがて彼女が妊娠し、ふたりは中絶という途を選ぶ。しかし、ふたりの関係はゲーリー・クーパーの妻の知るところとなり、ハリウッド中に広まってしまう。

パトリシア・ニールは、その頃、まだ二十代の前半だった。そんな時期に辛く、そして運命的な恋をすると、人は生涯をかけてそのことの意味を問い続けるのかもしれない。だが、そんなこだわりが彼女の人生における本来の意味以上のものにそれを変質させていったのではあるまいか。

二十歳でハリウッドに招かれたシンデレラ・ガールは、六年間に多数の映画に出演し、傷心からかハリウッドを後にして再びブロードウェイに戻る。ロアルド・ダールと出逢い、結婚する。結婚は三十年続くことになるのだが、やがて破局を迎える。

●人生の苦汁をなめた女の言葉

ロアルド・ダール三十六歳、パトリシア・ニール二十七歳。ふたりが結婚した歳である。二年後、長女が生まれ、続けて次女が生まれる。その数年後、長男が生まれる。長男を出産した後、あの「ティファニーで朝食を」に出演する。だが、彼女の不幸はここから始まる。

まず、生後四カ月の長男が乳母車と共に自動車にはねられる。長男は頭部に損傷を負い、三十カ月の間に八回も手術をすることになる。その二年後、長女が七歳で病死する。幼い子を亡くした母親ほど不幸な存在はこの世にはない。深い悲しみが彼女を襲う。

だが、長女の死と引き替えのように、ハリウッドから離れていた彼女にひとつのオファーがくる。ニューヨークのアクターズ・スタジオ時代から知っていたマーティン・リット監督からの依頼である。

──また映画の仕事ができるのかと思うと、わたしのエンジンは作動を始めたが、マーティーの仕事なら、きっとなにかいいことがあると確信した。台本のタイトルは「ハッド・バノン」となっていた。

ハッドその映画は「ハッド」(1963年)として公開される。パトリシア・ニールが演じた牧場のメイドのアルマは出番は少ないが、印象的な役だった。それに「ハッド」には女優は彼女しか出ない。翌年、パトリシア・ニールはニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞に続き、アカデミー主演女優賞を受賞する。

それは長女の死の悲しみから抜け出せないパトリシア・ニールに与えられた、神の慰めだったのかもしれない。妊娠していた彼女は授賞式には出られなかったが、その夜は女優パトリシア・ニールにとって人生最大のハイライトになった。イギリスの自宅で受賞の連絡を受けた彼女は、ロンドンでの記者会見に着ていく洋服をクローゼットの中で探す。

──わたしの手は懐かしいコートに止まった。取り出して、袖を通した。今見ても素晴らしいもので、お腹の大きいわたしの体を優雅に覆ってくれた。十二年前、ゲーリーが玄関に置いて帰ったミンクのコートだった。

それは女優として最高の栄誉を手にしたことを確認する記者会見というハレの場に、ゲーリー・クーパーと共に出たいという彼女の願望の現れだったのだろうか。だが、自分の妻がそういう想いを抱き続けていることを知った夫の感情は波立つ。彼女の夫は、残酷なほどの人間観察の名手であるロアルド・ダールなのだ。

その年の五月、四人目の子を彼女は出産する。長女の死も遠い過去のことになりつつあった。オットー・プレミンジャー監督作品に続いて巨匠ジョン・フォード監督の「荒野の女たち」のオファーがくる。だが、そのとき、彼女は五人目の子を身ごもっていた。

不幸が再び彼女を襲う。脳卒中で倒れるのだ。ある新聞は彼女の死亡記事まで載せる有様だった。七時間の手術の後、彼女は生還する。しかし「荒野の女たち」の役はアン・バンクロフトに代わり、ジョン・フォード映画への出演はついに実現しない。「荒野の女たち」はフォード最後の作品になってしまったからである。

歓喜の記憶であれ、悲惨な記憶であれ、何か強い想いにとらわれて生きることは人を幸せにしないのではないか。「真実」という自伝を読んだ僕はそう思う。悲恋に終わったために、彼女は生涯ゲーリー・クーパーの呪縛から逃れられなかった。人は、忘れ、諦め、今を懸命に生きる他ないのだ。

「ハッド」で彼女が演じたアルマは人生の苦汁をなめ、いつも瞳にシニカルな光を宿している。生きることに幻滅し、何の夢も持っていない。人生を諦めているわけではないが、何かを投げているように見える。ある夜、ハッドの甥のロンはアルマに「人生とは一体何なのか」と聞く。

──それはね…、ほかの人に聞くんだね。

その言葉の中に、アルマの過ごしてきた人生が込められていた。人に語れるような人生ではなかった。振り返りたくもない。だから、青年の問いかけに答えないことが、彼女の優しさなのだった。しかし、彼女自身は今を懸命に生きようとしている…。そんなアルマの存在感をパトリシア・ニールは感じさせてくれたのだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
ある人が柴田編集長経由で鴨志田穣さんの訃報を知らせてくれた。去年、朝日新聞の書評欄で初めての小説が紹介されたばかりだった。その後、彼自身の写真入りで記事も出た。西原理恵子さんや子どもたちともう一度やり直すような話も聞いた矢先だった。四十二歳だったという。ご冥福を祈ります。

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