みなさんこんにちは。「わが逃走」第2回です。このコラムはグラフィックデザイナー齋藤浩が、グラフィックデザインとは無関係に書きたいことを書くという、ノーギャラならではの企画です。
前回は自己紹介も兼ねて自分の名前についての怨みつらみを書いた訳ですが、今回は不憫シリーズ第二弾ということで、屁と糞にまつわる悲しいお話でもいたしましょう。
さて、屁と糞といえば、ヘクソカズラ! 私のありふれた名前など屁でもないというくらい酷い名前です。オオイヌノフグリ、ハキダメギクなど、植物の中にはお気の毒としか思えない名前をよく聞きますが、中でもヘクソカズラは衝撃的でした。花弁の形状がヘクサゴンだから的な由来があるのだろうと解釈していたら、そのまんま屁と糞だったとは!
昔から知っている事柄とは違い、大人になってから知った真実に対する衝撃は大きいものです。という訳で、そんなヘクソカズラさんを慰めるべく、若かりし頃の想い出話でもいたしたいと存じます。
前回は自己紹介も兼ねて自分の名前についての怨みつらみを書いた訳ですが、今回は不憫シリーズ第二弾ということで、屁と糞にまつわる悲しいお話でもいたしましょう。
さて、屁と糞といえば、ヘクソカズラ! 私のありふれた名前など屁でもないというくらい酷い名前です。オオイヌノフグリ、ハキダメギクなど、植物の中にはお気の毒としか思えない名前をよく聞きますが、中でもヘクソカズラは衝撃的でした。花弁の形状がヘクサゴンだから的な由来があるのだろうと解釈していたら、そのまんま屁と糞だったとは!
昔から知っている事柄とは違い、大人になってから知った真実に対する衝撃は大きいものです。という訳で、そんなヘクソカズラさんを慰めるべく、若かりし頃の想い出話でもいたしたいと存じます。
●エピソード1/危機イッパツ編
チバ県M戸市からサイタマのO宮市に越してきたのは三歳のときだ。オレは近所の子供らともそれなりの付合いはあったが、どちらかといえば家にこもって何かを作ったり絵を描いたりすることの方が好きだった。
そうすると、身近なコミュニティ=家庭ということになる。ちなみに、我家は父・母・オレの三人で構成されており、オレは父・母を通して世の中のことを知っていくこととなる。が、この二人がクセモノだった。というか、どうも一般的な父母とは微妙に違っていたようで、ひとことで言えば浮世離れした父とおめでたい母だったのである。
家庭と“社会”とのズレを意識したのは四歳のときだ。オレが物心ついたときからウチには“屁はガマンしない”という風習があり、従って我家は常に屁の音が絶えない家庭だった。
ある日、息子も幼稚園に行く年齢になったことだし、これではいけないと思ったのか、母が「オナラは本来うるさいし、クサいものです。なので人前ではしない方がいいの。でも出ちゃったときは『失礼いたしました』って言えばいいのよ」と教えてくれた。
父もそれに同意し、その日を境に、ブッ「失礼いたしました」プー「失礼いたしました」ブゥーップッ「失礼いたしました」という、今にして思えば非常にシュールなサウンドが、我家における当たり前の風景の一部として、繰り返し響いていたのである。
で、“社会”だ。四歳になったオレはウチから徒歩15秒のところにあるA幼稚園へ通いはじめた。内向的な息子が果たして集団生活に順応できるのかという母の心配をよそに、オレはクラスの奴らともそれなりにうまく付合っていた。ところがそんな明るい園児ライフを送っていたある日、オレはやっちまったのである。
我が『うめ5くみ』担任のモテギ先生の指導のもと、クラス全員の見守る前でオレは何かを発表していた。その際、ごく自然に屁がしたくなり、何もためらわずにいつものように、プー「失礼いたしました」。
一瞬の静けさの後、105デシベルの笑い声が教室中に響き渡った。クラスの誰もがオレを見、指を差して笑うのだ。解らなかった。何故だ。何故なんだ。「失礼いたしました」って言えばチャラになるんじゃなかったのか。母さんは嘘を教えた。オレの親は嘘つきだったんだーっ(と子供語で思った)。
オレは泣いた。皆に笑われて恥ずかしかったというよりも、いつも守ってくれた母に突き放されたような孤独感に泣いたのだ。でも、ボキャブラリーの少ない子供は、その気持ちを言葉で伝えることはできない。そのもどかしさにまた泣いた。
オレは帰宅するとすぐ、母に抗議した。が、母はそれを一笑に付したのである。「そんなこと、明日になればみんな忘れてるわよ」。論点のすり替えである。
が、子供のオレはそんなもんかと思い、翌日普通に幼稚園に行くと、果たして母の予言の通り、誰一人として前日の一件については語らず、お遊戯に紙芝居に、熱中していたのだった。不思議だった。意外だった。おかげでプライドを保つことができたのだが。
この一件でオレは「世の中は思ったより都合よくできているのではないか」と過信してしまったようだ。これが後に起こる悲劇とのコントラストをより一層際立たせることになろうとは、四歳のオレにはまだ知るよしもなかったのである。
●エピソード2/没落編
あれから一年が過ぎ、年長さんとなったオレは『まつ1くみ』に配属されていた。オレはそれなりに絵が上手だったので、ケンカの強い奴、すばしっこい奴と並んで、クラスではそれなりの地位を保っていた。
ある日、いつものように幼稚園へ行き、みんなとキャッキャと遊んでいると突然の便意がオレを襲った。日本では、幼稚園に入ってから小学校を卒業するまで公的な場所ではウンコをしてはいけない、という暗黙のルールがあるので当然オレは我慢していた。しかし、腸内におけるウンコさんの主張はズンドコズンドコと徐々に激しさを増していく。
危険だ。少々なだめなければと思い、オレはまず固体とガスとの分離を試みた。人間も五歳にもなればそれなりに経験値も上がる。ウンコを我慢するときは、まずイメージするのだ。オレはお腹の中で跳ね回っているウンコさんを落ち着かせて一カ所に集めるシーンを思い描いた。
そして、残った空間に充満しているガスをうまく抽出し、肛門をしぼりながら(レンズでいえばf11〜16くらい)音を立てぬよう細心の注意をはらって、周りに気づかれないようにスカシで放出する。そうすると、多少なりとも便意は軽減されるはずなのだ。
ところが。その日に限って絞り調節が思うようにいかず、f2.8くらいまで開いてしまい、「しまった!」と思うと同時にコントロールを失った絞り羽根はほぼ開放となってしまった。そして次の瞬間。ズシン。という重みがパンツのゴムを通じてオレの腰に伝わったのだ。
その時のオレが思ったこと。それは社会的地位についてである。この事実が広く知れ渡ってしまえば、当然今の地位からの失墜はまぬがれないだろう。ことは穏便に、極秘裏にすすめねばならない(と子供語で思った)。
不安だ。だが、ここで泣いてはいけない。泣けば皆の注目を集め、バレる可能性がそれだけ上がる。オレは平静を装いつつ、担任のオオバヤシ先生の耳元でこっそりとその旨を告げた。すると先生はごく自然にオレを職員室の隅へ連れていき、誰にもみつからないようにパンツをはきかえさせてくれたのである。ありがとうオオバヤシ先生、オレはこの恩を一生忘れない。心の底から、本当にそう思ったのだ(子供語で)。
翌日。いつものように幼稚園へ行った。そして、いつものように集団生活をこなす。時はいつものようにゆっくりと、平穏に過ぎていった。午後の日差しがやわらかい。昨日のことは、誰も知らない。
ところが。
いつもと異なる人物が、いつもと異なる状況をもたらしたのだ。母である。手にはてんとう虫模様の小さな紙袋を持っている。母はゆっくりと廊下を歩き、教室の様子を窓ごしに眺めながら、ガラスの引き戸をノックした。オオバヤシ先生がそれに応える。
どんな小さな出来事でも、いつもと異なる状況が発生すると幼児たちのテンションは上がる。クラスの奴らは、まれびと“ひろたんのおばちゃん”の登場に、一斉に好奇心をかき立てられていた。
母は紙袋を先生に渡し、二言三言、言葉をかわすとオレに手を振って去っていった。そうなると幼児達は、お菓子でも入っていそうな、そのかわいい紙袋が気になって仕方がない。好奇心が強すぎたのか、がまんできなかったのか、そもそもがまんを知らなかったのか。すばしっこい奴・トオル君がその袋を先生の手から奪い、開けてしまったのである。そして彼は、オレの悪夢の証拠品・A幼稚園と記された子供用パンツを発見してしまったのだ。
「あはは、パンツだー」トオル君の声につられて皆が笑い出す。だがこの時点での彼らはまだ“パンツ”という言葉の響きに対して笑っていたにすぎない。だが、その状況を少し離れたところからじっと見ていた奴がいた。アカバネミワ(仮名)である。
この一連の状況を冷静に、そして的確に分析したアカバネミワ(仮名)は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そしてまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながらこう言ったのだ。
「あんた、ウンコッタレしたでしょう」
初めて味わう絶望感、そしてとりかえしのつかないであろう人生。薄れゆく意識の中で、今までの華やかな想い出のシーンが走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていった。血の気が失せるとは、まさにこのことを言うのだろう。
遠くで皆の「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」という声が聞こえる。それからどのように過ごしたかは覚えていない。
オレは家に帰るとすぐ母に抗議した。「なぜパンツを皆のいる教室で返却したのだ? 母たるもの、息子の社会的地位を脅かすような行動は極力慎むべきではないのか? こういうものは誰にも気づかれないよう、職員室にそっと届けるべきではないのか? 子供なんてわかりゃしないと、なめてかかってはいけない。子供には子供の社会というものがあるのだ」と、(子供語で)訴えた。
が、ボキャブラリーの少ない子供が涙まじりに発する言葉など大人に伝わるものではなかった。「まあ、トオル君が開けちゃったの。お行儀の悪い子ねえ。あなたはそんなことしちゃダメよ」。なんかズレてる。オレが言いたいのはそんなことじゃないんだ。「アカバネミワちゃんもみんなも、明日になれば忘れてるわよ」。これも論点のすり替えである。
が、子供のオレは昨年の屁の一件のこともあるし、そんなもんかと気をとりなおした。そして、くすぶる不安をほのかな希望に変え、翌日もいつものように幼稚園に向かったのだった。
朝。元気に教室の引き戸を開けたオレを待っていたのは、奴だった。そう、アカバネミワ(仮名)である。奴は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そして昨日と同じようにまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながら今日もこう言ったのだ。
「あんた、ウンコッタレしたでしょう」
ほんのひと握りの希望の灯がいま、消えた。「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」クラス中が一斉に事件を思い出し、その日もオレをはやし立てたのであった。
●エピソード3/暗黒編
だがそれは、悪夢のほんの幕開けにすぎなかった。それからのオレは毎日アカバネミワ(仮名)の執拗な攻撃を受け続けることになる。毎日毎日、くる日もくる日もウンコッタレと言われ続けたのだ。それは、梅雨の季節から翌年の春まで、休日以外毎日続いた。
夜になるのが怖かった。寝てしまえばすぐ、朝が来る。朝になればまたアカバネミワ(仮名)のいる幼稚園に行かなければならないのだ。助けを求めようとしたこともあった。だが、そうしたところでアカバネミワ(仮名)の攻撃がより陰湿になっていくであろうことは明白だった。
耐えるしかなかった。ただじっと、耐えるしかなかったのである。五歳にして到達した諦めの境地に、オレは社会とは何かを学んだのだった。
以上、ヘクソカズラさんに捧げる、幼年期の想い出話でした。五歳の子供にとっての社会とは、そのまま幼稚園のことを指します。なのでその年頃の子供をもつお父さん、お母さん。決して、決して子供だからといい加減に接してはいけません。企業に、サル山に、階級と規則があるように、子供社会にもそれは歴然と存在しているのです。
三十路も半ばをすぎた息子から、当時の恨み言を聞かされるのは嫌なものでしょう。そうならないためにも、子供の立場に立って導いてあげてください。ちなみに、先日この想い出話を語り聞かせたところ、母はこう言いました。「あら、そんなに大変だったの。それはお気の毒」
[齋藤浩]saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
>
●エピソード4/新たなる希望
翌4月。近所の公立小学校へ入学したオレのクラス名簿には、アカバネミワ(仮名)の名前は、なかった。嗚呼、アカバネミワ(仮名)のいない環境。アカバネミワ(仮名)のいない時間。アカバネミワ(仮名)のいない人生。生きるって素晴らしい。心の底からそう思う、齋藤浩、六歳の春だった。
つづく
チバ県M戸市からサイタマのO宮市に越してきたのは三歳のときだ。オレは近所の子供らともそれなりの付合いはあったが、どちらかといえば家にこもって何かを作ったり絵を描いたりすることの方が好きだった。
そうすると、身近なコミュニティ=家庭ということになる。ちなみに、我家は父・母・オレの三人で構成されており、オレは父・母を通して世の中のことを知っていくこととなる。が、この二人がクセモノだった。というか、どうも一般的な父母とは微妙に違っていたようで、ひとことで言えば浮世離れした父とおめでたい母だったのである。
家庭と“社会”とのズレを意識したのは四歳のときだ。オレが物心ついたときからウチには“屁はガマンしない”という風習があり、従って我家は常に屁の音が絶えない家庭だった。
ある日、息子も幼稚園に行く年齢になったことだし、これではいけないと思ったのか、母が「オナラは本来うるさいし、クサいものです。なので人前ではしない方がいいの。でも出ちゃったときは『失礼いたしました』って言えばいいのよ」と教えてくれた。
父もそれに同意し、その日を境に、ブッ「失礼いたしました」プー「失礼いたしました」ブゥーップッ「失礼いたしました」という、今にして思えば非常にシュールなサウンドが、我家における当たり前の風景の一部として、繰り返し響いていたのである。
で、“社会”だ。四歳になったオレはウチから徒歩15秒のところにあるA幼稚園へ通いはじめた。内向的な息子が果たして集団生活に順応できるのかという母の心配をよそに、オレはクラスの奴らともそれなりにうまく付合っていた。ところがそんな明るい園児ライフを送っていたある日、オレはやっちまったのである。
我が『うめ5くみ』担任のモテギ先生の指導のもと、クラス全員の見守る前でオレは何かを発表していた。その際、ごく自然に屁がしたくなり、何もためらわずにいつものように、プー「失礼いたしました」。
一瞬の静けさの後、105デシベルの笑い声が教室中に響き渡った。クラスの誰もがオレを見、指を差して笑うのだ。解らなかった。何故だ。何故なんだ。「失礼いたしました」って言えばチャラになるんじゃなかったのか。母さんは嘘を教えた。オレの親は嘘つきだったんだーっ(と子供語で思った)。
オレは泣いた。皆に笑われて恥ずかしかったというよりも、いつも守ってくれた母に突き放されたような孤独感に泣いたのだ。でも、ボキャブラリーの少ない子供は、その気持ちを言葉で伝えることはできない。そのもどかしさにまた泣いた。
オレは帰宅するとすぐ、母に抗議した。が、母はそれを一笑に付したのである。「そんなこと、明日になればみんな忘れてるわよ」。論点のすり替えである。
が、子供のオレはそんなもんかと思い、翌日普通に幼稚園に行くと、果たして母の予言の通り、誰一人として前日の一件については語らず、お遊戯に紙芝居に、熱中していたのだった。不思議だった。意外だった。おかげでプライドを保つことができたのだが。
この一件でオレは「世の中は思ったより都合よくできているのではないか」と過信してしまったようだ。これが後に起こる悲劇とのコントラストをより一層際立たせることになろうとは、四歳のオレにはまだ知るよしもなかったのである。
●エピソード2/没落編
あれから一年が過ぎ、年長さんとなったオレは『まつ1くみ』に配属されていた。オレはそれなりに絵が上手だったので、ケンカの強い奴、すばしっこい奴と並んで、クラスではそれなりの地位を保っていた。
ある日、いつものように幼稚園へ行き、みんなとキャッキャと遊んでいると突然の便意がオレを襲った。日本では、幼稚園に入ってから小学校を卒業するまで公的な場所ではウンコをしてはいけない、という暗黙のルールがあるので当然オレは我慢していた。しかし、腸内におけるウンコさんの主張はズンドコズンドコと徐々に激しさを増していく。
危険だ。少々なだめなければと思い、オレはまず固体とガスとの分離を試みた。人間も五歳にもなればそれなりに経験値も上がる。ウンコを我慢するときは、まずイメージするのだ。オレはお腹の中で跳ね回っているウンコさんを落ち着かせて一カ所に集めるシーンを思い描いた。
そして、残った空間に充満しているガスをうまく抽出し、肛門をしぼりながら(レンズでいえばf11〜16くらい)音を立てぬよう細心の注意をはらって、周りに気づかれないようにスカシで放出する。そうすると、多少なりとも便意は軽減されるはずなのだ。
ところが。その日に限って絞り調節が思うようにいかず、f2.8くらいまで開いてしまい、「しまった!」と思うと同時にコントロールを失った絞り羽根はほぼ開放となってしまった。そして次の瞬間。ズシン。という重みがパンツのゴムを通じてオレの腰に伝わったのだ。
その時のオレが思ったこと。それは社会的地位についてである。この事実が広く知れ渡ってしまえば、当然今の地位からの失墜はまぬがれないだろう。ことは穏便に、極秘裏にすすめねばならない(と子供語で思った)。
不安だ。だが、ここで泣いてはいけない。泣けば皆の注目を集め、バレる可能性がそれだけ上がる。オレは平静を装いつつ、担任のオオバヤシ先生の耳元でこっそりとその旨を告げた。すると先生はごく自然にオレを職員室の隅へ連れていき、誰にもみつからないようにパンツをはきかえさせてくれたのである。ありがとうオオバヤシ先生、オレはこの恩を一生忘れない。心の底から、本当にそう思ったのだ(子供語で)。
翌日。いつものように幼稚園へ行った。そして、いつものように集団生活をこなす。時はいつものようにゆっくりと、平穏に過ぎていった。午後の日差しがやわらかい。昨日のことは、誰も知らない。
ところが。
いつもと異なる人物が、いつもと異なる状況をもたらしたのだ。母である。手にはてんとう虫模様の小さな紙袋を持っている。母はゆっくりと廊下を歩き、教室の様子を窓ごしに眺めながら、ガラスの引き戸をノックした。オオバヤシ先生がそれに応える。
どんな小さな出来事でも、いつもと異なる状況が発生すると幼児たちのテンションは上がる。クラスの奴らは、まれびと“ひろたんのおばちゃん”の登場に、一斉に好奇心をかき立てられていた。
母は紙袋を先生に渡し、二言三言、言葉をかわすとオレに手を振って去っていった。そうなると幼児達は、お菓子でも入っていそうな、そのかわいい紙袋が気になって仕方がない。好奇心が強すぎたのか、がまんできなかったのか、そもそもがまんを知らなかったのか。すばしっこい奴・トオル君がその袋を先生の手から奪い、開けてしまったのである。そして彼は、オレの悪夢の証拠品・A幼稚園と記された子供用パンツを発見してしまったのだ。
「あはは、パンツだー」トオル君の声につられて皆が笑い出す。だがこの時点での彼らはまだ“パンツ”という言葉の響きに対して笑っていたにすぎない。だが、その状況を少し離れたところからじっと見ていた奴がいた。アカバネミワ(仮名)である。
この一連の状況を冷静に、そして的確に分析したアカバネミワ(仮名)は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そしてまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながらこう言ったのだ。
「あんた、ウンコッタレしたでしょう」
初めて味わう絶望感、そしてとりかえしのつかないであろう人生。薄れゆく意識の中で、今までの華やかな想い出のシーンが走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていった。血の気が失せるとは、まさにこのことを言うのだろう。
遠くで皆の「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」という声が聞こえる。それからどのように過ごしたかは覚えていない。
オレは家に帰るとすぐ母に抗議した。「なぜパンツを皆のいる教室で返却したのだ? 母たるもの、息子の社会的地位を脅かすような行動は極力慎むべきではないのか? こういうものは誰にも気づかれないよう、職員室にそっと届けるべきではないのか? 子供なんてわかりゃしないと、なめてかかってはいけない。子供には子供の社会というものがあるのだ」と、(子供語で)訴えた。
が、ボキャブラリーの少ない子供が涙まじりに発する言葉など大人に伝わるものではなかった。「まあ、トオル君が開けちゃったの。お行儀の悪い子ねえ。あなたはそんなことしちゃダメよ」。なんかズレてる。オレが言いたいのはそんなことじゃないんだ。「アカバネミワちゃんもみんなも、明日になれば忘れてるわよ」。これも論点のすり替えである。
が、子供のオレは昨年の屁の一件のこともあるし、そんなもんかと気をとりなおした。そして、くすぶる不安をほのかな希望に変え、翌日もいつものように幼稚園に向かったのだった。
朝。元気に教室の引き戸を開けたオレを待っていたのは、奴だった。そう、アカバネミワ(仮名)である。奴は、不敵な笑みを浮かべてオレの前に立ちはだかった。そして昨日と同じようにまっすぐオレを指差し、鋭い視線でにらみながら今日もこう言ったのだ。
「あんた、ウンコッタレしたでしょう」
ほんのひと握りの希望の灯がいま、消えた。「ひろたんウンコッタレ、ひろたんウンコッタレ」クラス中が一斉に事件を思い出し、その日もオレをはやし立てたのであった。
●エピソード3/暗黒編
だがそれは、悪夢のほんの幕開けにすぎなかった。それからのオレは毎日アカバネミワ(仮名)の執拗な攻撃を受け続けることになる。毎日毎日、くる日もくる日もウンコッタレと言われ続けたのだ。それは、梅雨の季節から翌年の春まで、休日以外毎日続いた。
夜になるのが怖かった。寝てしまえばすぐ、朝が来る。朝になればまたアカバネミワ(仮名)のいる幼稚園に行かなければならないのだ。助けを求めようとしたこともあった。だが、そうしたところでアカバネミワ(仮名)の攻撃がより陰湿になっていくであろうことは明白だった。
耐えるしかなかった。ただじっと、耐えるしかなかったのである。五歳にして到達した諦めの境地に、オレは社会とは何かを学んだのだった。
以上、ヘクソカズラさんに捧げる、幼年期の想い出話でした。五歳の子供にとっての社会とは、そのまま幼稚園のことを指します。なのでその年頃の子供をもつお父さん、お母さん。決して、決して子供だからといい加減に接してはいけません。企業に、サル山に、階級と規則があるように、子供社会にもそれは歴然と存在しているのです。
三十路も半ばをすぎた息子から、当時の恨み言を聞かされるのは嫌なものでしょう。そうならないためにも、子供の立場に立って導いてあげてください。ちなみに、先日この想い出話を語り聞かせたところ、母はこう言いました。「あら、そんなに大変だったの。それはお気の毒」
[齋藤浩]saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
>
●エピソード4/新たなる希望
翌4月。近所の公立小学校へ入学したオレのクラス名簿には、アカバネミワ(仮名)の名前は、なかった。嗚呼、アカバネミワ(仮名)のいない環境。アカバネミワ(仮名)のいない時間。アカバネミワ(仮名)のいない人生。生きるって素晴らしい。心の底からそう思う、齋藤浩、六歳の春だった。
つづく