●関川夏央さんと川本三郎さんの新刊は「昭和」もの
5月に出た関川夏央さんの新刊「家族の昭和」(新潮社)を書店で探してもなかなか見つからなかったので、アマゾンで検索したら川本三郎さんの「向田邦子と昭和の東京」(新潮選書)もヒットした。「この本を買った人は、こんな本も買っています」という例の奴だ。川本さんの本も4月に出たばかりだった。アマゾンは確かに商売上手である。
関川さんの新刊は出ると必ず買うけれど、川本さんの場合はテーマと値段によって選択買いすることが多い。どちらにしても、関川さんと川本さんの本は僕の書棚で一段を占めている。それに、今回はふたりとも向田邦子さんについての本だ。買わないわけにはいかない。
幸いなことに、僕は向田邦子さんのドラマもエッセイも小説も同時代で体験できた。すべての本を読んでいるし、亡くなってから出た弟の保雄さんが書いた「姉貴の尻尾」や妹の和子さんが書いたものも読んでいる。数年前には「向田邦子の恋文」という本が出て、これも読んだ。
もちろん向田邦子さんのドラマを演出し続けた久世光彦さんの「触れもせで」も読んだ。向田邦子さん関連の書籍は多いが、半分以上は読んでいる気がする。僕は向田さんが編集者として勤めていた雄鶏社の「映画ストーリー」の編集後記をまとめたものさえ読んでいる。ここまでくると、完全な「おっかけ」に近いファンだと思う。
向田邦子さんのドラマを最初に見たのは「七人の孫」(1964年)だった。デビューしたばかりのいしだあゆみが可愛かった。ラジオで森繁久彌の「重役読本」もけっこう聴いていた。それが向田邦子さんの仕事だと知るのは、ずっと後のことである。向田邦子という名前を意識したのは、「だいこんの花」(1970年)だったか、「寺内貫太郎一家」(1974年)だったか、その頃のことだと思う。
しかし、明確に「向田邦子」という名前でドラマを見たのは「阿修羅のごとく」(1979年)だった。今でも耳について離れない、あのトルコの行進曲…。タイトルバックから流れる、あの曲と共に八千草薫の夫の浮気を疑う沈んだ表情が甦る。娘の役は、まだ少女だった荻野目慶子だった。
その頃の「家族熱」「冬の運動会」「幸福」「蛇蝎のごとく」「あ・うん」などは、"向田邦子のドラマ"として見た。特番のドラマだった「隣りの女」は、どちらかと言えば向田さんの小説のドラマ化という意識で見た。桃井かおり、根津甚八、浅丘ルリ子が出演した大人のドラマだった。
印象深いシーンはいろいろとあるし、記憶に残るセリフも多い。「家族熱」では、先妻の残した食器類を少しずつ壊し、何年もかかってすべて入れ替えた現在の妻の心境が「女性作家らしい繊細なセリフ」で伝わってきた。後妻の役は、浅丘ルリ子。彼女をかばう血のつながらない息子が三浦友和だった。
「隣りの女」では、壁越しに聞こえてくる谷川岳までの電車の駅をひとつひとつ言ってゆく根津甚八のセリフ(?)が忘れがたい。隣りの女(浅丘ルリ子)のあえぎ声などという通り一遍のものではなく、男がひとつひとつリズムを刻むように数えていく駅名だけで、盗み聞きをしている主婦(桃井かおり)の心が騒ぎ始めるのが伝わる。名人の技だった。
●生きていれば今年で80歳になる向田邦子さん
向田邦子さんが今も生きていれば、今年で80歳になると川本三郎さんが書いていた。ちょっとショックだった。80の向田邦子さんは、とても想像できない。キリッとした表情で少し顎を上げた美しいポートレートが、今も出版社のサイトに掲載されている。ちょっと怖そうな、厳しそうな女性である。
昭和4年(1929年)、現在の東京都世田谷区若林で向田邦子さんは生まれた。昭和55年(1980年)に直木賞を受賞し、その翌年の夏、台湾で航空機事故に遭い亡くなった。岸本加代子の思い出話だったろうか、台湾旅行に出かける直前、「加代子、今度は『続々あ・うん』やるからね」と言ったという。岸本加代子が演じた「あ・うん」のさと子は、向田邦子さん自身だった。
向田邦子さんは満51歳で亡くなった。あの夏、台湾で旅客機が墜落したニュースは、乗客名簿に「ムコウダクニコ」の名があったと判明した頃から大騒ぎになった。僕もひどく衝撃を受けたのを覚えている。愛読する作家であり、熱心にそのドラマを追っかけた脚本家であり、そして何より名エッセイストだった。
僕は向田邦子さんのエッセイの中で、彼女が父親の転勤で一時期、高松市に住んでいたことを知った。鹿児島時代の後であり、東京に戻る前である。自宅は高松駅の近くだった。自宅の二階から見下ろすと、玉藻城の広い庭で兵隊が訓練していたというエピソードが書かれていた。向田邦子さんは10代半ば。向田さんを少し身近に感じた。
向田邦子さんは、高松の県女に通っていた。戦後、近くにあった高松中学と合併して新制の高松高校になる。僕の高校時代、ある教師から「この校舎は昔、県女だったから生徒の身体が冷えないように母性保護の観点から床下におがくずを詰めているんだ」と聞かされた。僕は、向田さんが学んだ同じ校舎で学んでいたのかもしれない。愛読者としては、そんな他愛のないことも嬉しかった。
昭和50年、彼女が直木賞を受賞した年。僕は出たばかりの「幸福」という短編を読んだ。自分のわきがを気にしているヒロインの視点から物語が始まる。いきなり恋人に抱かれるシーンだった。彼女は自分の恋人が、かつて姉と関係があったのではないかと疑っている…、そんな小説だった。大して長くはない。
しばらくして、「幸福」はワンクール続く連続ドラマとしてTBSに登場した。岸恵子の姉に中田喜子の妹、旋盤工の恋人は竹脇無我、その妹が岸本加代子、岸本加代子のボーイフレンドに本間優二と登場人物は増え、物語は発展していた。岸恵子は、昔、竹脇無我の兄の恋人だったのだが、兄は岸を捨てて出世のために上司の娘と結婚した。その結婚式の日、たった一度だけ竹脇無我は岸と寝たのだ。
面白かったのは、姉妹の父親役の笠智衆である。昔は校長先生をつとめた男だが、今はどこかの観光地で若い女(藤田弓子)と暮らしている。彼らは一時預かり所を経営しているのだが、少し惚けた笠智衆が客の荷物を開けようとして困る、と女が姉妹に訴える。名優・笠智衆の惚け老人の演技が印象的だった。今から思い出しても贅沢なキャスティングだったと思う。
竹脇無我の兄は、物語が後半に入ってもなかなか登場しない。誰が演じるのか気になった。その妻が義弟を訪ねてきたりするのだが、視聴者を焦らすように兄はなかなか出てこない。とうとう山崎努の兄が登場したとき、僕は「おおっ」と声を出した。それに、津川雅彦が演じた岸の幼なじみの中年男も印象的な役だった。魅力的な中年男たちを描くのは、向田さんの十八番である。
●テレビ版「あ・うん」のふたりはバランスがとれていた
「あ・うん」は昭和55年(1980年)の3月にNHKで4回にわたって放映された。「続あ・うん」は翌年の5月から6月にかけて、やはり4回にわたって放映された。先ほども書いたように、向田さんは「あ・うん」の続編を書くつもりだったが、その2ヶ月後には不帰の人となったのである。
「あ・うん」は、ふたりの中年男の物語である。勤め人の水田仙吉と成功した実業家である門倉修造は、兵役にとられた時の寝台親友である。水田の妻たみは、ふたりの友情を見守りながらも門倉に惹かれている。水田は、そんなたみの気持ちを知っていて、「俺が死んだらたみを頼む」と水田は口にする。門倉の妻は、そんな3人に嫉妬し、水田の娘さと子は両親と門倉のおじさんの関係に大人の世界を垣間見る。
視点は、さと子に置かれる。さと子のナレーションが効果的に挿入されるのだ。最初のシリーズでは、さと子は観察者である。「続あ・うん」になって、さと子自身の物語が動き出す。見合いした相手と恋に落ちたさと子は、相手が熱中しているプロレタリア演劇に肩入れしたりする。
その恋人に徴兵令状が届き出征の挨拶に水田家にやってきたとき、怒る水田を制して門倉は「さと子ちゃん、今夜は帰ってこなくていいよ」と送り出す。はたでオロオロするたみに、門倉は力強くうなずく。このシーンを僕はよく憶えていて、門倉を演じた杉浦直樹の表情さえ思い出せる。
水田はフランキー堺、たみを吉村実子が演じた。フランキー堺と杉浦直樹というキャスティングは、実にバランスがとれていたと思う。若い頃、二枚目で売った杉浦直樹、若い頃にコメディアンとして主演作を何本も持っているフランキー堺。それに「豚と軍艦」(1961年)で注目されたが、しばらくテレビにも映画にも出ていなかった吉村実子。姉の芳村真理の方が有名だった。
周りの配役も豪華だった。華やかというより、贅沢なキャストである。芝居上手ばかりが的確な役に配置されていた。門倉の妻は岸田今日子、門倉の二号は池波志乃だった。水田とは不仲の父親役を志村喬が演じた。「続あ・うん」でさと子の見合い相手を演じたのは、若き永島敏行である。
当時、僕は30を目前にした時期だった。子供はまだいなかった。会社に勤めて6、7年たった頃である。水田も門倉も大人に見えた。だが、彼らの設定は43歳である。もちろん戦前の43歳は、今よりもっと大人だっただろう。しかし、今の僕と比べてもずっとずっと大人に思える。
「あ・うん」は、平成元年(1989年)に映画化が発表された。その話を聞いたとき、そして、主演が高倉健であり、久しぶりに映画に復活する藤純子がたみを演じると知ったとき、僕は複雑な気持ちになった。まず、テレビ版が素晴らしかったために、どんな映画もあれを越えられないだろうと思った。
それと同時に、僕らの前から引退という名で姿を消した藤純子が再び映画に出ることに関して納得がいかなかった。大学時代、級友のMは「さよなら、お竜さん」と泣き、同人誌に「彼女が結婚前に妊娠しているなんて嘘だ。本当だとしたら処女懐胎に違いない!」と悲鳴のように書いた。
藤純子は緋牡丹博徒「姓は矢野、名は竜子」であり、それ以外の何者でもなかった。彼女が高倉健と一緒に出る映画は「緋牡丹博徒・花札勝負」(1969年)の他にあってはならなかった。加藤泰監督の名作である。相合い傘をしたお竜さんと着流しの流れ者(高倉健)をローアングルで捉えた画面の奥を蒸気機関車が走りすぎる…。おお! 情感に充ちた名ショットよ!
そんな、お竜ファンを考慮したのかもしれない。藤純子は別人の富司純子(ふじ・すみこ)となって、僕たちの前に現れた。そして「新・網走番外地」シリーズ以来「冬の華」(1978年)「駅 STATION」(1981年)「居酒屋兆治」(19 83年)「夜叉」(1985年)と、まるで高倉健の専属監督のようになった降旗康男が「あ・うん」を撮ることになったのだ。
映画版「あ・うん」は、門倉修造の映画だった。水田を演じたのは板東英二。彼と富司純子が夫婦では、僕も納得がいかない。板東英二のコメディアンのような演技では、水田が軽すぎた。だから、よけいに高倉健演じる門倉の男としての華がスクリーンに咲き誇り、さと子(富田靖子)さえも門倉のおじさんになびいてしまいそうに見えた。
それでも、テレビ版では抑えに抑えられていたたみの門倉への思慕の念が、映画版では明らかにされたのだ。門倉が忘れていった帽子をかぶってふざけていたたみを、忘れ物に気付いてもどってきた門倉が見てしまう。そのシーンは、向田邦子さんのオリジナルではなく脚色だったけれど、「ああ、『あ・うん』とは、こういう話だったのか」と思わせた。中年男女が抑えに抑える、忍ぶ恋である。
その脚色を向田邦子さん自身がどう思うかはわからないが、自らも脚本家だった向田さんは笑ってすませるような気がする。それにしても、なぜ、あんなに中年男の心理を的確に描写できたのだろう。僕は、今では向田邦子作品の登場人物たちの年齢を上回る。いや、いつの間にか向田邦子さんの年齢を追い越してしまった。それでも、日々、惑うことばかりだ。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
先週の原稿で訂正メールをいただいた。「広島県加茂郡」は「賀茂郡」の間違いです。また「太陽を盗んだ男」では本物のお札はばらまかなかったとのこと。後者のご指摘は、エキストラとしてデパートの場面に出演した方でした。ありがとうございました。やはり、本物をまいたというのは後から作られた伝説だったか…、残念。それともう一点。「福井春敏」さんは「晴敏」さんです。いかんなあ、気をつけよう。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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