映画と夜と音楽と…[374]裏切りという犬や不幸せという猫がいる
── 十河 進 ──

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●タイトルだけで見にいきたくなった映画

ここ数年に公開された映画の中でタイトルだけで見にいきたくなったのは、何と言っても「あるいは裏切りという名の犬」(2004年)だった。「裏切りという名の犬」だけでもタイトルとしては成立するが、「あるいは」と付けたところにセンスを感じた。ちょっとそそるタイトルである。

これは日本の配給会社の仕事だ。この映画を見て、昔のフランス製フィルム・ノアールを連想した。フィルム・ノアールの神様ジャン・ピエール・メルヴィル監督は「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切りだ」と言ったが、「裏切り」というフレーズが入るだけで内容を期待させる何かがある。

この映画の原題は単に「36」であるらしい。スクリーンでも「36」としか出てこない。「36」とはパリ警視庁があるシテ島のオルフェヴル河岸36番地のことだ。かのメグレ警視も勤めていた場所である。日本で「桜田門」と言えば警視庁をさすが、パリっ子たちはパリ警視庁を「36」と呼んでいるのだろうか。


主演はダニエル・オートゥイユ。僕の大好きなフランスの俳優だ。最初に見たのは「愛と宿命の泉/フロレット家のジャン」(1986年)だった。第二部「愛と宿命の泉/泉のマノン」では初めてエマニュエル・ベアールを見た。後にふたりは結婚し「愛を弾く女」(1992年)という名作で再び共演した。

ダニエル・オートゥイユは喜劇からシリアスドラマや恋愛映画、刑事映画までこなす演技派である。ダウン症の青年と共演したジャコ・ヴァン・ドルマル監督作品「八日目」(1996年)の演技も忘れがたい。これでカンヌ映画祭主演男優賞を獲得した。パトリス・ルコント監督の「橋の上の娘」(1999年)のナイフ投げ芸人の役も印象に残っている。

「愛と宿命の泉」でダニエル・オートゥイユは屈折した悪人を演じ、ジェラール・ドバルデューが善人を演じた。ところが「あるいは裏切りという名の犬」では、ジェラール・ドバルデューが権力欲の権化のような役をやっている。フランス一の名優という評判だが、独特の鼻をしたあくの強い顔である。

もっとも、ダニエル・オートゥイユも決してハンサムではない。「愛と宿命の泉」では醜い容貌に対するコンプレックスが性格をねじ曲げ、他者への悪意を抱えている複雑な役だった。ピノキオのような鼻と鋭い目が目立つが、「あるいは裏切りという名の犬」の敏腕警視役には、その容貌が合っていた。

ところが、「あるいは裏切りという名の犬」は刑務所の独房のベッドでダニエル・オートゥイユがさめざめと涙を流すシーンから始まる。そのシーンは映画の後半になってから再び出てくるが、そのシーンの謎が映画への興味を掻き立てる。期待を抱かせる。

余談だが、映画が始まってすぐに出てくるバーの豊満なマダムに見覚えがあると思ったら、何とミレーヌ・ドモンジョだった。1950年代から60年代にかけて活躍した肉体派女優である。一時期はブリジッド・バルドーと張り合った。19 38年生まれだから、66歳のときの出演。相変わらずの金髪が美しい。

彼女が最初に人気が出たのは「女は一回勝負する」(1956年)だった。僕が見たのは十代になってからだけれど、ビキニ姿のグラマーぶりにウブな少年の頭はクラクラした。フランスで人気があった作家ハドリー・チェイスの原作で、十八番の悪女ものだった。

●現場で職務をまっとうする男と権力志向の男

パリ警視庁にふたりの警視がいる。次期長官候補だ。レオ(ダニエル・オートゥイユ)は部下たちからの人望もあり、率先して先頭に立ち抜群の実績を誇る。現長官は彼を後任に推しているが、レオ自身はそのことに執着はしていない。組織の中の出世より、現場にいたいタイプなのだ。

もうひとりのドニ(ジェラール・ドパルデュー)は、何が何でも長官になることを欲している。権力を握らなければ何もできないと思っている。レオが指揮するBRI(探索出動班)とドニがトップであるBRB(強盗鎮圧班)は、警視庁内部で互いに対立する部署であり、メンバー同士も会話をしないほど反発し合っている。

パリでは現金輸送車強奪事件が多発していた。機関銃や爆薬を使った手荒いやり方で一年半のうちに7件も同じ手口でやられている。何人も殺されたのに手がかりがない。長官はレオとドニに特別命令を下す。ドニは、どんな強引な手を使ってでも強盗団を逮捕しようとする。そうすれば、自分が長官になれると思っている。

レオは違う。殺人と強奪を繰り返す強盗団が許せないのだ。だから、今は服役中の情報屋から「仮釈放前の特別外泊でパリにいる」と呼び出されて会いにいく。きれい事だけ言っていたのでは犯罪者は捕まえられないと、彼にはわかっている。泥をかぶっても、職務をまっとうしようとする覚悟が彼にはある。

情報屋はレオの目前で人を殺し「俺のアリバイを証言すれば、強盗団の隠れ家を教える」と交換条件を出す。レオはその取引を呑み、強盗団の情報を入手する。情報屋は自分を警察に売ったギャングのボスを射殺したのだ。暗黒街に棲む人間同士の殺し合いにすぎない、強盗団を捕まえる方が重要だ。レオは、そう考えたのかもしれない。

レオは部下たちと強盗団を包囲する。しかし、レオの指示を無視したドニの介入で長年の同僚を射殺される。ドニは調査委員会に査問されることになり焦る。しかし、ドニはレオが情報屋と取り引きしたことを探り出し、反撃に出る。その結果、レオは殺人の共犯として逮捕され、ドニは過失はなかったと放免される。ドニは晴れて長官の地位を手に入れる。

権力欲に凝り固まり汚い手を使ってライバルを陥れる男、自分が泥まみれになっても職務をまっとうしようとする男、観客はどちらに感情移入するだろうか。もちろん、後者だろう。だが、組織の中で後者のような生き方を貫くことが、果たしてできるものだろうか。

●「組織と個人」というテーマさえナンセンスな現代

「組織と個人」というテーマは、近代文学のテーマである。戦後、特に重要なテーマになったのかもしれない。組織が個人に大きな影響を与えるようになったからだろう。開高健の初期作品に「巨人と玩具」という短編がある。昔、誰かの評論で、その作品のテーマは「組織と個人」だと読んだことがある。その小説は昭和32年に発表になっている。

その頃に比べて、組織は一段と増殖し拡大している。力も持った。どんな人間にも自分に大きな影響力を持つ組織の存在があるのではないか。組織に縛られ、同時に組織に守られて生きている。だから、人は組織から離れられない。組織を頼る。個人の自由より組織の価値観を優先する。自分を殺す。諦める。耐える。現代では「組織と個人」というテーマを問うことさえナンセンスだ。

最近、日本でも警察小説が大流行だが、ある出版社の編集者に聞くと「小説を読まない中年層が読んでいる。複雑な組織の中で生きるヒーローという設定が受けているようです。組織の中の自分を仮託して読まれているのかもしれませんね」とのことだった。

警察小説が組織を描いた小説として読まれている理由は、警察が巨大な組織であり、保守的な体質を持ち、階級制度が明確であり、ちょっとしたミスが命取りになり、本音とタテマエが使い分けられる世界だからではないだろうか。組織の堕落が明らかになるたびに幹部たちが頭を下げるが、相変わらず裏金作りなどの噂はなくならない。

そんな矛盾だらけの組織の中で、犯罪者を捕らえるという当たり前の仕事を貫こうとする孤高のヒーローたちが中堅サラリーマンの心を捉えるのかもしれない。だが、「あるいは裏切りという名の犬」のヒーローであるレオは7年の懲役刑になり、ドニは警視長官になる。警察組織の中の矛盾は、フランスでも同じだなと僕は映画を見ながら思った。

組織には権力闘争がある。本人がそんな世界から降りていたとしても、巻き込まれてしまう。結局、政治的な立ち回りのうまい人間が、組織の中の階段を順調に登っていく。警察の本来の職務である犯罪者を逮捕する仕事で優秀さを発揮しても評価されず、捜査の方法に多少でも違法性があれば組織からは責められる。

多くの人がそんな組織に息苦しさを感じている。それでいて、現実の人生を生きる人たちは、ドニのような生き方を否定しきれない。レオのように組織の中のポジションを気にせず、仕事に邁進するだけという生き方はできない。なぜなら、いい仕事をしようと思ったら、組織の中のポジションを上がらなければならないからだ。

どんな組織にもランクがある。階級と言ってもいいし、序列と言ってもいい。組織の実態は、個人の集積である。トップの人間がいて、次のランクの人間たちがいる。さらに、その下のクラスの人たち…というように広がっていく。そして、そのランクを上がるに連れて見えてくるものが違う。権限が広がる。決定権が得られる。もちろんそれに相当する責任も…。

そうしたランクアップと経験の集積は比例する。様々な経験をしランクがアップすると、人は視野が広がるものだ。いつまでも現場にこだわり、現場から離れない人間には見えないものが見えてくる。だから、僕は一概にランクアップをめざすことを否定はしない。ランクアップを目的にしたくないだけだ。職務をまっとうし、結果としてランクアップする。それでいいと思う。

トニのように長官になることを目的にし、汚い手を使って同僚を陥れたりすることの醜悪さは誰でもわかる。レオのように職務をまっとうした結果、評価され人望を得て長官に推されることが健全なのだ。そんな人間が評価される組織であってほしいと誰もが思っている。

しかし、多くの組織はそんなに風通しはよくないし健全ではないという諦念が、現在の警察小説の流行を作り出しているのかもしれない。どんな組織も理不尽な部分を持っているし、組織的意志という不可解な怪物が跋扈する。だが、諦めるな、個人的意志を通すべきときは通せ、主張しろ、僕はそう言い聞かせる。

ちなみに「あるいは裏切りという名の犬」のタイトルを見たとき、浅川マキの「ふしあわせという名の猫」という歌を思い出した。作詞は寺山修司。しかし、それ以前にテネシー・ウィリアムズの名作「欲望という名の電車」がある。ヴイヴィアン・リーとマーロン・ブランドでの映画化作品(1951年)もあるし、杉村春子の文学座公演も有名だった。

あれは「欲望という名の電車」に乗って、「絶望という名の街」に着くのだったかな? いやいや、物語はニューオリンズの街が舞台だった。そういえば、「希望という名のあなた」を訪ねて、あてのない旅に出た人もいたなあ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
連休があけたのに風が冷たい。Tシャツに綿の長袖シャツを着ていても寒い。いつもならTシャツ一枚でいい季節だ。しかし、シャツの裾を出したままのスタイルは楽だが、今では裾をズボンに入れている方がおかしく見えるのはなぜだろう。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12
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starものすごい読み応え!!

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by G-Tools , 2008/05/16