●警察内部のことが小説になる時代
ちょっと必要があって、久しぶりに警察関係の本をいくつか読んだ。北芝健という元刑事の人は知っていたけれど、本を読むのは初めてだった。この人の本は警察の裏話などが多くて、わりに楽しんで読めた。
僕は昔からいろいろ警察関係者の本を読んでいて、二十年ほど前には「警視庁対大阪府警」とか「兵庫県警と山口組」なんて本も読んでいた。佐々淳行さんの「東大落城」や「あさま山荘」の本なども読んだ。それなりに警察には詳しいと思っていたが、その組織図は複雑で未だによくわからない。
このところ、警察小説がやたらに出ている。大沢在昌さんの「新宿鮫」シリーズは有名だが、逢坂剛さんの「御茶ノ水署」シリーズや今野敏さんの「ベイエリア分署」シリーズなどもある。佐々木譲さんの「警官の血」は大作だ。今、しきりに映画を宣伝している「犯人に告ぐ」も警察小説が原作だ。
ちょっと必要があって、久しぶりに警察関係の本をいくつか読んだ。北芝健という元刑事の人は知っていたけれど、本を読むのは初めてだった。この人の本は警察の裏話などが多くて、わりに楽しんで読めた。
僕は昔からいろいろ警察関係者の本を読んでいて、二十年ほど前には「警視庁対大阪府警」とか「兵庫県警と山口組」なんて本も読んでいた。佐々淳行さんの「東大落城」や「あさま山荘」の本なども読んだ。それなりに警察には詳しいと思っていたが、その組織図は複雑で未だによくわからない。
このところ、警察小説がやたらに出ている。大沢在昌さんの「新宿鮫」シリーズは有名だが、逢坂剛さんの「御茶ノ水署」シリーズや今野敏さんの「ベイエリア分署」シリーズなどもある。佐々木譲さんの「警官の血」は大作だ。今、しきりに映画を宣伝している「犯人に告ぐ」も警察小説が原作だ。
雫井脩介さんの「犯人に告ぐ」は、数年前に評判になったときに読んでみた。それなりに楽しめたが、少し無理があるような気もした。もっとも、ミステリに野暮を言っても仕方がない。その映画化作品は、これから劇場公開されるのだが、半年ほど前にワウワウで先行放映されたときに見た。
豊川悦司の役が管理官というものだった。これは捜査本部を統轄する役らしい。その上に理事官が存在する、というのは北芝さんの本で知った。管理官は職階的には警視が当たるらしい。例によって、現場の捜査員とキャリア組との確執にも重点が置かれている。
「犯人に告ぐ」の舞台は神奈川県であり、豊川悦司は神奈川県警の警察官である。最初に東京の警視庁との合同捜査が描かれ、警視庁と神奈川県警の確執が顕わになる。そのため捜査に失敗し、豊川悦司は左遷されるのである。左遷先は足柄だったと思う。
警視庁と神奈川県警の仲の悪さは有名で、他の小説でもずいぶん取り上げられている。警視庁の中では、本庁と所轄署の対立がよく描かれる。この辺は高村薫さんの小説にも詳しい。「レディ・ジョーカー」など、ほとんど警察内部の不祥事の隠蔽だけにページが費やされていた。
一般的に警察官僚の甲種国家公務員(キャリア)という存在が知られたのは、テレビドラマ「踊る大捜査線」によってだろう。キャリアの出世コースから外れ、所轄の生活安全課(生安)の刑事として活躍する鮫島が主人公の「新宿鮫」もキャリアについては詳しくなる。
最近の警察小説は、警察内部の組織小説の様相を呈していて、今野敏さんが吉川英治文学新人賞を受賞した「隠蔽捜査」は面白く読めたが、ほとんど犯罪現場に出ないキャリアの主人公が、警察内部の組織的な力学の中でもがく姿ばかりを描いている印象だった。
もっとも、「組織と個人」というのは近代文学最大のテーマだから、どれも現代人には切実に読める。特に、警察という組織は巨大であり、制約の厳しい世界なので、個人としての軋轢も大きいのだろう。よりドラマチックな設定ができるのだと思う。
●「天国と地獄」が描いた捜査本部のリアリティ
映画で、実際の警察の捜査活動に近い描き方をされていたのは黒澤明監督「天国と地獄」(1963年)だと、北芝健さんが書いていた。「天国と地獄」は、少し前にテレビドラマとしてリメイクされた。佐藤浩一の権堂金吾は三船敏郎より迫力はなかったが、よく頑張っていたと思う。
「天国と地獄」について書き始めると、また批判的になりそうだ。会社に「天国と地獄」が好きな若い人がいて、以前、僕がちょっと批判めいたことを言ったら、凄い勢いで反論されたことがある。僕は、基本的には好きな映画の話しか書かないようにしているのだが、権威になってしまった黒澤明だけはちょっと別だ。
「天国と地獄」を初めて見たとき、確かに捜査会議などのリアリティは凄いと感心した覚えがある。当時は、テレビドラマで「七人の刑事」などが人気があり、刑事の捜査は地味なイメージだったのだが、もっと大勢のチームワークで捜査が進められるのだとわかったものだった。
「天国と地獄」で僕が納得できないのは、犯人がわかったのに逮捕せず、そのため麻薬中毒者の女が殺されてしまうことである。警察が逮捕しない理由は、「誘拐だけで捕まえても死刑にできないから」だった。麻薬中毒の女は、警察に見殺しにされたのと同じだし、女を殺した誘拐犯を「これで死刑にできる」と戸倉警部(仲代達矢)はうそぶく。死んだ女を一顧だにしない。
ひねくれ者の僕には「子供を誘拐するような卑劣な犯人は死刑にしろ」というメッセージを、黒澤明が無邪気に単純に送っているように思える。犯人逮捕の瞬間、戸倉警部は勝ち誇ったように「これでおまえは死刑だ!」と叫ぶ。警察が犯人を裁くようになったらオシマイだ…と僕は思う。
「天国と地獄」では、犯人側のドラマは一切描かれない。彼の動機、犯罪に到るまでの事情、経過も何も見せない。彼は冷酷な誘拐犯であり、犯罪者としてしか登場しない。別に犯罪者に同情的に描けというのではないけれど、どんな人間にも生きてきた背景、犯罪に走る理由はあると思う。
ところで、実生活で警察官と接することがあると、なぜか人は緊張する。僕も同じだ。総務という仕事上、この一年でも何度か警察官と話す機会があった。その時にも緊張した。昔、自転車の無灯火運転で捕まったときのことなど、つい思い出してしまう。そう言えば、昔、一度だけ我が家に刑事が聞き込みにきたことがあった。
●刑事の偏見を感じた小学生の頃
僕がまだ小学生の低学年の頃だったろうか。あるいは、もう少し大きくなっていた頃だろうか。少なくとも、僕は十歳以下だったと思う。それでも、未だに覚えているのは、我が家に刑事がやってきた、という異常事態だったからだ。
それは、父が仕事にいって留守の昼間のことだった。母が刑事の応対をした。僕はどこにいたのか記憶にない。しかし、僕の記憶の中の映像では、開け放たれた玄関の外から、母が刑事と話しているのを見ている。「七人の刑事」と違って、やってきた刑事はひとりだった。
本当の年齢はわからない。かなり年輩の感じに見えた。くたびれたスーツを着ていた。ハンチングをかぶっていた記憶があるのは、後からの修正かもしれない。刑事は帽子をかぶっている、というイメージがあったからだ。「七人の刑事」の芦田伸介は、いつも帽子を頭に載せていた。
刑事は玄関の上がりがまちに腰を降ろして、母と話していた。母は、玄関の障子を開けて、畳に正座する形で応対した。どことなく不安な面もちだった気がする。誰だって、刑事がやってきたらそうだったろう。
その時、よく覚えているのは、母が「うちのは、地下足袋は履きませんから」と言ったことだった。これは後から僕が意味づけたのだろうけど、事件現場で犯人のものらしい足跡が見付かり、それが地下足袋だったという。それだけの証拠で、刑事は我が家にやってきたのだ。
父はタイル職人の親方をしていた。毎日、建設現場にいきタイルを貼る。その当時は、若い衆を何人も使っていた。朝になると、我が家の前には五、六人の若い衆が集まった。そんなに上品な町ではなかったから目立ちはしなかったけれど、今ならけっこう異様な光景かもしれない。人によっては、その道を避けるかもしれない。
でも、彼らはみんな気のいい人たちだった。親切だったし、礼儀正しくもあった。口の悪い人もいたが、気持ちはすっきりした人ばかりだった。僕のことを可愛がってくれたものだった。後年、中上健次の「枯木灘」などを読んですんなり理解できたのは、彼が書く肉体労働者の世界が身近だったからだろう。
春になると、父は若い衆を連れて花見にいった。家族も一緒だった。そんなに荒れることはなかったが、若い職人の集団である。上品なはずはない。喧嘩騒ぎは記憶にないけれど、若い女性に声をかけたりはしたかもしれない。そんな時、周囲からは僕たちが何となく差別的に見られているのを意識した。
刑事が地下足袋の足跡を決め手にして、我が家に聞き込みにきたと知った僕も差別されているような意識を持った。地下足袋→建設現場の労働者→いつも若い衆が集まっている胡散臭い家、そんな連想をして聞き込みにきたのじゃないか、と僕は思った。
正直に言うと、その頃、僕は家業に引け目を感じていた。学校で仲良くなり遊びにいった友人宅は、四国電力など地元のエリート企業や森永乳業など有名企業の勤め人の家が多かった。また、四国銀行など固い勤め先の家もあった。彼らの上品な家が眩しかったのは事実だ。
ある日、僕は仲の良かったYクンの家へ遊びにいった。いつものように門扉を勝手に開けてYクンの部屋へ直接いこうと庭に足を踏み出したとき、お母さんの声が聞こえた。「あの子の家は、何やってるか知ってるの」と母親は言った。「毎日、怖そうな人が集まってるのよ。チンピラみたいな…」と聞こえたところで、僕は踵を返した。
それが僕のことを言っているのだと、すぐにわかった。Yクンは二学期に転校してきたばかりだった。父親は銀行勤めで、転勤が多かったのだ。僕は、クラス委員をしていて、Yクンの面倒を見るように先生に命じられ、仲良くなった。しばらくして、家に遊びにこないかと誘われて、頻繁にYクンの部屋にいくようになっていた。
お母さんは、僕がクラス委員をしている優等生だと聞いて、最初は歓迎してくれた。僕が頻繁に通ったのは、いくたびにお母さんが出してくれるオヤツが目当てだったこともある。しかし、その優しいYクンのお母さんが、「チンピラみたいな人たちが集まる家」と言ったのだった。
僕が地下足袋の足跡を証拠に我が家に聞き込みにきた刑事に差別意識を感じたとき、思い出したのはYクンのお母さんの言葉だった。刑事が立ち去るのを待って、僕は彼の方に小石を投げたのを今でも覚えている。もちろん、当たるようには投げなかったし、何も起こりはしなかった。
あのとき、僕は「偏見に凝り固まった大人にだけはなるまい」と誓った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
今年も残すところ二ヶ月。11月は僕の生まれ月です。「いいえ、私は蠍座の男…、お気のすむまで笑うがいいさ」というのが、昔からの気に入りのフレーズです。笑われてばかりの人生でした、という程でもないけれど、やっぱりけっこう笑われて生きてきたなあ。瀬戸内沿いの関西文化圏に育つと、人に笑われるのが平気になるのでしょうか。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
角川文庫から発売になった大沢在昌さんの「天使の爪」上下巻に解説を書かせていただきました。四百字で11枚ほども書いたのに、もう少し書きたいことがあります。もっとも読者は、くどい解説は迷惑でしょう。「天使の牙」「天使の爪」と続くシリーズは、読み始めたらやめられないことは保証します。
小説宝石」7月号に大沢在昌さんとの対談が載りました。「ハードボイルドがなければ生きていけない」というタイトルです。大沢さんの話の間に僕が「そうですね」と言っているだけのような対談ですが、大沢さんの映画やミステリへの愛がうかがえて面白いですよ。
豊川悦司の役が管理官というものだった。これは捜査本部を統轄する役らしい。その上に理事官が存在する、というのは北芝さんの本で知った。管理官は職階的には警視が当たるらしい。例によって、現場の捜査員とキャリア組との確執にも重点が置かれている。
「犯人に告ぐ」の舞台は神奈川県であり、豊川悦司は神奈川県警の警察官である。最初に東京の警視庁との合同捜査が描かれ、警視庁と神奈川県警の確執が顕わになる。そのため捜査に失敗し、豊川悦司は左遷されるのである。左遷先は足柄だったと思う。
警視庁と神奈川県警の仲の悪さは有名で、他の小説でもずいぶん取り上げられている。警視庁の中では、本庁と所轄署の対立がよく描かれる。この辺は高村薫さんの小説にも詳しい。「レディ・ジョーカー」など、ほとんど警察内部の不祥事の隠蔽だけにページが費やされていた。
一般的に警察官僚の甲種国家公務員(キャリア)という存在が知られたのは、テレビドラマ「踊る大捜査線」によってだろう。キャリアの出世コースから外れ、所轄の生活安全課(生安)の刑事として活躍する鮫島が主人公の「新宿鮫」もキャリアについては詳しくなる。
最近の警察小説は、警察内部の組織小説の様相を呈していて、今野敏さんが吉川英治文学新人賞を受賞した「隠蔽捜査」は面白く読めたが、ほとんど犯罪現場に出ないキャリアの主人公が、警察内部の組織的な力学の中でもがく姿ばかりを描いている印象だった。
もっとも、「組織と個人」というのは近代文学最大のテーマだから、どれも現代人には切実に読める。特に、警察という組織は巨大であり、制約の厳しい世界なので、個人としての軋轢も大きいのだろう。よりドラマチックな設定ができるのだと思う。
●「天国と地獄」が描いた捜査本部のリアリティ
映画で、実際の警察の捜査活動に近い描き方をされていたのは黒澤明監督「天国と地獄」(1963年)だと、北芝健さんが書いていた。「天国と地獄」は、少し前にテレビドラマとしてリメイクされた。佐藤浩一の権堂金吾は三船敏郎より迫力はなかったが、よく頑張っていたと思う。
「天国と地獄」について書き始めると、また批判的になりそうだ。会社に「天国と地獄」が好きな若い人がいて、以前、僕がちょっと批判めいたことを言ったら、凄い勢いで反論されたことがある。僕は、基本的には好きな映画の話しか書かないようにしているのだが、権威になってしまった黒澤明だけはちょっと別だ。
「天国と地獄」を初めて見たとき、確かに捜査会議などのリアリティは凄いと感心した覚えがある。当時は、テレビドラマで「七人の刑事」などが人気があり、刑事の捜査は地味なイメージだったのだが、もっと大勢のチームワークで捜査が進められるのだとわかったものだった。
「天国と地獄」で僕が納得できないのは、犯人がわかったのに逮捕せず、そのため麻薬中毒者の女が殺されてしまうことである。警察が逮捕しない理由は、「誘拐だけで捕まえても死刑にできないから」だった。麻薬中毒の女は、警察に見殺しにされたのと同じだし、女を殺した誘拐犯を「これで死刑にできる」と戸倉警部(仲代達矢)はうそぶく。死んだ女を一顧だにしない。
ひねくれ者の僕には「子供を誘拐するような卑劣な犯人は死刑にしろ」というメッセージを、黒澤明が無邪気に単純に送っているように思える。犯人逮捕の瞬間、戸倉警部は勝ち誇ったように「これでおまえは死刑だ!」と叫ぶ。警察が犯人を裁くようになったらオシマイだ…と僕は思う。
「天国と地獄」では、犯人側のドラマは一切描かれない。彼の動機、犯罪に到るまでの事情、経過も何も見せない。彼は冷酷な誘拐犯であり、犯罪者としてしか登場しない。別に犯罪者に同情的に描けというのではないけれど、どんな人間にも生きてきた背景、犯罪に走る理由はあると思う。
ところで、実生活で警察官と接することがあると、なぜか人は緊張する。僕も同じだ。総務という仕事上、この一年でも何度か警察官と話す機会があった。その時にも緊張した。昔、自転車の無灯火運転で捕まったときのことなど、つい思い出してしまう。そう言えば、昔、一度だけ我が家に刑事が聞き込みにきたことがあった。
●刑事の偏見を感じた小学生の頃
僕がまだ小学生の低学年の頃だったろうか。あるいは、もう少し大きくなっていた頃だろうか。少なくとも、僕は十歳以下だったと思う。それでも、未だに覚えているのは、我が家に刑事がやってきた、という異常事態だったからだ。
それは、父が仕事にいって留守の昼間のことだった。母が刑事の応対をした。僕はどこにいたのか記憶にない。しかし、僕の記憶の中の映像では、開け放たれた玄関の外から、母が刑事と話しているのを見ている。「七人の刑事」と違って、やってきた刑事はひとりだった。
本当の年齢はわからない。かなり年輩の感じに見えた。くたびれたスーツを着ていた。ハンチングをかぶっていた記憶があるのは、後からの修正かもしれない。刑事は帽子をかぶっている、というイメージがあったからだ。「七人の刑事」の芦田伸介は、いつも帽子を頭に載せていた。
刑事は玄関の上がりがまちに腰を降ろして、母と話していた。母は、玄関の障子を開けて、畳に正座する形で応対した。どことなく不安な面もちだった気がする。誰だって、刑事がやってきたらそうだったろう。
その時、よく覚えているのは、母が「うちのは、地下足袋は履きませんから」と言ったことだった。これは後から僕が意味づけたのだろうけど、事件現場で犯人のものらしい足跡が見付かり、それが地下足袋だったという。それだけの証拠で、刑事は我が家にやってきたのだ。
父はタイル職人の親方をしていた。毎日、建設現場にいきタイルを貼る。その当時は、若い衆を何人も使っていた。朝になると、我が家の前には五、六人の若い衆が集まった。そんなに上品な町ではなかったから目立ちはしなかったけれど、今ならけっこう異様な光景かもしれない。人によっては、その道を避けるかもしれない。
でも、彼らはみんな気のいい人たちだった。親切だったし、礼儀正しくもあった。口の悪い人もいたが、気持ちはすっきりした人ばかりだった。僕のことを可愛がってくれたものだった。後年、中上健次の「枯木灘」などを読んですんなり理解できたのは、彼が書く肉体労働者の世界が身近だったからだろう。
春になると、父は若い衆を連れて花見にいった。家族も一緒だった。そんなに荒れることはなかったが、若い職人の集団である。上品なはずはない。喧嘩騒ぎは記憶にないけれど、若い女性に声をかけたりはしたかもしれない。そんな時、周囲からは僕たちが何となく差別的に見られているのを意識した。
刑事が地下足袋の足跡を決め手にして、我が家に聞き込みにきたと知った僕も差別されているような意識を持った。地下足袋→建設現場の労働者→いつも若い衆が集まっている胡散臭い家、そんな連想をして聞き込みにきたのじゃないか、と僕は思った。
正直に言うと、その頃、僕は家業に引け目を感じていた。学校で仲良くなり遊びにいった友人宅は、四国電力など地元のエリート企業や森永乳業など有名企業の勤め人の家が多かった。また、四国銀行など固い勤め先の家もあった。彼らの上品な家が眩しかったのは事実だ。
ある日、僕は仲の良かったYクンの家へ遊びにいった。いつものように門扉を勝手に開けてYクンの部屋へ直接いこうと庭に足を踏み出したとき、お母さんの声が聞こえた。「あの子の家は、何やってるか知ってるの」と母親は言った。「毎日、怖そうな人が集まってるのよ。チンピラみたいな…」と聞こえたところで、僕は踵を返した。
それが僕のことを言っているのだと、すぐにわかった。Yクンは二学期に転校してきたばかりだった。父親は銀行勤めで、転勤が多かったのだ。僕は、クラス委員をしていて、Yクンの面倒を見るように先生に命じられ、仲良くなった。しばらくして、家に遊びにこないかと誘われて、頻繁にYクンの部屋にいくようになっていた。
お母さんは、僕がクラス委員をしている優等生だと聞いて、最初は歓迎してくれた。僕が頻繁に通ったのは、いくたびにお母さんが出してくれるオヤツが目当てだったこともある。しかし、その優しいYクンのお母さんが、「チンピラみたいな人たちが集まる家」と言ったのだった。
僕が地下足袋の足跡を証拠に我が家に聞き込みにきた刑事に差別意識を感じたとき、思い出したのはYクンのお母さんの言葉だった。刑事が立ち去るのを待って、僕は彼の方に小石を投げたのを今でも覚えている。もちろん、当たるようには投げなかったし、何も起こりはしなかった。
あのとき、僕は「偏見に凝り固まった大人にだけはなるまい」と誓った。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
今年も残すところ二ヶ月。11月は僕の生まれ月です。「いいえ、私は蠍座の男…、お気のすむまで笑うがいいさ」というのが、昔からの気に入りのフレーズです。笑われてばかりの人生でした、という程でもないけれど、やっぱりけっこう笑われて生きてきたなあ。瀬戸内沿いの関西文化圏に育つと、人に笑われるのが平気になるのでしょうか。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
- 天使の爪 上 (1) (角川文庫 お 13-25)
- 大沢 在昌
- 角川書店 2007-07
- 小説宝石 2007年 07月号 [雑誌]
- 光文社 2007-06-22
- 天国と地獄<普及版>
- 三船敏郎;山崎努;香川京子;仲代達矢;木村功;三橋達也 黒澤明
- 東宝 2007-12-07
- おすすめ平均
- 黒澤明と横浜
- 隙のないシナリオによる重厚さが最高!
- リアリズム
- 前半の室内シーンに注目
by G-Tools , 2007/11/02