●大沢在昌さんのブログにアクセスする
大沢在昌さんと京極夏彦さんと宮部みゆきさんの三人が所属する「大沢オフィス」が開設している「大極宮」というサイトがある。その中に週刊「大極宮」という三人のブログがあり、一週間に一度更新されている。
< http://www.osawa-office.co.jp/weekly/weekindex.html
>
三月三十一日に熱海で行われた第25回日本冒険小説協会全国大会に参加して帰った翌日、大沢在昌さんのコーナーを覗いてみたら、「三月三十一日、熱海方面で何かあるらしい」という思わせぶりな文章が載っていて「詳細は後日」となっていた。
四月六日の金曜日が更新日だったので、翌日の土曜日に僕はアクセスしてみた。そこには「第25回日本冒険小説協会・日本軍大賞」を受賞したことがレポートされていた。その後、特別賞を受賞した僕の本のことが紹介され、オタク話に花が咲いたことが書かれている。その盛り上がっているときの大沢さんと僕の写真も載っていた。
大沢在昌さんと京極夏彦さんと宮部みゆきさんの三人が所属する「大沢オフィス」が開設している「大極宮」というサイトがある。その中に週刊「大極宮」という三人のブログがあり、一週間に一度更新されている。
< http://www.osawa-office.co.jp/weekly/weekindex.html
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三月三十一日に熱海で行われた第25回日本冒険小説協会全国大会に参加して帰った翌日、大沢在昌さんのコーナーを覗いてみたら、「三月三十一日、熱海方面で何かあるらしい」という思わせぶりな文章が載っていて「詳細は後日」となっていた。
四月六日の金曜日が更新日だったので、翌日の土曜日に僕はアクセスしてみた。そこには「第25回日本冒険小説協会・日本軍大賞」を受賞したことがレポートされていた。その後、特別賞を受賞した僕の本のことが紹介され、オタク話に花が咲いたことが書かれている。その盛り上がっているときの大沢さんと僕の写真も載っていた。
大沢在昌さんとどれくらいの時間、話していたか僕は記憶にないのだが「時を忘れて…」というほど楽しい時間だった。最初は主にフランスのフィルム・ノアールの話をしていたように思う。「さらば友よ」「サムライ」「冒険者たち」「仁義」「リスボン特急」「穴」「生き残った者の掟」…などなどである。
そのとき、大沢さんの小説についても創作の裏話を聞くことができた。たとえば、「悪党パーカー」シリーズに「殺人遊園地」という小説があるのだが、大沢さんのアルバイト探偵(アイ)シリーズに「拷問遊園地」というのがあり、それは「悪党パーカー」へのオマージュだということなどである。
僕は大沢在昌さんの小説を二十五年ほど前から読んでいる。もっとも、そんなに熱心な読者ではなかった。「深夜曲馬団」は1985年に出た短編集で、第四回日本冒険小説協会・最優秀短編賞を受賞しているが、僕は「深夜曲馬団」を雑誌掲載時に読んだ記憶がある。
大沢さんは、1979年に「感傷の街角」で「小説推理新人賞」を受賞し、そのまま作家になった人である。二十三歳の新人作家だった。僕はその「感傷の街角」も読んでいる。しかし、大沢さん本人が「永久初版作家と言われていた頃」と言うように十年間は売れない作家だった。
1989年に「氷の森」が出る。これは当時、かなり評判になったことを覚えている。今では「『新宿鮫』の原点」と言われる作品だ。しかし、僕は読んでいない。その頃、僕は冒険小説やハードボイルド小説から少し距離を置いていた。もちろん出れば必ず読む作家はいたが、多くは海外作家だった。僕はデビュー当時から熱心に読んでいた北方謙三さんや志水辰夫さんさえ、あまり読まなくなっていた。
●「新宿鮫」を初めて読んだ頃
1990年の秋のことだった。イラクがクウェートを占領し、湾岸危機が高まっていた頃かもしれない。その頃、僕も個人的に危機を迎えていた。焦燥感に絶え間なく襲われていた。何かに追われるように日々の仕事をこなしていた。環境の激変に馴れることができず、今までの人脈も使えず、ただ意地だけで走っていた。
そんな頃、本と映画が好きな友人のTから電話がかかってきた。Tは「大沢の『新宿鮫』を読んだか」と言う。「読んでいない」と答えると、彼は「絶対読め。大沢が化けた」と言った。当時、彼はアルバイトで五味康祐の文庫本の解説を書いたり、「本の雑誌」に原稿を書いたりしていた関係で情報は早かった。
現在、発売になっている「新宿鮫」の光文社文庫版の解説は文芸評論家の北上次郎さんが書いているが、そこにも「まさしく『化けた』としか言いようがない」と書かれている。Tは、その頃、「本の雑誌」発行人である目黒考二さんとも会っていたから、「大沢が化けた」という言い方は目黒さんなどが言っていたのかもしれない。
もちろん僕はすぐに「新宿鮫」を買った。読み始めた。止まらなくなった。一気に読了した。それまでの大沢在昌作品とは、やはり何かが違っていた。大沢さんの作品はデビュー作の「感傷の街角」のように多くは一人称の物語だった。ハードボイルド私立探偵小説の王道である。しかし、「新宿鮫」は三人称で書かれていた。
──悲鳴は、鮫島が脱いだジーンズとポロシャツをたたんでいるときに聞こえた。鮫島は一瞬手を止めたが、ロッカーの扉を閉め、鍵をかけた。
冒頭の一文は鮮やかだった。三人称でなければできない描写が続く。鮫島の内面は隠されることもある。たとえば、冒頭のシーンに続いて、鮫島はある男とのトラブルに巻き込まれるのだが、そのとき相手の正体について「鮫島は、男の職業に見当がついた。やくざではない。やくざならば、こうしたやりとりをする前に、手がでている」と記述される。
これは一種のじらしであり、読者は何となく予想しながらも、この後、男が警察手帖を取り出すところで意外感を味わえる。また、三人称にしたことで、鮫島ではなく「彼」と呼ばれる謎の男の行動を描く章を挟み込めるのである。そのことによってサスペンスが盛り上がる。「鮫島」側からの章では警察小説となり、「彼」の章では一種の倒述ミステリとなるのだ。
三人称を採用したことで、二作目の「新宿鮫・毒猿」は一作目を上回る傑作になった。「新宿鮫・毒猿」では、鮫島の登場する章の間に中国人の殺し屋・毒猿の章を挟み込み、どちらかというと鮫島は脇にまわっている。ラストの新宿御苑での毒猿の死闘は「今度は戦争だ」という「エイリアン2」(1986年)のキャッチフレーズを思い出す。
大沢さんによれば「『新宿鮫』の評判がよくて、二部、三部と続けるときに考えたのが『エイリアン』シリーズだった」という。「エイリアン」(1979年)はホラーだったが、「エイリアン2」はアクション映画になった。そんな工夫が「新宿鮫」シリーズの人気を保っているのだろう。
「新宿鮫」シリーズの以前に大沢さんが三人称で書いた小説はあまり記憶にない。少なくともデビュー作の主人公である失踪人探しの名人、佐久間公シリーズは一人称であり、アルバイト探偵(アイ)シリーズも一人称だった。それは正統派ハードボイルドを継承しようとする大沢さんのこだわりだったのかもしれない。
●上司の在り方を学んだ「眠らない街 新宿鮫」
ベストセラー「新宿鮫」は「眠らない街 新宿鮫」として、1993年の十月九日に映画が公開になった。監督は、その年の三月に「僕らはみんな生きている」という痛快な作品を発表していた滝田洋二郎だった。脚色は荒井晴彦。主演は「僕らはみんな生きている」と同じく真田広之である。
翌年、「眠らない街 新宿鮫」と「僕らはみんな生きている」によって、真田広之は「キネマ旬報日本映画主演男優賞」を受賞する。ただ作品の評価は「僕らはみんな生きている」は五位だったが、「眠らない街 新宿鮫」は十四位だった。その年は崔洋一監督の「月はどっちに出ている」が日本映画界を席巻したのだった。
「新宿鮫」を初めて読んだ1990年の秋、僕が小説以外に読んでいた本は「部下を育てる上司」とか「こんな上司になれ」とか「上手な部下の叱り方」などだった。その年の九月、僕はまったく初めての分野である創刊したばかりのビデオ雑誌に編集長として異動になり、初めてスタッフを抱える身になっていた。
何事も本から学ぼうとする僕は、そんな実用書をいっぱい読んでいたのだが、それはスタッフが思うように動いてくれないことに苛立っていたからだ。創刊を担当したスタッフからは「ビデオの素人に何ができるか」と言われながら、会社から任された新しい雑誌を何とかしなければならない(というより見返してやりたい)意地があり、そのことで余計に焦っていたのだと思う。
そんなときに我を忘れて読んだ「新宿鮫」の中で最も印象的だったのは、桃井という鮫島の上司の存在だった。桃井は子供を事故で亡くし、そのことが原因で離婚し、今は死んだような無気力な課長として登場する。影の薄い存在で、かつて有能だと言われた面影は微塵もない。警察用語で死体のことを呼ぶ「まんじゅう」と陰口を叩かれる男である。
新宿署防犯課の鮫島は、キャリアとして警察庁に入り将来が約束されていたが、ある事件をきっかけにエリートコースから外れ、一警部として勤務している。署では煙たがられる存在で、相棒はおらず単独行動で捜査を進める。そんな鮫島に対しても桃井はまったく無関心である。
だが、鮫島が最大の危機に陥ったとき、救出に現れたのは桃井だった。僕にはその場面が「新宿鮫」で最も印象的だった。桃井が無関心のように見えたのは、彼が部下である鮫島を信頼していたからであり、本当に部下が救いを求めているときには最も頼りになる上司だったのだ。以来、鮫島も桃井に絶対的な信頼を寄せ、シリーズの重要な脇役となった。
当時の僕は、どんなことからでも教訓を得ようとしていた。それほど、スタッフワークに悩んでいたのだと思う。僕は部下を信頼して任せなくてはよい関係など生まれない、と桃井から学んだのだ。そのためには、我慢しなければならないことは多い。熱い心は内側に隠せ、血気にはやるな、と言い聞かせた。
「眠らない街 新宿鮫」で桃井を演じたのは室田日出男だった。深作欣二監督の初期作品、そして「仁義なき戦い」やテレビドラマ「前略おふくろ様」などで僕は室田ファンになっていた。桃井に扮した室田日出男は、大きな躯を小さくして「まんじゅう」桃井を演じていた。
鮫島は拳銃密造犯の木津を追っているのだが、あるとき、逆に木津に捕らえられてしまう。監禁され痛めつけられる。木津はホモ・セクシャルである。鮫島は犯される危険に戦慄する。その木津を奥田瑛二が演じた。あれほど怖い奥田瑛二は見たことがなかった。不気味さを漂わせた木津を相手に、鮫島は心の底からの恐怖を見せる。
それは、他の刑事物にはなかったリアリティだった。鮫島は現実の刑事のようにほとんど発砲せず、特殊警棒を武器に犯罪者に立ち向かう。ときには恐怖におののき、死を怖れた己から解放されたいと願って恋人の胸にすがる。身を震わせる。嗚咽する。真田広之の代表作だと僕は思う。
「眠らない街 新宿鮫」を見てから十四年の時間が流れた。その姿から僕が何かを学んだ桃井役の室田日出男さんも今は亡い。六十四歳の早すぎた死だった。ちなみに、先日、古い日記を見ていたら、こんな記述が出てきた。
──1995年2月5日(日)雪のちに雨
責了して金曜日は夜に取材二件。夜九時近くに竹内敏信さんの事務所。その後、飲んで深夜に帰宅。昨日は車に乗りまくる。しかし、「新宿鮫・無間人形」を読了。本日も車で走る。明日から多忙。
四作目の「無間人形」が出た頃は僕もスタッフを抱えることに馴れていたのかもしれない。免許を所得して車で走りまわっていたし、仕事も順調に動いていた。その頃の日記からは、もう焦燥感は感じられなかった。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
第25回日本冒険小説協会大賞には、作品名と名前を刻んだコルト・ガバメントが副賞としてもらえる。僕のガバメントは刻印が間に合わず、後から送って貰えることになった。ディック・フランシスと大沢在昌さんと僕しか持っていないモデルガンだ。早くこいこい、と首を長くしている。
■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
第25回日本冒険小説協会「最優秀映画コラム賞」受賞
完全版「映画がなければ生きていけない」発売中
< http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
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そのとき、大沢さんの小説についても創作の裏話を聞くことができた。たとえば、「悪党パーカー」シリーズに「殺人遊園地」という小説があるのだが、大沢さんのアルバイト探偵(アイ)シリーズに「拷問遊園地」というのがあり、それは「悪党パーカー」へのオマージュだということなどである。
僕は大沢在昌さんの小説を二十五年ほど前から読んでいる。もっとも、そんなに熱心な読者ではなかった。「深夜曲馬団」は1985年に出た短編集で、第四回日本冒険小説協会・最優秀短編賞を受賞しているが、僕は「深夜曲馬団」を雑誌掲載時に読んだ記憶がある。
大沢さんは、1979年に「感傷の街角」で「小説推理新人賞」を受賞し、そのまま作家になった人である。二十三歳の新人作家だった。僕はその「感傷の街角」も読んでいる。しかし、大沢さん本人が「永久初版作家と言われていた頃」と言うように十年間は売れない作家だった。
1989年に「氷の森」が出る。これは当時、かなり評判になったことを覚えている。今では「『新宿鮫』の原点」と言われる作品だ。しかし、僕は読んでいない。その頃、僕は冒険小説やハードボイルド小説から少し距離を置いていた。もちろん出れば必ず読む作家はいたが、多くは海外作家だった。僕はデビュー当時から熱心に読んでいた北方謙三さんや志水辰夫さんさえ、あまり読まなくなっていた。
●「新宿鮫」を初めて読んだ頃
1990年の秋のことだった。イラクがクウェートを占領し、湾岸危機が高まっていた頃かもしれない。その頃、僕も個人的に危機を迎えていた。焦燥感に絶え間なく襲われていた。何かに追われるように日々の仕事をこなしていた。環境の激変に馴れることができず、今までの人脈も使えず、ただ意地だけで走っていた。
そんな頃、本と映画が好きな友人のTから電話がかかってきた。Tは「大沢の『新宿鮫』を読んだか」と言う。「読んでいない」と答えると、彼は「絶対読め。大沢が化けた」と言った。当時、彼はアルバイトで五味康祐の文庫本の解説を書いたり、「本の雑誌」に原稿を書いたりしていた関係で情報は早かった。
現在、発売になっている「新宿鮫」の光文社文庫版の解説は文芸評論家の北上次郎さんが書いているが、そこにも「まさしく『化けた』としか言いようがない」と書かれている。Tは、その頃、「本の雑誌」発行人である目黒考二さんとも会っていたから、「大沢が化けた」という言い方は目黒さんなどが言っていたのかもしれない。
もちろん僕はすぐに「新宿鮫」を買った。読み始めた。止まらなくなった。一気に読了した。それまでの大沢在昌作品とは、やはり何かが違っていた。大沢さんの作品はデビュー作の「感傷の街角」のように多くは一人称の物語だった。ハードボイルド私立探偵小説の王道である。しかし、「新宿鮫」は三人称で書かれていた。
──悲鳴は、鮫島が脱いだジーンズとポロシャツをたたんでいるときに聞こえた。鮫島は一瞬手を止めたが、ロッカーの扉を閉め、鍵をかけた。
冒頭の一文は鮮やかだった。三人称でなければできない描写が続く。鮫島の内面は隠されることもある。たとえば、冒頭のシーンに続いて、鮫島はある男とのトラブルに巻き込まれるのだが、そのとき相手の正体について「鮫島は、男の職業に見当がついた。やくざではない。やくざならば、こうしたやりとりをする前に、手がでている」と記述される。
これは一種のじらしであり、読者は何となく予想しながらも、この後、男が警察手帖を取り出すところで意外感を味わえる。また、三人称にしたことで、鮫島ではなく「彼」と呼ばれる謎の男の行動を描く章を挟み込めるのである。そのことによってサスペンスが盛り上がる。「鮫島」側からの章では警察小説となり、「彼」の章では一種の倒述ミステリとなるのだ。
三人称を採用したことで、二作目の「新宿鮫・毒猿」は一作目を上回る傑作になった。「新宿鮫・毒猿」では、鮫島の登場する章の間に中国人の殺し屋・毒猿の章を挟み込み、どちらかというと鮫島は脇にまわっている。ラストの新宿御苑での毒猿の死闘は「今度は戦争だ」という「エイリアン2」(1986年)のキャッチフレーズを思い出す。
大沢さんによれば「『新宿鮫』の評判がよくて、二部、三部と続けるときに考えたのが『エイリアン』シリーズだった」という。「エイリアン」(1979年)はホラーだったが、「エイリアン2」はアクション映画になった。そんな工夫が「新宿鮫」シリーズの人気を保っているのだろう。
「新宿鮫」シリーズの以前に大沢さんが三人称で書いた小説はあまり記憶にない。少なくともデビュー作の主人公である失踪人探しの名人、佐久間公シリーズは一人称であり、アルバイト探偵(アイ)シリーズも一人称だった。それは正統派ハードボイルドを継承しようとする大沢さんのこだわりだったのかもしれない。
●上司の在り方を学んだ「眠らない街 新宿鮫」
ベストセラー「新宿鮫」は「眠らない街 新宿鮫」として、1993年の十月九日に映画が公開になった。監督は、その年の三月に「僕らはみんな生きている」という痛快な作品を発表していた滝田洋二郎だった。脚色は荒井晴彦。主演は「僕らはみんな生きている」と同じく真田広之である。
翌年、「眠らない街 新宿鮫」と「僕らはみんな生きている」によって、真田広之は「キネマ旬報日本映画主演男優賞」を受賞する。ただ作品の評価は「僕らはみんな生きている」は五位だったが、「眠らない街 新宿鮫」は十四位だった。その年は崔洋一監督の「月はどっちに出ている」が日本映画界を席巻したのだった。
「新宿鮫」を初めて読んだ1990年の秋、僕が小説以外に読んでいた本は「部下を育てる上司」とか「こんな上司になれ」とか「上手な部下の叱り方」などだった。その年の九月、僕はまったく初めての分野である創刊したばかりのビデオ雑誌に編集長として異動になり、初めてスタッフを抱える身になっていた。
何事も本から学ぼうとする僕は、そんな実用書をいっぱい読んでいたのだが、それはスタッフが思うように動いてくれないことに苛立っていたからだ。創刊を担当したスタッフからは「ビデオの素人に何ができるか」と言われながら、会社から任された新しい雑誌を何とかしなければならない(というより見返してやりたい)意地があり、そのことで余計に焦っていたのだと思う。
そんなときに我を忘れて読んだ「新宿鮫」の中で最も印象的だったのは、桃井という鮫島の上司の存在だった。桃井は子供を事故で亡くし、そのことが原因で離婚し、今は死んだような無気力な課長として登場する。影の薄い存在で、かつて有能だと言われた面影は微塵もない。警察用語で死体のことを呼ぶ「まんじゅう」と陰口を叩かれる男である。
新宿署防犯課の鮫島は、キャリアとして警察庁に入り将来が約束されていたが、ある事件をきっかけにエリートコースから外れ、一警部として勤務している。署では煙たがられる存在で、相棒はおらず単独行動で捜査を進める。そんな鮫島に対しても桃井はまったく無関心である。
だが、鮫島が最大の危機に陥ったとき、救出に現れたのは桃井だった。僕にはその場面が「新宿鮫」で最も印象的だった。桃井が無関心のように見えたのは、彼が部下である鮫島を信頼していたからであり、本当に部下が救いを求めているときには最も頼りになる上司だったのだ。以来、鮫島も桃井に絶対的な信頼を寄せ、シリーズの重要な脇役となった。
当時の僕は、どんなことからでも教訓を得ようとしていた。それほど、スタッフワークに悩んでいたのだと思う。僕は部下を信頼して任せなくてはよい関係など生まれない、と桃井から学んだのだ。そのためには、我慢しなければならないことは多い。熱い心は内側に隠せ、血気にはやるな、と言い聞かせた。
「眠らない街 新宿鮫」で桃井を演じたのは室田日出男だった。深作欣二監督の初期作品、そして「仁義なき戦い」やテレビドラマ「前略おふくろ様」などで僕は室田ファンになっていた。桃井に扮した室田日出男は、大きな躯を小さくして「まんじゅう」桃井を演じていた。
鮫島は拳銃密造犯の木津を追っているのだが、あるとき、逆に木津に捕らえられてしまう。監禁され痛めつけられる。木津はホモ・セクシャルである。鮫島は犯される危険に戦慄する。その木津を奥田瑛二が演じた。あれほど怖い奥田瑛二は見たことがなかった。不気味さを漂わせた木津を相手に、鮫島は心の底からの恐怖を見せる。
それは、他の刑事物にはなかったリアリティだった。鮫島は現実の刑事のようにほとんど発砲せず、特殊警棒を武器に犯罪者に立ち向かう。ときには恐怖におののき、死を怖れた己から解放されたいと願って恋人の胸にすがる。身を震わせる。嗚咽する。真田広之の代表作だと僕は思う。
「眠らない街 新宿鮫」を見てから十四年の時間が流れた。その姿から僕が何かを学んだ桃井役の室田日出男さんも今は亡い。六十四歳の早すぎた死だった。ちなみに、先日、古い日記を見ていたら、こんな記述が出てきた。
──1995年2月5日(日)雪のちに雨
責了して金曜日は夜に取材二件。夜九時近くに竹内敏信さんの事務所。その後、飲んで深夜に帰宅。昨日は車に乗りまくる。しかし、「新宿鮫・無間人形」を読了。本日も車で走る。明日から多忙。
四作目の「無間人形」が出た頃は僕もスタッフを抱えることに馴れていたのかもしれない。免許を所得して車で走りまわっていたし、仕事も順調に動いていた。その頃の日記からは、もう焦燥感は感じられなかった。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
第25回日本冒険小説協会大賞には、作品名と名前を刻んだコルト・ガバメントが副賞としてもらえる。僕のガバメントは刻印が間に合わず、後から送って貰えることになった。ディック・フランシスと大沢在昌さんと僕しか持っていないモデルガンだ。早くこいこい、と首を長くしている。
■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
第25回日本冒険小説協会「最優秀映画コラム賞」受賞
完全版「映画がなければ生きていけない」発売中
< http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
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