●人気者の香里奈が演じた十河五月というヒロイン
会社の管理部門に移ってから、仕事の役に立つかもしれないと思い、ついでに運動不足が解消されるかもしれないと淡い期待を抱いて、4年前からゴルフを始めた。52歳の手習いである。先日も会社のコンペで、印刷会社や用紙会社の人たちと一緒にラウンドしてきた。結果はグロス最下位だった。
ゴルフを終わって呑むことがほとんどなので、ゴルフバッグは往復宅急便で送る。ゴルフ場に着いてバッグから靴を出そうとマスター室に見にいくと、いつもバッグは「た」行のところに置かれている。名札をつけているのだが、「十河」を「そごう」とは読めないからだ。
会社の管理部門に移ってから、仕事の役に立つかもしれないと思い、ついでに運動不足が解消されるかもしれないと淡い期待を抱いて、4年前からゴルフを始めた。52歳の手習いである。先日も会社のコンペで、印刷会社や用紙会社の人たちと一緒にラウンドしてきた。結果はグロス最下位だった。
ゴルフを終わって呑むことがほとんどなので、ゴルフバッグは往復宅急便で送る。ゴルフ場に着いてバッグから靴を出そうとマスター室に見にいくと、いつもバッグは「た」行のところに置かれている。名札をつけているのだが、「十河」を「そごう」とは読めないからだ。
先日のコンペのときも「た」行にあり、ゴルフバッグをカートに移すので運びにきたキャディさんに「そごう、と読みます」というと、「えっ」と驚かれ、「難しいですね。読めませんね」と言われた。「そごう」という音がわかりづらいらしく、メモを覗き込むと「そうご」とルビを振られていた。
毎回、キャディさんとの最初の会話は名前についてである。最近は、「崩壊したデパートですよ」と言ってわかる人が少なくなった。「初対面の人とは、名前の話題で始まるから得なんです」などとお茶を濁している。先日は、ラウンドを終えて宅急便の手配にいきカウンターの美人に「そごうです」と言ったら、「えっ」と天地がひっくり返るほど驚かれた。

ところが、映画を見ると「トカワ・サツキ」と言っている。主人公の二ツ目の落語家(国分太一)が「俺の本名はトヤマなんだ。トカワとトヤマ、合い言葉みたいだな」などと言う。五月役の香里奈はずっと「トカワ」と呼ばれ、おまけに「トカワクリーニング」とカタカナで書かれた看板まで出てくる。
えーっ、と僕は思った。今までも「トカワさん」と呼ばれることが多く、たまに「トガワさん」と言われる。この映画がヒットしたら、ますます「そごう」と呼ばれなくなるぞ。だいたい「十河」を「トカワ」と読む人には会ったことないぞーっ、と僕はスクリーンに異議申し立てをした。
今までに「十河」を「とうごう」と読む人、「そがわ」と読む人には会ったことがある。僕の故郷では「そがわ」は「十川」と書いた。もっとも、「十川」と書いて「そごう」と読ませる人もいたからややこしい。小学校では「十河」は学年に数人いたし、「十川」も何人かいた。
もしかしたら「しゃべれども しゃべれども」の原作では「十河」を「そごう」と読ませているのかもしれない。映画化するときに耳に届きやすいように「トカワ」としたのじゃないか。「トカワ」と音で聞くと、妙に印象的だ。香里奈はずっと「トカワ」と呼ばれ、その呼び方が耳に残る。
「しゃべれども しゃべれども」の原作者は佐藤多佳子さん。「一瞬の風になれ」がベストセラーになり、昨年、本屋さん大賞を受賞した。「しゃべれども しゃべれども」は十年ほど前に出た小説で、現在は新潮文庫に入っている。その解説によると、「本の雑誌年間ベストワン」になったという。
僕は新潮文庫を調べてみた。何とご丁寧に「十河五月」に「トカワ・サツキ」とルビまで振ってあった。気になって佐藤多佳子さんの経歴を調べたら1962年の東京生まれだった。やっぱりなぁ、と溜息をつく。「十河」の字面で「トカワ」と読む人がいたとしても少数派だ。東京生まれの人には字面が珍しいので、ヒロインの名前に採用したのかもしれない。
●落語家の話し方教室にやってきた奇妙な生徒たち
今昔亭三つ葉という二ツ目の落語家がいる。師匠の今昔亭小三文(伊東四朗)の落語が好きで弟子入りし、古典落語を極めることを目標にしている。かたくなに古典落語しかやらないと決めている。若いが、いつも着物だ。ある日、師匠のお付きでカルチャーセンターの話し方教室にいく。
そのセミナーにきていた若い女トカワが師匠の話の途中で怒ったように出ていったことに腹を立て、廊下の途中で呼び止める。話のいきがかり上、自分たちの落語会を聴きにこいということになるが、当日、最前列の真っ正面の席でトカワが怒った顔で睨んでいるのを見て、三つ葉の落語はボロボロになる。
トカワはとりつく島もなく、不機嫌な顔で生きている。「どうして怒ってるんだ?」と三つ葉が聞くと、「こういう顔なの!」とぶっきらぼうに答える。彼女の言葉は細切れで、会話が成立しない。「トカワ」「なに?」「トカワ・サツキ」「はあ……」「私の名前」という具合だ。
だが、話し方教室にくるぐらいだから自分の話し方の能力を改善しようという意志はあるのだ。三つ葉は、近所の知り合いから頼まれた少年とトカワを生徒にして話し方教室を始めることになる。少年の方は大阪から引っ越してきて、大阪弁をからかわれているのだという。
しばらくすると、もうひとりの生徒(松重豊)が加わる。元プロ野球選手で、引退後、解説者をやっているのだが、解説がしどろもどろになるので会話を習いたいという。彼は本音でものを言うと的確な指摘をするし、選手への悪態では活き活きとしたしゃべりになる。「それをテレビで言いなさいよ!」とトカワに突っ込まれる。
そのトカワはほうづき市の日に、自分が会話がうまくできず好きな人に振られたのだと三つ葉に告白する。涙を流す。「あんたなんか、人を好きになったことないでしょ!」と、いつものように睨みつける目の怒りモードではあったけれど…。トカワの涙を見て、三つ葉の心が騒ぎ始める。そう、これはとても不器用な人間たちの恋愛映画なのだ。
ところで、彼らは会話教室で「饅頭こわい」を練習する。一方、師匠から「一門会をやる」と言われた三つ葉は、「『火焔太鼓』をやりたい」と宣言し稽古を始めるが、「そんなんで、どうするんだ」と師匠に呆れられるほどひどい出来だ。「火焔太鼓」は、古今亭志ん朝師匠が十八番にしていた古典落語の演目である。
●好きなことをして喰っていければ最高か?
「しゃべれども しゃべれども」は、売れない落語家の青年の話でもある。彼は、落語が好きで好きでたまらない。しかし、「少しは売れたかい」と近所のおばさんに問いかけられ「いや、まだまだ」と答えると、「ずっとまだまだだねえ」と冷やかされる。
彼は、きんきらの派手なジャケットを着て司会をしたり、アルバイトで稼がないと喰えない状態だ。テレビに出るほど売れていないし、都内に四つしかない寄席では若手の仕事はあまりない。逆に小屋を借りて仲間たちと早朝発表会を行い、持ち出しになったりする。
噺家としては喰えないのだ。二ツ目仲間のひとりは、「俺、噺家やめようと思うんだ」と飲み屋でつぶやく。三つ葉には下町に家があり、祖母がいる。祖母にデート資金の借金を申し込むが「身内に貸すと返ってこないからね」と拒否されながらも、生活のベースはできている。だから、まだ好きなことをやっていられる。
夢とは、シンプルに言えば自分の好きなことをして生活できることだ。「しゃべれども しゃべれども」を見ながら、そんなことを思った。もしかしたら、金があり遊んで暮らせる生活の心配がない人間は、好きなことをやっているとしても充実感はないかもしれないな、とも考えた。
好きなことをしてメシが喰えるためには、その好きなことが人に認められなければならない。人に認められた結果、お金になり、生活ができる。プロになれたということだ。生活の心配がなく好きなことをやっていても、人に認められないのなら、それは単なる趣味でしかない。自己満足だと言われる。
そうか、だとすると夢が叶うとは、人にその能力を認めてもらうことだ。より多くの人に認められれば、より大きな夢が叶う。歌手になる、女優になる、俳優になる、落語家になる、作家になる、アーチストになる、漫画家になる、イラストレーターになる、写真家になる、映画監督になる……、今や様々な夢が様々な人々の胸に宿る。
「しゃべれども しゃべれども」の三つ葉は、自分が好きだから落語をやっているのだが、話し方教室を続ける中で、しゃべることは人に聴いてもらうことなのだと理解する。落語は一方的にしゃべり観客は聴くだけだが、そこには観客側の聴こうとする姿勢がないとコミュニケーションは成立しない。
自分が好きでしゃべりたいだけなら、プロではない。人を楽しませなくてはならないのだ。人に認められるような名人上手にならなければならない。三つ葉は「自分がしゃべりたいだけなら、壁にでも向かってしゃべってな」と師匠に言われるが、人に聴いてもらえることが噺家になることなのだと理解する。
しかし、人に認めてもらうのは簡単ではない。だから、多くの人が夢の途中で挫折する。才能がないのだと絶望する。諦める。生活のために妥協する。そのためか、夢を諦めない人間が輝いて見えるときがある。多くの青春映画で夢に向かって生きている若者たちが描かれるのは、多くの人がそんな人間でありたい、ありたかったと苦い気持ちを抱いているからではないか。
僕にも夢はあった。今もなくしたわけではない。昔は、自分の本を一冊出せればいいな、と思っていた。そのささやかな夢は叶った。おまけに賞をいただくというオマケまでついた。その関係で有名作家と対談したり、愛読する作家の文庫解説を書かせてもらったりした。数年前には、想像もできなかったことだ。
だが、実現すると夢は夢でなくなる。そこから先がつらいのだと、僕は知った。中途半端に叶った夢は、中途半端に僕を責める。好きなことでメシは喰えないけれど、酒くらいなら多少は呑めるかもしれない。だが、そんな状態は希望もなく絶望もない煉獄にいるような気分だ。それを乗り越えるためには、何かを続けるしかない。僕の場合は、書き続けることだった。
三つ葉も改めて思う。「前より落語が好きになった」と…。自分に才能があるかどうかはわからない。だが、落語が好きなのだ。売れなくても、喰えなくても本物の噺家になることをめざして、三つ葉は落語をやり続けるだろう。人は何かの目標や希望がないと生きていけない。それを「夢」と呼ぶらしい。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
花粉症がひどいので長らく布団を干していなかった。五月半ばの初夏の天候になった日曜日、布団を干し掃除をした。アストラッド・ジルベルトを流しながらだったので、作業はテキパキとは進まない。やはり、ボサノバは倦怠の音楽のようだ。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
受賞風景とその動画です。
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>

- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
ものすごい読み応え!!