●深夜にタクシーで帰宅したとき
先日、久しぶりに都内からタクシーに乗って自宅まで帰った。自宅が遠いので、遅くなっても電車で帰るようにしているのだが、正月第一週の金曜日であり、僕にとっては個人的一周年の日だったので、午前三時まで呑んでしまったからだ。翌日は使いものにならなかった。
先日からタクシー代が値上がりしていたし深夜料金だったので、到着したときには二万円を出して釣りは二千円ほどだった。高速道路を突っ走るから、時間は四十分足らずで着いたが、根が貧乏性なのでタクシーに一万八千円を支払うと、さすがに酔いが醒める。
呑み友だちのIさんは、昔、僕が誘ったひと言で我が家の近くに引っ越してきたのだが、深夜にタクシーで帰宅することが増え、そのタクシー代で充分に高額な家賃が支払えると考えた末、そこを売却して月島にある超高層マンションに引っ越した。銀座からでも歩いて帰れる。
先日、久しぶりに都内からタクシーに乗って自宅まで帰った。自宅が遠いので、遅くなっても電車で帰るようにしているのだが、正月第一週の金曜日であり、僕にとっては個人的一周年の日だったので、午前三時まで呑んでしまったからだ。翌日は使いものにならなかった。
先日からタクシー代が値上がりしていたし深夜料金だったので、到着したときには二万円を出して釣りは二千円ほどだった。高速道路を突っ走るから、時間は四十分足らずで着いたが、根が貧乏性なのでタクシーに一万八千円を支払うと、さすがに酔いが醒める。
呑み友だちのIさんは、昔、僕が誘ったひと言で我が家の近くに引っ越してきたのだが、深夜にタクシーで帰宅することが増え、そのタクシー代で充分に高額な家賃が支払えると考えた末、そこを売却して月島にある超高層マンションに引っ越した。銀座からでも歩いて帰れる。
さて、明け方近くに自宅のドアを開けると、息子の部屋にはまだ電気が点いていた。自室に入って服を脱ぎ捨て、七時間ほど呑み続けたせいでフラフラになっている頭を振り「まあ、いいか。不義理を重ねていたかわなかさんにも久しぶりにお会いできたし」とつぶやいて、ベッドに入った。
ちょうど一年前の正月第一週の金曜日、僕の本が前年の暮れに書店に並び、解説を書いていただいたかわなかのぶひろさんと祝杯を挙げることになった。版元の編集者とデザイナーも一緒だった。そのときは、どうせ深夜になるだろうと思い、事前に新宿のビジネスホテルを予約し、当日、チェックインしてから酒場に赴いた。
翌日は深酒の名残で夕方までゴロゴロし、夜、フジテレビで放映された広末涼子主演「バブルへGO!!」(2006年)を見ていたら、1980年代末の盛り場でのタクシー争奪戦が描かれていた。そう言えば、二十年ほど前、忘年会が終わった深夜に渋谷駅前で一時間近く並んでタクシーを待った記憶がある。
タクシーと言えば、僕はすぐに「タクシー・ドライバー」(1976年)を思い出す。ロバート・デ・ニーロの出世作である。少女娼婦を演じたジョディ・フォスター、そのヒモを演じたハーヴェイ・カイテルの出世作でもある。監督のマーチン・スコセッシも「タクシー・ドライバー」で注目された。
あの映画はタクシー・ドライバーの視点でものを見せてくれたので、印象に残っている。夜の通りを流すシーンは、記憶に鮮やかだ。主人公が次第にモノマニアックになり、素肌に大きなショルダーホルスターをつけて鏡の前で早撃ちの練習をするシーンが有名になり、これを真似たシーンは松田優作の「遊戯」シリーズや「新・仁義なき戦い」などで見かけた。
タクシー・ドライバーを主人公に設定した映画ではジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」(1991年)も忘れがたい。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキという別の都市で、同じ夜に繰り広げられる五人のタクシー・ドライバーの物語だ。
都会の夜の孤独──タクシー・ドライバー主演の映画を見て、僕が共通して感じるのはそれだ。大勢の人がいる都会なのに、ひとりタクシーを運転していることで、都会の中の孤独がより強調されるのではないだろうか。盛り場で、歓楽街で人々が欲望を満たしているとき、タクシー・ドライバーは孤独に仕事をしているのである。
●タクシー・ドライバーたちの孤独
日本映画でタクシー・ドライバーを主人公にした作品というと、「月はどっちに出ている」(1993年)がある。この映画でルビー・モレノは映画賞をいろいろもらって、しばらくテレビなどでも見かけたが、今はほとんど見なくなった。フィリピンに帰ったような話も聞く。この映画が出世作になったのは、岸谷五朗である。今でもテレビドラマやCMで見かけることが多い。
「月はどっちに出ている」は監督が崔洋一、原作は梁石日の「タクシー狂操曲」であり、崔洋一と鄭義信が脚色している。この顔ぶれだからこそできたのだと思うが、日本映画で初めて在日コリアンを普通に描いた作品である。在日コリアンを描くとき、従来はタブーとされていたことを軽々と破っている。
在日コリアンの被差別問題は、取り立てて前面には出てこない。もちろん、様々なシーンでそれはうかがえるのだが、日本人監督が作ると声高に「在日コリアンへの差別」をうたいあげてしまいがちだ。しかし、それはない。ニュートラルなスタンスを感じる。
在日コリアンだろうが日本人だろうが同じ欲望を持つ人間なのだ、ということがストレートに伝わってくるコメディである。原作には、訳あって大阪から東京に出てきた梁石日が、タクシー・ドライバーをしながら体験したり見聞きしたことが面白おかしく綴られている。
道がよくわかっていないタクシー・ドライバーのエピソードが、映画版ではタイトルに使われた。彼は仕事を終えタクシー会社に帰ろうとすると、いつも方向がわからなくなる。会社の連絡係に電話すると、連絡係は「月はどっちに出ている」と訊ねる。その月を見ながら帰ってこい、と指示を出すのだ。
主人公(岸谷五郎)は梁石日自身だろう、在日コリアンの設定だ。彼のセックス相手はフィリピンからきて飲み屋で働く女(ルビー・モレノ)であり、他には在日外国人やヤクザなどが登場する。マイノリティを主人公にしている。社会の少数派であり、彼らの生きる姿をリアリティをもって描くことで、その背後にある社会的問題を考えさせる。この映画は、翌年の映画賞をほとんど独占した。当然だと思う。
「月はどっちに出ている」を見ると、日本のタクシー会社のシステムやタクシー・ドライバーたちの生態が真に迫って感じられる。ああ、なるほどそうなっていたのか、と僕は思い、あの頃の父も…と連想した。僕は、しばらくタクシーに平気で乗れなかったことがある。今でも、簡単にタクシーを使うことには後ろめたさを感じる。
タクシーに乗るのは贅沢なことだ、という母の教えが身に沁みていることが第一の理由だろうが、三十年ほど前にタクシーに乗ることが後ろめたかったのは、父がタクシー・ドライバーだったからだ。僕が大学を出て就職し結婚した後、父は家業を畳んでタクシー・ドライバーになった。
●車好きだった父が選んだ隠居仕事
僕がものごころついた頃、父はタイル職人の親方として若い者を十人近く使っていた。その後、職人の数は増減したが、僕が大学に入った頃でも数人のひとがいたと記憶している。しかし、夏休みや冬休みに帰るくらいだったので、その後の様子はよく覚えていない。
僕が大学を出て独立し、あくせく稼ぐ必要がなくなったと思ったのか、父は家業を畳んだ。誰も家業を継がないとわかったのと、その頃、会社組織にするかどうかを迫られたからだと思う。「十河タイル」と名乗っていたが、会社組織ではなく、何人かの職人が集まっていて父は単なる親方に過ぎなかったのだ。
車好きだった父は、初めて教習所に通い二種免許を獲得した(最初の免許は勝手に練習し、試験場に直接いって取ったらしい。昔は、みんなそうだった)。それからタクシー会社に就職した。当時、実家に電話したときに「隠居仕事や言うとったで」と母は言った。
子供の頃から振り返っても、その頃の僕は数えるくらいしかタクシーに乗ったことがなかった。多少遠くても歩いた。母が「タクシーは贅沢だ」とまったく乗らなかったこと、早くから自家用車があり遠くにいくときは父に乗せてもらったのが理由だ。
大学時代、タクシーに乗った記憶はない。もちろん、金もなかった。新宿で電車がなくなると、十二社通りを四十分ほど歩いて方南町の下宿に帰った。そのくせがあったので、会社に入った頃もよく歩いた。呑んで電車がなくなり、相変わらず方南町までフラフラと一時間近く歩いた記憶がある。
その後、引っ越して家が遠くなってからは、電車がなくなると始発まで待つようになった。当時、よく新宿ゴールデン街で一緒に呑んでいた先輩の女性編集者には「ソゴーくん、今日も始発ボーイ?」と言われたものである。しかし、早朝の駅には僕と同じような人ばかりいて、少し切なかった記憶がある。
正直に言うと、僕は父がタクシー・ドライバーであることを恥じていた。好況のとき、タクシー・ドライバーは不足するという。不況になると、タクシー・ドライバーの応募者が増えると聞いた。そんなタクシー・ドライバーに対する偏見が、僕の中にもあることを自覚していた。
だから、父の職業を訊かれると「タイル職人ですよ」と答えていた。僕は職人には、昔から敬意を持っているのだ。当時、僕は雑誌編集者だったが、「職人的な編集者だね」と人から言われることを目標にしていた。それは、僕にとっての最高の誉め言葉だったのだ。
あれは、就職して数年目のことだった。ある日、先輩たちと呑んで遅くなり、先輩のKさんが「俺のところに泊まれ」と言って僕をタクシーに連れ込んだ。Kさんの家は池袋の先で、タクシーに乗ってもそう遠くない。しかし、僕はタクシーに乗っている間、背もたれに背中をつけることができなかった。
初老の運転者さんだった。僕はずっと背筋を伸ばし、彼の背中を見ていた。しばらくしてKさんの自宅近くに着き、Kさんが金を払って降りた。僕は「お世話様でした」と声をかけて降りた。返事はなかった。Kさんが「ずいぶん丁寧だね」と言った。「父がタクシーの運転手をしているもので…」と、そのとき、なぜかすっと言葉が出た。
──職人さんじゃなかったっけ?
──家業は畳んだんです。
──それで、タクシーの中で妙に気を遣ってたのか。
あれから、長い長い時間が過ぎてゆき、今でも必ず「お世話様でした」と言って降りるけれど、僕はタクシーに一万八千円近く支払う人間になった。長く生きるとはそういうものかもしれないな、とも思う。僕も様々な経験を積んできたのだ。しかし、一方で何かをなくしてしまったような気もする。何をなくしたのかは、わからないけれど…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
昔、低血圧だったので安心していたら、このところよくめまいがし頭がクラクラする。医者にいったら「高血圧」との診断。確かに高い。下の数値が最大値だとちょうどいいくらいだった。瞬間湯沸かしと言われる性格を直さないとダメかもしれないなあ。しかし、体質は変わっても性格は変わらない?
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
ちょうど一年前の正月第一週の金曜日、僕の本が前年の暮れに書店に並び、解説を書いていただいたかわなかのぶひろさんと祝杯を挙げることになった。版元の編集者とデザイナーも一緒だった。そのときは、どうせ深夜になるだろうと思い、事前に新宿のビジネスホテルを予約し、当日、チェックインしてから酒場に赴いた。
翌日は深酒の名残で夕方までゴロゴロし、夜、フジテレビで放映された広末涼子主演「バブルへGO!!」(2006年)を見ていたら、1980年代末の盛り場でのタクシー争奪戦が描かれていた。そう言えば、二十年ほど前、忘年会が終わった深夜に渋谷駅前で一時間近く並んでタクシーを待った記憶がある。
タクシーと言えば、僕はすぐに「タクシー・ドライバー」(1976年)を思い出す。ロバート・デ・ニーロの出世作である。少女娼婦を演じたジョディ・フォスター、そのヒモを演じたハーヴェイ・カイテルの出世作でもある。監督のマーチン・スコセッシも「タクシー・ドライバー」で注目された。
あの映画はタクシー・ドライバーの視点でものを見せてくれたので、印象に残っている。夜の通りを流すシーンは、記憶に鮮やかだ。主人公が次第にモノマニアックになり、素肌に大きなショルダーホルスターをつけて鏡の前で早撃ちの練習をするシーンが有名になり、これを真似たシーンは松田優作の「遊戯」シリーズや「新・仁義なき戦い」などで見かけた。
タクシー・ドライバーを主人公に設定した映画ではジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」(1991年)も忘れがたい。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキという別の都市で、同じ夜に繰り広げられる五人のタクシー・ドライバーの物語だ。
都会の夜の孤独──タクシー・ドライバー主演の映画を見て、僕が共通して感じるのはそれだ。大勢の人がいる都会なのに、ひとりタクシーを運転していることで、都会の中の孤独がより強調されるのではないだろうか。盛り場で、歓楽街で人々が欲望を満たしているとき、タクシー・ドライバーは孤独に仕事をしているのである。
●タクシー・ドライバーたちの孤独
日本映画でタクシー・ドライバーを主人公にした作品というと、「月はどっちに出ている」(1993年)がある。この映画でルビー・モレノは映画賞をいろいろもらって、しばらくテレビなどでも見かけたが、今はほとんど見なくなった。フィリピンに帰ったような話も聞く。この映画が出世作になったのは、岸谷五朗である。今でもテレビドラマやCMで見かけることが多い。
「月はどっちに出ている」は監督が崔洋一、原作は梁石日の「タクシー狂操曲」であり、崔洋一と鄭義信が脚色している。この顔ぶれだからこそできたのだと思うが、日本映画で初めて在日コリアンを普通に描いた作品である。在日コリアンを描くとき、従来はタブーとされていたことを軽々と破っている。
在日コリアンの被差別問題は、取り立てて前面には出てこない。もちろん、様々なシーンでそれはうかがえるのだが、日本人監督が作ると声高に「在日コリアンへの差別」をうたいあげてしまいがちだ。しかし、それはない。ニュートラルなスタンスを感じる。
在日コリアンだろうが日本人だろうが同じ欲望を持つ人間なのだ、ということがストレートに伝わってくるコメディである。原作には、訳あって大阪から東京に出てきた梁石日が、タクシー・ドライバーをしながら体験したり見聞きしたことが面白おかしく綴られている。
道がよくわかっていないタクシー・ドライバーのエピソードが、映画版ではタイトルに使われた。彼は仕事を終えタクシー会社に帰ろうとすると、いつも方向がわからなくなる。会社の連絡係に電話すると、連絡係は「月はどっちに出ている」と訊ねる。その月を見ながら帰ってこい、と指示を出すのだ。
主人公(岸谷五郎)は梁石日自身だろう、在日コリアンの設定だ。彼のセックス相手はフィリピンからきて飲み屋で働く女(ルビー・モレノ)であり、他には在日外国人やヤクザなどが登場する。マイノリティを主人公にしている。社会の少数派であり、彼らの生きる姿をリアリティをもって描くことで、その背後にある社会的問題を考えさせる。この映画は、翌年の映画賞をほとんど独占した。当然だと思う。
「月はどっちに出ている」を見ると、日本のタクシー会社のシステムやタクシー・ドライバーたちの生態が真に迫って感じられる。ああ、なるほどそうなっていたのか、と僕は思い、あの頃の父も…と連想した。僕は、しばらくタクシーに平気で乗れなかったことがある。今でも、簡単にタクシーを使うことには後ろめたさを感じる。
タクシーに乗るのは贅沢なことだ、という母の教えが身に沁みていることが第一の理由だろうが、三十年ほど前にタクシーに乗ることが後ろめたかったのは、父がタクシー・ドライバーだったからだ。僕が大学を出て就職し結婚した後、父は家業を畳んでタクシー・ドライバーになった。
●車好きだった父が選んだ隠居仕事
僕がものごころついた頃、父はタイル職人の親方として若い者を十人近く使っていた。その後、職人の数は増減したが、僕が大学に入った頃でも数人のひとがいたと記憶している。しかし、夏休みや冬休みに帰るくらいだったので、その後の様子はよく覚えていない。
僕が大学を出て独立し、あくせく稼ぐ必要がなくなったと思ったのか、父は家業を畳んだ。誰も家業を継がないとわかったのと、その頃、会社組織にするかどうかを迫られたからだと思う。「十河タイル」と名乗っていたが、会社組織ではなく、何人かの職人が集まっていて父は単なる親方に過ぎなかったのだ。
車好きだった父は、初めて教習所に通い二種免許を獲得した(最初の免許は勝手に練習し、試験場に直接いって取ったらしい。昔は、みんなそうだった)。それからタクシー会社に就職した。当時、実家に電話したときに「隠居仕事や言うとったで」と母は言った。
子供の頃から振り返っても、その頃の僕は数えるくらいしかタクシーに乗ったことがなかった。多少遠くても歩いた。母が「タクシーは贅沢だ」とまったく乗らなかったこと、早くから自家用車があり遠くにいくときは父に乗せてもらったのが理由だ。
大学時代、タクシーに乗った記憶はない。もちろん、金もなかった。新宿で電車がなくなると、十二社通りを四十分ほど歩いて方南町の下宿に帰った。そのくせがあったので、会社に入った頃もよく歩いた。呑んで電車がなくなり、相変わらず方南町までフラフラと一時間近く歩いた記憶がある。
その後、引っ越して家が遠くなってからは、電車がなくなると始発まで待つようになった。当時、よく新宿ゴールデン街で一緒に呑んでいた先輩の女性編集者には「ソゴーくん、今日も始発ボーイ?」と言われたものである。しかし、早朝の駅には僕と同じような人ばかりいて、少し切なかった記憶がある。
正直に言うと、僕は父がタクシー・ドライバーであることを恥じていた。好況のとき、タクシー・ドライバーは不足するという。不況になると、タクシー・ドライバーの応募者が増えると聞いた。そんなタクシー・ドライバーに対する偏見が、僕の中にもあることを自覚していた。
だから、父の職業を訊かれると「タイル職人ですよ」と答えていた。僕は職人には、昔から敬意を持っているのだ。当時、僕は雑誌編集者だったが、「職人的な編集者だね」と人から言われることを目標にしていた。それは、僕にとっての最高の誉め言葉だったのだ。
あれは、就職して数年目のことだった。ある日、先輩たちと呑んで遅くなり、先輩のKさんが「俺のところに泊まれ」と言って僕をタクシーに連れ込んだ。Kさんの家は池袋の先で、タクシーに乗ってもそう遠くない。しかし、僕はタクシーに乗っている間、背もたれに背中をつけることができなかった。
初老の運転者さんだった。僕はずっと背筋を伸ばし、彼の背中を見ていた。しばらくしてKさんの自宅近くに着き、Kさんが金を払って降りた。僕は「お世話様でした」と声をかけて降りた。返事はなかった。Kさんが「ずいぶん丁寧だね」と言った。「父がタクシーの運転手をしているもので…」と、そのとき、なぜかすっと言葉が出た。
──職人さんじゃなかったっけ?
──家業は畳んだんです。
──それで、タクシーの中で妙に気を遣ってたのか。
あれから、長い長い時間が過ぎてゆき、今でも必ず「お世話様でした」と言って降りるけれど、僕はタクシーに一万八千円近く支払う人間になった。長く生きるとはそういうものかもしれないな、とも思う。僕も様々な経験を積んできたのだ。しかし、一方で何かをなくしてしまったような気もする。何をなくしたのかは、わからないけれど…
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
昔、低血圧だったので安心していたら、このところよくめまいがし頭がクラクラする。医者にいったら「高血圧」との診断。確かに高い。下の数値が最大値だとちょうどいいくらいだった。瞬間湯沸かしと言われる性格を直さないとダメかもしれないなあ。しかし、体質は変わっても性格は変わらない?
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!