●二十九年前の春に封切られた一本の映画
調べてみると一九七八年の四月八日に、その映画は公開されていた。東映セントラルフィルムの第一回制作作品である。
東映セントラルフィルムは後に「泥の河」(1981年)や「竜二」(1983年)といった自主制作された作品の配給も手掛けるが、最初はB級アクション映画の制作からスタートした。僕が子供の頃、東映は第二東映を立ち上げて制作本数増をはかり低予算の映画ばかり作ったが、そんな中から深作欣二監督も登場した。東映セントラルフィルムのB級作品群にも名作は何本もあったのだ。
僕が東映セントラルフィルムで宣伝広報を担当していたNさんと知り合うのは、「泥の河」の公開が決まったときに、監督の小栗康平さんにインタビューを申し込んだからだった。「泥の河」は配給先が決まらないまま青山の草月ホールで完成試写を行い、僕はそのときに見ていた。東映セントラルフィルムでの公開が決まったのは、それから数カ月後のことだ。
調べてみると一九七八年の四月八日に、その映画は公開されていた。東映セントラルフィルムの第一回制作作品である。
東映セントラルフィルムは後に「泥の河」(1981年)や「竜二」(1983年)といった自主制作された作品の配給も手掛けるが、最初はB級アクション映画の制作からスタートした。僕が子供の頃、東映は第二東映を立ち上げて制作本数増をはかり低予算の映画ばかり作ったが、そんな中から深作欣二監督も登場した。東映セントラルフィルムのB級作品群にも名作は何本もあったのだ。
僕が東映セントラルフィルムで宣伝広報を担当していたNさんと知り合うのは、「泥の河」の公開が決まったときに、監督の小栗康平さんにインタビューを申し込んだからだった。「泥の河」は配給先が決まらないまま青山の草月ホールで完成試写を行い、僕はそのときに見ていた。東映セントラルフィルムでの公開が決まったのは、それから数カ月後のことだ。
Nさんは、その後、浅尾政行監督の「とりたての輝き」(1981年)の宣伝広報も担当していて、「取材してくれませんか」と電話がかかってきた。「とりたての輝き」はそれなりに面白かったので、僕はインタビューし三頁の記事を書いた。中上健次の短編を柳町光男が監督した「十九歳の地図」(1979年)で主演した本間優二の主演だった。
その後、Nさんとは何度か呑んだり、時々、連絡がくるといった関係だったが、そのうち連絡も途絶えるようになった。再会したのは、十年近く後のことだ。僕はビデオ雑誌の編集部に移っており、あるとき東映からレンタルビデオ店に配給するオリジナルビデオ「Vシネマ」の制作発表の案内が届いた。その発表会場にNサンがいたのだ。
ホテルのホールを借り切った会場でVシネマのラインナップが発表され、主演を予定されている俳優や監督たちが揃っていた。その後、パーティになり、以前に取材した長崎俊一監督や池田敏春監督などに挨拶し壁際で立っていると、目の前に小柄だがやたらにカッコイイ男がいた。その頃は俳優が仕事の中心になっていた世良公則だった。
そんな僕を見付けてNさんが近寄ってきた。「やあやあ、久しぶり」という感じで手を挙げる。しばらくは互いに今の仕事について話をした。Nさんは僕がビデオ雑誌の編集長だと知ると、「ちょうどいいや」とつぶやき東映が販促に配るパンフレットに載せるコラム原稿を書いてくれないかと言う。八百字程度の短文なので、僕も気軽に引き受けた。
その原稿を銀座の東映本社まで届けたとき、Nさんに誘われて有楽町駅に近い小さな居酒屋で久しぶりに酒を呑んだ。そのときに僕は東映セントラルフィルムの第一回制作作品の映画について質問をしたのである。その映画の主演俳優は亡くなって数年経っていたが、死んでなお人気は衰えなかった。
その俳優がガンで死んだのは、一九八九年十一月六日のことだった。翌日、テレビも新聞もその死を大きく報じた。僕も少なからずショックを受けた。その少し前に公開されたハリウッド映画で彼は悪役を演じ、その圧倒的な存在感が評判になっていた。彼は、国際俳優へのスタートを切ったばかりだったのだ。
Nさんは僕の質問に答えて「あの映画の現場は大変だったんですよ」と言った。僕も噂は聞いていた。ある大手のCM制作会社のプロダクションマネージャーは「あの人はディレクターがOK出すと『OKは俺が出す』と怒るんです。現場は大変でした」と言っていた。彼は何本かのCMにも出演していた。
●机の上に飾ってあったライフルを持つ男の写真
一九七八年、僕は社会人になって三年が過ぎていた。今から思うと、まだまだ学生気分が抜けていなかった。若くて周りが見えていなかった。何かに拘泥し、他人の価値観を認めることができなかった。その分、自分の価値観とフィットする相手に出逢うと、それ以外の違いに気付かず夢中になった。
その頃、僕は会社の机にその映画の主演男優のスチルを飾っていた。長身だった。長い脚をジーンズに包み、ブーツを履いている。革のジャケットを身につけてスコープ付きのライフルを抱えていた。彼が演じていたのは「最も危険な遊戯」という映画の主人公、鳴海昌平という殺し屋である。
その頃の僕は彼が演じるヒーローに何かを託していたのかもしれない。それは若い時期に特有の鬱屈のようなものだった。夢が夢でしかないと思い知らされた恨み、それでも夢を諦めきれない未練、そんなものを吹っ切るための何か…、そんな訳のわからない想いを僕はスクリーンで拳銃を撃ちまくる殺し屋に託していた。
その映画のタイトルはギャビン・ライアルの小説「もっとも危険なゲーム」の借用だと誰にでもわかったが、だからこそワクワクしたのである。脚本は日活時代からアクション映画の名作を書いていた永原秀一だった。「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)という宍戸錠主演で名作の誉れ高い殺し屋映画の脚本家である。
「大都会 闘いの日々」というテレビドラマが放映されていたのは、一九七六年の一月から八月までだった。脚本は倉本聰である。暴力団担当の警視庁四課(マル暴)を舞台にしたシリアスなドラマだった。病気から回復したばかりの渡哲也の主演で、アクションより人間ドラマを主体にしていた。
その中に今では伝説になった「協力者」という回がある。監督は村川透だった。マル暴への情報提供者が殺され、弟の暴力団幹部が敵を討とうとする話である。ラストシーン、逮捕された暴力団幹部は取調室で、それまでずっと掛けていたサングラスを外す。彼の片目は潰れている。そのまま画面はホワイトアウトする…
その暴力団幹部を演じたのがゲスト出演した若き日の彼だった。僕も夢中で読んだ平井和正の人気小説「ウルフガイ・シリーズ」を映画化した「狼の紋章」(1973年)の仇役の高校生でデビューした彼は、同じ年に「太陽にほえろ」というテレビドラマのジーパン刑事に抜擢され、一躍、人気を獲得する。
だが、夜八時台のドラマで演じた好青年役を「何じゃ、こりゃ」と叫びながら死ぬことで降りた彼は、複雑で困難な役に挑戦し続ける。一九七七年の四月からは「大都会PART2」が放映になり、渡哲也の相棒の刑事としてレギュラーになった彼は独特のアドリブと不思議なニュアンスの演技で人気を得ていく。それは翌年の三月まで続いた。
「大都会PART2」の脚本を書いていたのが永原秀一だった。その永原秀一と村川透監督と組んで作り上げたのが東映セントラルフィルム第一回作品「最も危険な遊戯」である。彼が演じた鳴海昌平はユーモラスで、なおかつクールだった。俊敏な動きが魅力的だった。シャープな動きを長回しのキャメラワークで描いた村川監督の手腕も評価された。
だが、彼はまだメジャーではなかった。同僚の中には僕の机の上の彼の写真を見て「これ誰?」と聞く人もいたし、「君は男が好きなのか」と不思議そうに言う人もいた。
●ハリウッド映画で実力を示して死んだ俳優
「遊戯」シリーズは「殺人遊戯」(1978年)「処刑遊戯」(1979年)と三作続いて終了した。必ず挿入されるアジトで体を鍛えたり裸のまま銃身の長いショルダーホルスターをつけ拳銃を素早く抜く練習をする場面は、明らかに「タクシードライバー」(1976年)のロバート・デ・ニーロの影響だったが、そんなことは関係なく長身の彼に銃身の長いマグナム44のリボルバーは似合った。
その鳴海昌平のキャラクターの延長のようなテレビシリーズ「探偵物語」が始まったのは、一九七九年九月のことだ。「大都会PART3」を最後に石原プロが日本テレビからテレビ朝日に乗り換えたために、彼を使って穴埋め番組を作らざるを得なかったのである。石原プロは「大都会PART3」と同内容の「西部警察」をテレビ朝日で始めたのだ。
殺し屋から探偵へと役柄は変わったが、「遊戯」シリーズの鳴海昌平は明らかに工藤俊作に継承されていた。あらかじめ書かれたものなのかアドリブなのか見分けのつかないセリフまわし、突然挟み込まれる楽屋落ち、長身を生かしたダイナミックなアクションと切れのよい動き…、それらは彼自身の個性として完全に定着した。
テレビシリーズ「探偵物語」の放映は一九七九年九月十八日から一九八〇年四月一日だったが、その前後の主演作には角川映画の「甦える金狼」(1979年)と「野獣死すべし」(1980年)がある。どちらも監督は村川透、脚本は「甦える金狼」が永原秀一、「野獣死すべし」が丸山昇一だった。「処刑遊戯」で脚本家としてデビューした丸山昇一は「探偵物語」シリーズも何話か担当した。
今年のゴールデンウィークに僕は「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」「処刑遊戯」を見た。二十九年ぶりの再会だった。彼は「母さん、ぼくのあの帽子どこへいったんでしょうね」で有名になった角川映画の大作「人間の証明」(1977年)の棟居刑事で一時はメジャーになっていたのに、そちらの方向には進まずB級アクションの典型のような「遊戯」シリーズをのびのびと楽しそうに演じていた。
彼のアドリブ調のセリフ回しが原田芳雄の影響であるのは歴然だった。二十代半ばに「竜馬暗殺」(1974年)で原田芳雄と共演した彼はすっかり心酔し、そっくりな演技をするようになる。原田芳雄の自宅の隣りに引っ越すほどだった。「竜馬暗殺」と同じ年の「あばよダチ公」を見ると、本当に原田芳雄そっくりである。
だが、「遊戯」シリーズを経て「探偵物語」シリーズで彼は独自のキャラクターを確立する。シャープでクールだが、いつもふざけているようなキャラクターだ。とぼけていてユーモラスで、そのアドリブには何度も吹き出した。だが、ときにシリアスに演じる場面では言葉にできない何かが伝わってくる。
僕は今でも「探偵物語」の最終回で刺されて死んでいく彼の姿を思い出す。友人たちをひとり、またひとりと殺された工藤俊作は最後にあっけなく刺されて死ぬ。多くの人がマネをするジーパン刑事の「なんじゃ、こりゃ」と血まみれの手を見ながら叫ぶシーンより、ずっとずっと僕の中に刻まれている。「かつて俺にも友だちがいた…」と言いながら死んでいく工藤俊作の姿は、僕にとって決して忘れられない大切なものなのだ。
「探偵物語」シリーズの後、鈴木清順監督「陽炎座」(1981年)や森田芳光監督「家族ゲーム」(1983年)で新しい役柄に挑戦し高い評価を得た彼は、やがて映画のすべてを支配したくなったのかもしれない。「ア・ホーマンス」(1986年)では脚本を書き、自ら主演して監督を務めた。だが、その後、彼の主演作は激減する。
「ア・ホーマンス」以降、彼が出演したのは室町時代に舞台を移した吉田喜重監督作品「嵐が丘」(1988年)と深作欣二監督作品「華の乱」(1988年)しかない。残念ながら、どちらも失敗作だったと僕は思う。特に「嵐が丘」は、壮大な…、いや、壮絶な失敗作だった。
だが、今から振り返ると、彼はその頃、世界をめざしていたのだ。日本の映画界に見切りをつけていたのかもしれない。「エイリアン」(1979年)「ブレードランナー」(1982年)の人気監督リドリー・スコットの新作「ブラックレイン」(1989年)の予告編を見た僕は驚いた。しばらく映画でもテレビでも顔を見ていなかった彼が登場していたからだ。
彼は冷酷無比なヤクザを演じていた。昔気質のヤクザたちが怖れる何をするかわからない新興世代のヤクザだった。男の喉を無表情に掻き切り、主人公の刑事を挑発するように睨んでニヤリと笑う。酷薄ではない。冷血そのものの怪物だった。彼はまったくの別人として甦った。
だが、「ブラックレイン」が封切られたちょうど一ヶ月後、昭和が「平成」と改まった年の秋、彼の訃報が日本を駆け巡った。四十歳だった。机に彼の写真を飾っていた僕も勤めて十四年が過ぎ、俳優に思い入れたり何かを仮託することもなくなっていた。生活に追われて生きていた。「夢が実現しないのなら、夢見る力なんかほしくなかった」とつぶやく男になっていた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
第25回日本冒険小説協会大賞の大沢在昌さんとホントに対談することになり、大沢さんの本ばかり読んでいる。「新宿鮫」と「佐久間公」のシリーズはほぼ読んでいたが、その他のも読み始めたらやめられない。それでも著作は七十冊あり、まだ三十冊しか読んでいない。対談までに半分は読んでおきたいなあ。
■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店・ネット書店で発売中
第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました
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その後、Nさんとは何度か呑んだり、時々、連絡がくるといった関係だったが、そのうち連絡も途絶えるようになった。再会したのは、十年近く後のことだ。僕はビデオ雑誌の編集部に移っており、あるとき東映からレンタルビデオ店に配給するオリジナルビデオ「Vシネマ」の制作発表の案内が届いた。その発表会場にNサンがいたのだ。
ホテルのホールを借り切った会場でVシネマのラインナップが発表され、主演を予定されている俳優や監督たちが揃っていた。その後、パーティになり、以前に取材した長崎俊一監督や池田敏春監督などに挨拶し壁際で立っていると、目の前に小柄だがやたらにカッコイイ男がいた。その頃は俳優が仕事の中心になっていた世良公則だった。
そんな僕を見付けてNさんが近寄ってきた。「やあやあ、久しぶり」という感じで手を挙げる。しばらくは互いに今の仕事について話をした。Nさんは僕がビデオ雑誌の編集長だと知ると、「ちょうどいいや」とつぶやき東映が販促に配るパンフレットに載せるコラム原稿を書いてくれないかと言う。八百字程度の短文なので、僕も気軽に引き受けた。
その原稿を銀座の東映本社まで届けたとき、Nさんに誘われて有楽町駅に近い小さな居酒屋で久しぶりに酒を呑んだ。そのときに僕は東映セントラルフィルムの第一回制作作品の映画について質問をしたのである。その映画の主演俳優は亡くなって数年経っていたが、死んでなお人気は衰えなかった。
その俳優がガンで死んだのは、一九八九年十一月六日のことだった。翌日、テレビも新聞もその死を大きく報じた。僕も少なからずショックを受けた。その少し前に公開されたハリウッド映画で彼は悪役を演じ、その圧倒的な存在感が評判になっていた。彼は、国際俳優へのスタートを切ったばかりだったのだ。
Nさんは僕の質問に答えて「あの映画の現場は大変だったんですよ」と言った。僕も噂は聞いていた。ある大手のCM制作会社のプロダクションマネージャーは「あの人はディレクターがOK出すと『OKは俺が出す』と怒るんです。現場は大変でした」と言っていた。彼は何本かのCMにも出演していた。
●机の上に飾ってあったライフルを持つ男の写真
一九七八年、僕は社会人になって三年が過ぎていた。今から思うと、まだまだ学生気分が抜けていなかった。若くて周りが見えていなかった。何かに拘泥し、他人の価値観を認めることができなかった。その分、自分の価値観とフィットする相手に出逢うと、それ以外の違いに気付かず夢中になった。
その頃、僕は会社の机にその映画の主演男優のスチルを飾っていた。長身だった。長い脚をジーンズに包み、ブーツを履いている。革のジャケットを身につけてスコープ付きのライフルを抱えていた。彼が演じていたのは「最も危険な遊戯」という映画の主人公、鳴海昌平という殺し屋である。
その頃の僕は彼が演じるヒーローに何かを託していたのかもしれない。それは若い時期に特有の鬱屈のようなものだった。夢が夢でしかないと思い知らされた恨み、それでも夢を諦めきれない未練、そんなものを吹っ切るための何か…、そんな訳のわからない想いを僕はスクリーンで拳銃を撃ちまくる殺し屋に託していた。
その映画のタイトルはギャビン・ライアルの小説「もっとも危険なゲーム」の借用だと誰にでもわかったが、だからこそワクワクしたのである。脚本は日活時代からアクション映画の名作を書いていた永原秀一だった。「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)という宍戸錠主演で名作の誉れ高い殺し屋映画の脚本家である。
「大都会 闘いの日々」というテレビドラマが放映されていたのは、一九七六年の一月から八月までだった。脚本は倉本聰である。暴力団担当の警視庁四課(マル暴)を舞台にしたシリアスなドラマだった。病気から回復したばかりの渡哲也の主演で、アクションより人間ドラマを主体にしていた。
その中に今では伝説になった「協力者」という回がある。監督は村川透だった。マル暴への情報提供者が殺され、弟の暴力団幹部が敵を討とうとする話である。ラストシーン、逮捕された暴力団幹部は取調室で、それまでずっと掛けていたサングラスを外す。彼の片目は潰れている。そのまま画面はホワイトアウトする…
その暴力団幹部を演じたのがゲスト出演した若き日の彼だった。僕も夢中で読んだ平井和正の人気小説「ウルフガイ・シリーズ」を映画化した「狼の紋章」(1973年)の仇役の高校生でデビューした彼は、同じ年に「太陽にほえろ」というテレビドラマのジーパン刑事に抜擢され、一躍、人気を獲得する。
だが、夜八時台のドラマで演じた好青年役を「何じゃ、こりゃ」と叫びながら死ぬことで降りた彼は、複雑で困難な役に挑戦し続ける。一九七七年の四月からは「大都会PART2」が放映になり、渡哲也の相棒の刑事としてレギュラーになった彼は独特のアドリブと不思議なニュアンスの演技で人気を得ていく。それは翌年の三月まで続いた。
「大都会PART2」の脚本を書いていたのが永原秀一だった。その永原秀一と村川透監督と組んで作り上げたのが東映セントラルフィルム第一回作品「最も危険な遊戯」である。彼が演じた鳴海昌平はユーモラスで、なおかつクールだった。俊敏な動きが魅力的だった。シャープな動きを長回しのキャメラワークで描いた村川監督の手腕も評価された。
だが、彼はまだメジャーではなかった。同僚の中には僕の机の上の彼の写真を見て「これ誰?」と聞く人もいたし、「君は男が好きなのか」と不思議そうに言う人もいた。
●ハリウッド映画で実力を示して死んだ俳優
「遊戯」シリーズは「殺人遊戯」(1978年)「処刑遊戯」(1979年)と三作続いて終了した。必ず挿入されるアジトで体を鍛えたり裸のまま銃身の長いショルダーホルスターをつけ拳銃を素早く抜く練習をする場面は、明らかに「タクシードライバー」(1976年)のロバート・デ・ニーロの影響だったが、そんなことは関係なく長身の彼に銃身の長いマグナム44のリボルバーは似合った。
その鳴海昌平のキャラクターの延長のようなテレビシリーズ「探偵物語」が始まったのは、一九七九年九月のことだ。「大都会PART3」を最後に石原プロが日本テレビからテレビ朝日に乗り換えたために、彼を使って穴埋め番組を作らざるを得なかったのである。石原プロは「大都会PART3」と同内容の「西部警察」をテレビ朝日で始めたのだ。
殺し屋から探偵へと役柄は変わったが、「遊戯」シリーズの鳴海昌平は明らかに工藤俊作に継承されていた。あらかじめ書かれたものなのかアドリブなのか見分けのつかないセリフまわし、突然挟み込まれる楽屋落ち、長身を生かしたダイナミックなアクションと切れのよい動き…、それらは彼自身の個性として完全に定着した。
テレビシリーズ「探偵物語」の放映は一九七九年九月十八日から一九八〇年四月一日だったが、その前後の主演作には角川映画の「甦える金狼」(1979年)と「野獣死すべし」(1980年)がある。どちらも監督は村川透、脚本は「甦える金狼」が永原秀一、「野獣死すべし」が丸山昇一だった。「処刑遊戯」で脚本家としてデビューした丸山昇一は「探偵物語」シリーズも何話か担当した。
今年のゴールデンウィークに僕は「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」「処刑遊戯」を見た。二十九年ぶりの再会だった。彼は「母さん、ぼくのあの帽子どこへいったんでしょうね」で有名になった角川映画の大作「人間の証明」(1977年)の棟居刑事で一時はメジャーになっていたのに、そちらの方向には進まずB級アクションの典型のような「遊戯」シリーズをのびのびと楽しそうに演じていた。
彼のアドリブ調のセリフ回しが原田芳雄の影響であるのは歴然だった。二十代半ばに「竜馬暗殺」(1974年)で原田芳雄と共演した彼はすっかり心酔し、そっくりな演技をするようになる。原田芳雄の自宅の隣りに引っ越すほどだった。「竜馬暗殺」と同じ年の「あばよダチ公」を見ると、本当に原田芳雄そっくりである。
だが、「遊戯」シリーズを経て「探偵物語」シリーズで彼は独自のキャラクターを確立する。シャープでクールだが、いつもふざけているようなキャラクターだ。とぼけていてユーモラスで、そのアドリブには何度も吹き出した。だが、ときにシリアスに演じる場面では言葉にできない何かが伝わってくる。
僕は今でも「探偵物語」の最終回で刺されて死んでいく彼の姿を思い出す。友人たちをひとり、またひとりと殺された工藤俊作は最後にあっけなく刺されて死ぬ。多くの人がマネをするジーパン刑事の「なんじゃ、こりゃ」と血まみれの手を見ながら叫ぶシーンより、ずっとずっと僕の中に刻まれている。「かつて俺にも友だちがいた…」と言いながら死んでいく工藤俊作の姿は、僕にとって決して忘れられない大切なものなのだ。
「探偵物語」シリーズの後、鈴木清順監督「陽炎座」(1981年)や森田芳光監督「家族ゲーム」(1983年)で新しい役柄に挑戦し高い評価を得た彼は、やがて映画のすべてを支配したくなったのかもしれない。「ア・ホーマンス」(1986年)では脚本を書き、自ら主演して監督を務めた。だが、その後、彼の主演作は激減する。
「ア・ホーマンス」以降、彼が出演したのは室町時代に舞台を移した吉田喜重監督作品「嵐が丘」(1988年)と深作欣二監督作品「華の乱」(1988年)しかない。残念ながら、どちらも失敗作だったと僕は思う。特に「嵐が丘」は、壮大な…、いや、壮絶な失敗作だった。
だが、今から振り返ると、彼はその頃、世界をめざしていたのだ。日本の映画界に見切りをつけていたのかもしれない。「エイリアン」(1979年)「ブレードランナー」(1982年)の人気監督リドリー・スコットの新作「ブラックレイン」(1989年)の予告編を見た僕は驚いた。しばらく映画でもテレビでも顔を見ていなかった彼が登場していたからだ。
彼は冷酷無比なヤクザを演じていた。昔気質のヤクザたちが怖れる何をするかわからない新興世代のヤクザだった。男の喉を無表情に掻き切り、主人公の刑事を挑発するように睨んでニヤリと笑う。酷薄ではない。冷血そのものの怪物だった。彼はまったくの別人として甦った。
だが、「ブラックレイン」が封切られたちょうど一ヶ月後、昭和が「平成」と改まった年の秋、彼の訃報が日本を駆け巡った。四十歳だった。机に彼の写真を飾っていた僕も勤めて十四年が過ぎ、俳優に思い入れたり何かを仮託することもなくなっていた。生活に追われて生きていた。「夢が実現しないのなら、夢見る力なんかほしくなかった」とつぶやく男になっていた。
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