●朝日新聞の書評欄に載った辻真先さんのミステリ
今朝(2008年4月6日)の朝日新聞の読書欄のトップは、辻真先さんの「完全恋愛」の書評だった。もっとも、作者名は牧薩次(まき・さつじ)になっているが、これは「つじ・まさき」のアナグラムだとすぐにわかる。作者は「32年生まれ。アニメ脚本家、作家」と紹介されていた。
辻さんが、ずいぶん前からミステリを書いていて高い評価を受けていることは知っていたが、僕は一冊も読んだことがない。辻真先さんと言えば、僕らの世代にとっては、マンガ原作者でありアニメの脚本を書く人であった。テレビアニメ「サザエさん」の第一回目の脚本も辻さんだという。
その辻さんが「日本冒険小説協会」の会員らしいことは、昨年の25周年記念会報誌「鷲(イーグル)82号」に寄稿した辻さんの文章を読んで知っていた。ちなみに、82号には逢坂剛、大沢在昌、川又千秋、北方謙三、桐生祐狩、今野敏、佐々木譲、西村健、馳星周、平山夢明、福井晴敏、藤田宣永、船戸与一、宮部みゆき…といった綺羅星のごとき作家たちが寄稿している。

辻さんが、ずいぶん前からミステリを書いていて高い評価を受けていることは知っていたが、僕は一冊も読んだことがない。辻真先さんと言えば、僕らの世代にとっては、マンガ原作者でありアニメの脚本を書く人であった。テレビアニメ「サザエさん」の第一回目の脚本も辻さんだという。
その辻さんが「日本冒険小説協会」の会員らしいことは、昨年の25周年記念会報誌「鷲(イーグル)82号」に寄稿した辻さんの文章を読んで知っていた。ちなみに、82号には逢坂剛、大沢在昌、川又千秋、北方謙三、桐生祐狩、今野敏、佐々木譲、西村健、馳星周、平山夢明、福井晴敏、藤田宣永、船戸与一、宮部みゆき…といった綺羅星のごとき作家たちが寄稿している。

僕が気にしたのは、咳き込んで相部屋の人に迷惑をかけることだった。夜中に隣の布団で咳き込まれたら僕だってイヤだ。点滴をして薬を大量にもらったが、不安は去らない。さらに受付をして指定された部屋へいって驚いた。部屋のドアに貼ってある名前は、「佐々木譲、辻真先、十河進」だったのである。
大会の宴は9時頃には終わり、その後は明け方まで続く二次会になる。僕は咳がおさまらなければ、10時くらいの新幹線で帰ろうと考えた。自宅でひとりで寝ているのなら、いくら咳き込んでも迷惑にはならないし、気が楽だ。あるいは、二次会で明け方まで呑んで、そのまま帰るという手もあるなと考えたものである。

辻さんは、昨年の会報誌に「25周年の3倍の年齢」と書いてあった。今年で76歳になる。テレビ、アニメ、ミステリの世界で半世紀以上、活躍してきた人である。しかし、辻さんがNHKの演出家としてスタートしたことは、僕も最近まで知らなかった。
●「バス通り裏」の演出家だった辻真先さん

昭和33年(1958年)は、東京タワーが完成した年として有名である。僕の叔父が結婚して四国から東京と熱海に新婚旅行にいき、お土産に東京タワーの模型の文鎮を買ってきてくれたことがあるけれど、あれはまさにその時代だったのだろう。昭和33年とは、東京タワーが徐々に天空に延びていった年なのだ。
その年の4月から「バス通り裏」はスタートし、翌年の3月まで一年間放映された。生本番ドラマだから、いろいろなことがあったと思うけれど、僕はそんなに熱心に見ていなかったので、詳しくは憶えていない。それに、まだ我が家にテレビがなかった頃だから、どこかで見せてもらったのだろう。

その頃は、「一億総白痴化」という批判があったように、テレビ番組に対する風当たりは強かった。当時、小学生だった僕の印象では、しょっちゅうPTAが騒いでいた印象がある。「あの番組はダメ、この番組はダメ」と槍玉に挙げられる番組ばかりだった。


僕は今も思い出す。小学生の時に担任教師に「みんな、どんなテレビを見ているのか」と調べられ、「怪傑ハリマオ」と答えた生徒は叱られ、「お笑い三人組」と答えた生徒は誉められた。担任の教師は「あれは、先生とこでも家族で見てるよ、ええ番組やね」と言った。僕は、どうしても納得できなかった。
●NHK少年ドラマシリーズ「ふしぎな少年」の思い出
辻さんのNHK時代の演出作品に「ふしぎな少年」があるという。同名の手塚治虫のマンガがテレビドラマと併行してマンガ雑誌に連載された。テレビドラマは、昭和36年(1961年)の4月から翌年の3月まで夕方に放映されていた。これはテレビドラマの企画が先行し、それを手塚治虫がマンガにしたといういきさつらしい。
当時、僕は小学4年生だった。テレビドラマとマンガの両方を見ていた記憶がある。「ふしぎな少年」の主人公(太田博之)は時間をとめる能力を持ち、危機に陥ると「時間よ、とまれ」と叫ぶ。途端に、主人公以外の人々はストップモーションになり、彼だけがとまった時間の中で動き出す。「時間よ、とまれ」というセリフは当時の流行語になった。
昭和36年の4月からは、NHK連続テレビ小説の第一作目「娘と私」も始まっている。当時は一年間続くドラマだった。「おはなはん」が大ヒットして連続テレビ小説の名を高めるのは5年後のことである。また、同じ4月からNHKのヒット番組になった「若い季節」と「夢で逢いましょう」がスタートした。

「夢であいましょう」に遅れること二か月、6月4日の日曜日の夕方、日本テレビ系列で「シャボン玉ホリデー」が始まった。エンディングテーマでザ・ピーナッツが歌う「スターダスト」が、もしかしたら僕が初めて意識したアメリカン・スタンダードナンバーだったかもしれない。
振り返ってみると、僕が鮮明に覚えているのは昭和36年以降のことが多い。その前年に起こった60年安保は何のことかまったくわからず、ただ「アンコ反対」と言いながら悪友たちとおしくらまんじゅうをするだけだったし、同じ年、浅沼稲次郎が刺される写真を見たことはあるが、やはりその意味は理解できなかった。
昭和36年は、47年前のことになる。その頃、まだ二十代だった辻真先さんはNHKディレクターとして「ふしぎな少年」を企画し演出していた。四国高松に住む10歳の少年は欠かさず「ふしぎな少年」を見ていたし、時間をとめる能力が自分にあったらなあ、と夢想していた。
それから長い長い時間が過ぎ去り、2008年3月末、僕は熱海金城館・別館5階の部屋の前に立ち、途方に暮れていた。佐々木譲さんは「警官の血」で旬の作家だし、30年近い作家生活で数十冊の作品を持つ人である。ただ、佐々木さんは僕のひとつ年上だから同世代だし、25年ほど前に一度だけ酒席で同席したこともある。
だからといって緊張しないわけではないが、僕の生まれた頃からテレビの世界で活躍し、「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」「巨人の星」「タイガーマスク」といったアニメを作ってきた大御所である辻真先さんと同室だと思うと、さらに緊張は高まった。
しかし、その夜、結局、辻さんは現れなかった。聞いたところによると、大会前に一度顔を出し、「仕事で参加できなくなりました」と挨拶をして帰ったそうである。わざわざ熱海まで…と思ったが、辻さんの仕事場は熱海にあるのだという。なるほど、それなら…と納得した。
ということで、雑誌の締め切りを抱えながらも仕事場の北海道から熱海までやってきた佐々木譲さんとふたりだけの相部屋になってしまった。佐々木譲さんについては、以前「真夜中の遠い彼方に…」(No.348)で書かせていただいたが、穏やかなとてもいい人で自作についても気さくに話してくれた。

また「真夜中の遠い彼方」を原作とした「われに撃つ用意あり」(1990年)は、佐々木さんとしても好きな映画らしく、今でも見ることがあるという。僕が大学の助教授と思っていた小倉一郎の役は「予備校の教師です」と訂正された。僕があるセリフを言うと「よく憶えてますね」と感心された。
そんな話をしながら、午前2時近くになった頃だろうか、僕らは寝ることにした。「咳き込んでご迷惑をかけるかもしれませんから」と断り、咳が出たときに飲めるように枕元に水のボトルを置く。佐々木さんが電気を消し、僕は真っ暗な天井を見つめた。しばらくして、佐々木さんの寝息が聞こえ始めた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
4月になったと思ったら、早くも一週間ほどが過ぎてしまいました。この原稿が載るのは11日だから、もう中旬です。桜も散っていることでしょう。先日、初めて神田明神にいったら桜の木の下で大勢の人が酒盛りをしていました。ライトアップされた桜は満開でした。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>

- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
ものすごい読み応え!!