●五月革命に殉じた一九六八年のカンヌ映画祭
五月はカンヌ映画祭の季節だった。朝日新聞などは毎年、カンヌ映画祭レポートを連載し、詳細に記事にする。カンヌ映画祭と聞くと、僕は一九六八年を思い出す。一九六八年五月十日から二週間の予定で始まった映画祭は、十九日に急遽、中止になる。五月革命の影響だった。
今では何のことかわからないだろうが、フランスでは一九六八年五月二十一日に学生と労働者による大規模なゼネストがあった。交通機関はすべてストップした。都市機能がマヒした。当時、高校生だった僕は、毎日の新聞を熱心に読んだ。熱心に読んだが、事の本質はよくわからなかった。
ゴダールやトリュフォーがゼネストに呼応して映画祭批判を行い、カンヌ映画祭が中止になったことだけはニュースで知ったが、それに何の意味があるのかはわからなかった。
五月はカンヌ映画祭の季節だった。朝日新聞などは毎年、カンヌ映画祭レポートを連載し、詳細に記事にする。カンヌ映画祭と聞くと、僕は一九六八年を思い出す。一九六八年五月十日から二週間の予定で始まった映画祭は、十九日に急遽、中止になる。五月革命の影響だった。
今では何のことかわからないだろうが、フランスでは一九六八年五月二十一日に学生と労働者による大規模なゼネストがあった。交通機関はすべてストップした。都市機能がマヒした。当時、高校生だった僕は、毎日の新聞を熱心に読んだ。熱心に読んだが、事の本質はよくわからなかった。
ゴダールやトリュフォーがゼネストに呼応して映画祭批判を行い、カンヌ映画祭が中止になったことだけはニュースで知ったが、それに何の意味があるのかはわからなかった。
しかし、五月革命は伝説になった。僕は、加藤登紀子が歌った「美しきパリの五月」を今でもフランス語で歌える。日本では「フランシーヌの場合は」という歌もヒットした。五月革命の現場の雰囲気は、翌年発売になった五木寛之の小説「デラシネの旗」で何となく肌に感じた。
ソルボンヌ大学、バカロレア、カルチェ・ラタン…、そんな名詞を覚えた。一度、カルチェ・ラタンの石畳の道を歩いてみたいと思った。僕がフランス文学科を受験した要因に、もしかしたら五月革命があったのかもしれない。
一九六八年のカンヌ映画祭は、二十一回目を迎えていた。今年はちょうど六十回目になる。世界中から選ばれた三十数人の監督が映画や映画館をテーマにしたショートフィルムを作り、それが上映されて好評だったらしい。日本からは北野武監督が選ばれた。海外での北野監督の評価は高い。
情報を一切遮断し、カンヌ映画祭出品で話題づくりを狙ったダウンタウンの松本人志が監督した「大日本人」は、あまり評価はされなかったようだ。映画の本を何冊も出していて、松本人志の映画を見る目はなかなかいいと思うけれど、出来はどうなのだろう。ちょっと気になる。
今年の話題は、グランプリを河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がとったことだ。振り袖を着て赤絨毯の上で踊っている河瀬監督を見たが、作る映画の割りにはけっこう派手な人だなあと思った。グランプリは、かつて小栗康平監督が「死の棘」(1990年)でとっている。あのときは松坂慶子が赤絨毯を歩いて嬉しそうだった。
現在のグランプリは最高賞ではなく、そのうえにパルムドールというのがある。パルムドールは黒澤明監督が「影武者」(1980年)で、今村昌平監督が「楢山節考」(1983年)と「うなぎ」(1997年)で受賞している。昔、小林正樹監督の「切腹」(1963年)と「怪談」(1965年)は審査員特別賞を獲得した。
アカデミー賞と違ってカンヌ映画祭では、日本の作品はけっこう評価が高い。出品も多い。「誰も知らない」(2004年)で柳楽優弥が史上最年少の十四歳でカンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞したことは、日本でも話題になった。
●アーウィン・ショーという作家がいた
カンヌ映画祭で思い出す小説がある。アーウィン・ショーの「ビザンチウムの夜」である。アーウィン・ショーは「夏服を着た女たち」という短編が有名で、現役時代の山口百恵が愛読する作家として名前を挙げたことがあり、一時は日本でもけっこう売れたのだが、最近はあまり本を見かけない。
僕はアーウィン・ショーを十代の頃から愛読していて、「80ヤード独走」という短編は何回読んだかわからない。「ビザンチウムの夜」を訳した小泉喜美子さんは、後書きでこんなことを書いていた。
──ショーの「80ヤード独走」(一九六三年十月号『ミステリマガジン』所載)を読んだときの感激を私は忘れることができません。それどころか、そのときの刺激を土台のひとつにして今日までどうにかものを書いてきたとさえ言えるのです。
小泉喜美子さんはエッセイなどを読むと実に男っぽい考え方をする人で、だからこそ「80ヤード独走」にそれほど反応したのだと思う。「80ヤード独走」には、ある男の人生が凝縮されて描かれているのだ。
学生時代、アメリカンフットボールの選手だった主人公は、ある試合で80ヤードを独走してタッチダウンを決める。だが、彼の人生ではその一瞬だけが華やかな栄光に包まれたときであり、今はアメリカ中を営業で回る洋服のセールスマンでしかない。
その短編の魅力を何と言ったらいいのだろう。「人生とはそういうものだ」という諦念とは違う。挫折、失意、不遇…といった言葉だけでは表現できない何か。人生の苦み、などと言えばもっと手垢にまみれたものになる。
「男は生きていかなければならないんだ。生きていくときには忘れてはならないものがあるんだ…」そういうことを、その短編は十代の僕に教えてくれた。僕も小泉さんと同じように「80ヤード独走」でショーが鮮やかに描いたエッセンスを土台にしてものを書きたいと思った。
「ビザンチウムの夜」は、その延長上にある文庫で四百八十ページ近い長編だ。読み終わったとき、「80ヤード独走」と同じように深い感慨に襲われる。人が生きることの意味が伝わってくる。主人公のように華やかな世界で生きてきたわけではない。しかし、どんな人生にも共通する想いが、そこには描かれている。
かつての栄光を懐かしむのはいい。それをよすがに生きていくのもいい。だが、どんなにみじめになっても、生きていかなければならない。さびしさに耐えなければならない。人のせいにするな。すべては自分の選択だ、自ら招いたものだ。それを引き受けて生きてゆけ。自分が誇りだけは失っていないという実感を持てれば、他人が何を言おうが、後ろ指を指そうが、嘲笑おうが…放っておけ、「ビザンチウムの夜」は僕にそんなことを囁くのである。
●一九七〇年のカンヌ映画祭を背景にした物語
一九七〇年のカンヌ映画祭にジェシー・クレイグがやってくるところから物語は始まる。ホテルの部屋にいると、若い女がやってくる。ジャーナリストの卵でジェシーをインタビューし記事にしたいのだという。すでに彼のことを詳しく調べており、その原稿をジェシーに読ませる。
ジェシー・クレイグは若い頃に演劇のプロデュースで成功し、映画制作に進出してヒット作を何本も作ったプロデューサーだ。だが、もう何年も制作した映画はなく、業界では忘れられた名前になりつつある。ジェシーが一本の脚本を手にカンヌにやってきたのは、出資者を見付けるのが目的だ。
彼は、夜毎、様々なパーティに顔を出す。昔なじみの連中と顔を合わす。カンヌ映画祭の雰囲気が活写される。だが、誰もがジェシーを昔の人間、終わった男としてしか見ない。四十八歳のジェシーは再起を狙っているのだが、業界では「かつてはいい仕事をしたプロデューサー」でしかない。
ジェシーは回想する。彼が発見した才能にあふれた脚本家。その脚本をプロデュースし、大成功した若い頃。だが、彼は友人だった脚本家を裏切る。また、愛人を裏切り、妻を裏切る。思い出せば、慚愧、慚愧とつぶやきたくなるだろう。罪の意識ではない。だが、俺は何をやってきたのだろう、と唇を噛む。そんな想いだ。
ジェシーは罪悪感からか、かつての盟友だった脚本家の新作をプロデュースするが、それは見事に失敗する。ジェシー以上に、脚本家は過去の成功作にとらわれている。過去の栄光を忘れられない。今は貧しい暮らしをしていても、いつか再び返り咲くのだとしがみつく。かつての盟友のそんな姿が、ジェシーに何かを教える。
一九七〇年はカンヌで「ウッドストック」が上映された年だ。三章はジェシーが「ウッドストック」を見る場面である。制作者の才能を認めながらも、「映画が進むにつれ、スクリーンに拡がる一種の狂躁的な乱雑さが次第に彼の気持を滅入らせてい」くのである。彼は中座する。
ちなみに、その年の最高賞(グランプリ)は、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」だった。審査員特別賞が「殺人捜査」、審査員賞に「いちご白書」とハンガリー映画「鷹」が入った。ジョン・ブアマンが監督賞をとっていて、僕にはとても懐かしい。
さて、ジェシーは持ってきた脚本を何人かに読ませるが、やがてそれはジェシー自らが書いたものだとわかる。彼は、その脚本に何かを賭けたのだ。その再起をめざすストーリーに、女たちがからんでくる。過去の女、現在の女たちだ。別れた妻がいて、娘がいる。パリには愛人がいる。そして、インタビューにやってきた若いジャーナリスト志願の娘に惹かれる。
まあ、何だか自分で人生をややこしくしているなあ、というのが、最初に読んだときの僕の印象だった。だが、人生は複雑にしたくなくても、そうなってしまうものなのだ。愛していなくても、親友の奥さんであっても、寝てしまうことだってある。
この本を最初に読んだとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ジェシー・クレイグの四十八歳という年齢は遠い世界だった。遙かな未来だった。実感はなかった。今では、その歳を遙かに追い越した。自分が四十八歳だった頃を思い出すと、何て活動的だったのだろうと思う。
ニューヨークに帰ったジェシー・クレイグは倒れ、死線をさまよう。やがて回復し、「あなた自身の複雑さをほぐしなさい」と医者に言われて退院する。もちろん、酒はとめられているのだが、ニューヨークの昔よく通ったバーに寄る。その最後の一行が印象的だ。
──クレイグは微笑した。生きていてよかったと思った。二口目を飲んだ。酒がこんなに美味かったことはなかった。
ジェシー・クレイグに比べれば、僕はずっと単純な人生を送ってきたし、すがるような過去の栄光もなかったが、「ビザンチウムの夜」からは、どんな人生にも生きることに疲れ、途方に暮れる夜があることを教えられた。どんな人も、それに耐えて生きている…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
平岡正明さんの「昭和ジャズ喫茶伝説」「日本ジャズ者伝説」(共に平凡社)を図書館で見付けて借りてきた。カバーと軽い造本が良くて欲しくなる。平岡正明、太田竜、竹中労…と、三人の名前を並べてわかる人はやっぱり五十以上かな。
●第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店・ネット書店で発売中
第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました
http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
ソルボンヌ大学、バカロレア、カルチェ・ラタン…、そんな名詞を覚えた。一度、カルチェ・ラタンの石畳の道を歩いてみたいと思った。僕がフランス文学科を受験した要因に、もしかしたら五月革命があったのかもしれない。
一九六八年のカンヌ映画祭は、二十一回目を迎えていた。今年はちょうど六十回目になる。世界中から選ばれた三十数人の監督が映画や映画館をテーマにしたショートフィルムを作り、それが上映されて好評だったらしい。日本からは北野武監督が選ばれた。海外での北野監督の評価は高い。
情報を一切遮断し、カンヌ映画祭出品で話題づくりを狙ったダウンタウンの松本人志が監督した「大日本人」は、あまり評価はされなかったようだ。映画の本を何冊も出していて、松本人志の映画を見る目はなかなかいいと思うけれど、出来はどうなのだろう。ちょっと気になる。
今年の話題は、グランプリを河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」がとったことだ。振り袖を着て赤絨毯の上で踊っている河瀬監督を見たが、作る映画の割りにはけっこう派手な人だなあと思った。グランプリは、かつて小栗康平監督が「死の棘」(1990年)でとっている。あのときは松坂慶子が赤絨毯を歩いて嬉しそうだった。
現在のグランプリは最高賞ではなく、そのうえにパルムドールというのがある。パルムドールは黒澤明監督が「影武者」(1980年)で、今村昌平監督が「楢山節考」(1983年)と「うなぎ」(1997年)で受賞している。昔、小林正樹監督の「切腹」(1963年)と「怪談」(1965年)は審査員特別賞を獲得した。
アカデミー賞と違ってカンヌ映画祭では、日本の作品はけっこう評価が高い。出品も多い。「誰も知らない」(2004年)で柳楽優弥が史上最年少の十四歳でカンヌ映画祭の最優秀男優賞を受賞したことは、日本でも話題になった。
●アーウィン・ショーという作家がいた
カンヌ映画祭で思い出す小説がある。アーウィン・ショーの「ビザンチウムの夜」である。アーウィン・ショーは「夏服を着た女たち」という短編が有名で、現役時代の山口百恵が愛読する作家として名前を挙げたことがあり、一時は日本でもけっこう売れたのだが、最近はあまり本を見かけない。
僕はアーウィン・ショーを十代の頃から愛読していて、「80ヤード独走」という短編は何回読んだかわからない。「ビザンチウムの夜」を訳した小泉喜美子さんは、後書きでこんなことを書いていた。
──ショーの「80ヤード独走」(一九六三年十月号『ミステリマガジン』所載)を読んだときの感激を私は忘れることができません。それどころか、そのときの刺激を土台のひとつにして今日までどうにかものを書いてきたとさえ言えるのです。
小泉喜美子さんはエッセイなどを読むと実に男っぽい考え方をする人で、だからこそ「80ヤード独走」にそれほど反応したのだと思う。「80ヤード独走」には、ある男の人生が凝縮されて描かれているのだ。
学生時代、アメリカンフットボールの選手だった主人公は、ある試合で80ヤードを独走してタッチダウンを決める。だが、彼の人生ではその一瞬だけが華やかな栄光に包まれたときであり、今はアメリカ中を営業で回る洋服のセールスマンでしかない。
その短編の魅力を何と言ったらいいのだろう。「人生とはそういうものだ」という諦念とは違う。挫折、失意、不遇…といった言葉だけでは表現できない何か。人生の苦み、などと言えばもっと手垢にまみれたものになる。
「男は生きていかなければならないんだ。生きていくときには忘れてはならないものがあるんだ…」そういうことを、その短編は十代の僕に教えてくれた。僕も小泉さんと同じように「80ヤード独走」でショーが鮮やかに描いたエッセンスを土台にしてものを書きたいと思った。
「ビザンチウムの夜」は、その延長上にある文庫で四百八十ページ近い長編だ。読み終わったとき、「80ヤード独走」と同じように深い感慨に襲われる。人が生きることの意味が伝わってくる。主人公のように華やかな世界で生きてきたわけではない。しかし、どんな人生にも共通する想いが、そこには描かれている。
かつての栄光を懐かしむのはいい。それをよすがに生きていくのもいい。だが、どんなにみじめになっても、生きていかなければならない。さびしさに耐えなければならない。人のせいにするな。すべては自分の選択だ、自ら招いたものだ。それを引き受けて生きてゆけ。自分が誇りだけは失っていないという実感を持てれば、他人が何を言おうが、後ろ指を指そうが、嘲笑おうが…放っておけ、「ビザンチウムの夜」は僕にそんなことを囁くのである。
●一九七〇年のカンヌ映画祭を背景にした物語
一九七〇年のカンヌ映画祭にジェシー・クレイグがやってくるところから物語は始まる。ホテルの部屋にいると、若い女がやってくる。ジャーナリストの卵でジェシーをインタビューし記事にしたいのだという。すでに彼のことを詳しく調べており、その原稿をジェシーに読ませる。
ジェシー・クレイグは若い頃に演劇のプロデュースで成功し、映画制作に進出してヒット作を何本も作ったプロデューサーだ。だが、もう何年も制作した映画はなく、業界では忘れられた名前になりつつある。ジェシーが一本の脚本を手にカンヌにやってきたのは、出資者を見付けるのが目的だ。
彼は、夜毎、様々なパーティに顔を出す。昔なじみの連中と顔を合わす。カンヌ映画祭の雰囲気が活写される。だが、誰もがジェシーを昔の人間、終わった男としてしか見ない。四十八歳のジェシーは再起を狙っているのだが、業界では「かつてはいい仕事をしたプロデューサー」でしかない。
ジェシーは回想する。彼が発見した才能にあふれた脚本家。その脚本をプロデュースし、大成功した若い頃。だが、彼は友人だった脚本家を裏切る。また、愛人を裏切り、妻を裏切る。思い出せば、慚愧、慚愧とつぶやきたくなるだろう。罪の意識ではない。だが、俺は何をやってきたのだろう、と唇を噛む。そんな想いだ。
ジェシーは罪悪感からか、かつての盟友だった脚本家の新作をプロデュースするが、それは見事に失敗する。ジェシー以上に、脚本家は過去の成功作にとらわれている。過去の栄光を忘れられない。今は貧しい暮らしをしていても、いつか再び返り咲くのだとしがみつく。かつての盟友のそんな姿が、ジェシーに何かを教える。
一九七〇年はカンヌで「ウッドストック」が上映された年だ。三章はジェシーが「ウッドストック」を見る場面である。制作者の才能を認めながらも、「映画が進むにつれ、スクリーンに拡がる一種の狂躁的な乱雑さが次第に彼の気持を滅入らせてい」くのである。彼は中座する。
ちなみに、その年の最高賞(グランプリ)は、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」だった。審査員特別賞が「殺人捜査」、審査員賞に「いちご白書」とハンガリー映画「鷹」が入った。ジョン・ブアマンが監督賞をとっていて、僕にはとても懐かしい。
さて、ジェシーは持ってきた脚本を何人かに読ませるが、やがてそれはジェシー自らが書いたものだとわかる。彼は、その脚本に何かを賭けたのだ。その再起をめざすストーリーに、女たちがからんでくる。過去の女、現在の女たちだ。別れた妻がいて、娘がいる。パリには愛人がいる。そして、インタビューにやってきた若いジャーナリスト志願の娘に惹かれる。
まあ、何だか自分で人生をややこしくしているなあ、というのが、最初に読んだときの僕の印象だった。だが、人生は複雑にしたくなくても、そうなってしまうものなのだ。愛していなくても、親友の奥さんであっても、寝てしまうことだってある。
この本を最初に読んだとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ジェシー・クレイグの四十八歳という年齢は遠い世界だった。遙かな未来だった。実感はなかった。今では、その歳を遙かに追い越した。自分が四十八歳だった頃を思い出すと、何て活動的だったのだろうと思う。
ニューヨークに帰ったジェシー・クレイグは倒れ、死線をさまよう。やがて回復し、「あなた自身の複雑さをほぐしなさい」と医者に言われて退院する。もちろん、酒はとめられているのだが、ニューヨークの昔よく通ったバーに寄る。その最後の一行が印象的だ。
──クレイグは微笑した。生きていてよかったと思った。二口目を飲んだ。酒がこんなに美味かったことはなかった。
ジェシー・クレイグに比べれば、僕はずっと単純な人生を送ってきたし、すがるような過去の栄光もなかったが、「ビザンチウムの夜」からは、どんな人生にも生きることに疲れ、途方に暮れる夜があることを教えられた。どんな人も、それに耐えて生きている…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
平岡正明さんの「昭和ジャズ喫茶伝説」「日本ジャズ者伝説」(共に平凡社)を図書館で見付けて借りてきた。カバーと軽い造本が良くて欲しくなる。平岡正明、太田竜、竹中労…と、三人の名前を並べてわかる人はやっぱり五十以上かな。
●第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店・ネット書店で発売中
第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました
http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
- ビザンチウムの夜
- アーウィン・ショー 小泉 喜美子
- 早川書房 1984-09