●ロンリー・ストリートのはずれにあるハートブレイク・ホテル
最初に誰の歌で聴いたのかは覚えていない。「恋に破れた!! 若者たちが!!」と日本語の歌詞で誰かが歌っていた。それがプレスリーの「ハートブレイク・ホテル」の日本語カバーバージョンなのだと知るのは後のこと。僕はまだ小学校の一年か二年生だった。
「ハートブレイク・ホテル」は、実際に自殺した若者の遺書からインスパイアされた曲である。作詞者のトミー・ダーデンは新聞に載った若者の遺書の中に「I walk a lonely street(僕はさみしい通りを歩いている)」というフレーズを見付け、一気に書き上げたという。
「ロンリー・ストリートのはずれにあるハートブレイク・ホテル」…そう歌われるとロマンチックな気分になるのだが、それが本当に自殺した若者のフレーズだと思うと、腰を振り脳天気にロカビリー調に歌うのを見ているのが何だか後ろめたいような気分になる。
この曲はエルビス・プレスリーの初めての全米ナンバーワン・ヒットになった。ビルボード誌では1956年4月21日号でトップになり、8週間その位置を守った。僕がエルビスのオリジナル「ハートブレイク・ホテル(失恋ホテル)」を初めて聴いたのは中学生になってからである。
しかし、「ハートブレイク」には「心臓破り」という意味もあるらしい。クリント・イーストウッドの監督主演作に「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」(1986年)という作品がある。「心臓破りの丘」とでも訳せばいいのだろうか。「ハートブレイク・ホテル」とはニュアンスがまったく違う。
「ハートブレイク・リッジ」を作った後、イーストウッドはタカ派と思われたこともあった。しかし、生粋のタカ派だったジョン・ウエインがベトナム戦争の正義を謳いあげるために、自ら監督した「グリーン・ベレー」(1968年)のような脳天気な単純さに彩られた映画ではない。
イーストウッドが演じる古参の軍曹はタフでアメリカ人が好む軍人タイプであるが、決して愛国心にこりかたまっている堅物ではない。軍隊内部では不良分子と見なされているし、杓子定規な上官とも衝突を繰り返す。彼は問題の多い小隊を担当し、だらけた若者たちを鍛え直す。
そして、突然、グレナダ侵攻が命じられる。アメリカ軍に所属するということは、いつ実戦が始まっても不思議ではないということである。老軍曹は鍛えた小隊を率いて戦いに出る。上官の命令を無視して攻撃をかける。当然のことだが、上官は怒り狂い「軍法会議にかけてやる」と怒鳴る。
しかし、話のわかる司令官がやってきて実戦派の軍曹の判断を支持し、上官の面目は丸つぶれになる。定石通りの展開だが、実に気持ちのよい終わり方だ。実戦を知らない若いエリート将校の頭でっかちの未熟さは、百戦錬磨の歴戦の兵士であるイーストウッドの経験に敗北するのである。
そのイーストウッドは、戦友と懐かしそうに「ハートブレイク・リッジに!」と乾杯する。それは朝鮮戦争のときの激戦地である。その丘の攻防で多くの兵士たちが死んでいった。そのとき、イーストウッドは英雄的な行為を行い、勲章をもらったのだ。
辞書によると「ハートブレイク」には「胸が張り裂けるような苦しみ、悲嘆、断腸の思い」としか出ていなかった。もしかしたら、「ハートブレイク・リッジ」というタイトルは、「心臓破りの丘」ではなく、「苦しみの丘」あるいは「失意の丘」「嘆きの丘」「傷心の丘」と訳すべきなのだろうか。
●落胆したとき「ハートブレイクだなあ」と言うのが口癖だった
僕が気軽に「ハートブレイクだなあ」と口にできるようになったのは、40を過ぎてからだった。年を重ねて厚かましくなったのだろう。何か落胆したときに「ハートブレイクだなあ」と言うのが一時の口癖だった。もっとも、女性に向かって言ったのは二回しかない。
ひとりは、社内の若い女性だった。彼女が結婚すると知って「それは、ハートブレイクだなあ」と思わず口をついて出たのだ。迂闊なもので、そのときに相手から「ありがとうございます」と言われ「あっ、俺が惚れてて、失恋したっていう意味か」と初めて気付いた。
もうひとりは、20年ぶりに会った昔のガールフレンドだった。もう13年前のことになる。1995年の6月、僕は会社の名札を貼ったボードに「センチメンタルな旅・梅雨の旅」と書いて旅に出た。アラーキーの写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」をもじったのだ。
確かに「センチメンタルな旅」だった。20年働き続けたおかげでもらった10日間のリフレッシュ休暇を利用してひとり旅に出るために、前年、僕は40を過ぎた身で屈辱に耐えて免許を取った。若葉マークが外れて数カ月後、僕は、車に着替えと本とワープロを積み込んで京都へ向かった。
初日は雨の東名高速を水しぶきをあげて突っ走り、浜松インターで降りて豊橋へ向かった。旧国道一号線を走っている途中、中田島砂丘の交差点で初めての追突事故を起こし、豊橋在住の写真家である八木さん宅に着くのが遅くなった。翌日、八木さん宅を出て豊川インターから高速に乗って京都に着いた。
京都の宿にたどり着くまでが大変だったが、宿に着いて最初に電話をしたのが高校時代のガールフレンドだった。彼女には、もう20年会っていなかった。最後に電話で話してからでさえ16年が過ぎていた。その16年間、僕は彼女から会うことを拒否されていたのだ。だが、その日、電話の向こうで彼女は言った。──もう昔のことは吹っ切れたみたいね。声が違う。会ってもいいかもね。
●式子内親王という風情からは最も遠いキャラクターだった
僕の高校時代のガールフレンドは、三姉妹の末娘だった。国文学を学んだ彼女たちの父親(高校の校長をしていた)は、娘たちに古風な名前を付けた。三女は式子内親王からとって式子である。僕は最初に会ったとき、何と読むのかわからなかったが、ノリコと読むのだと誰かが教えてくれた。
現実の彼女は皇女という風情からは最も遠いキャラクターだった。いや、女という存在から最も遠かったかもしれない。僕は彼女をひと目見た瞬間に興味を抱いたが、それは恋愛感情からではなかった(と、当時は思っていた)。その後、高校二年生になってから彼女とは親しい関係になるのだが、ほとんど同志という感じだった。僕にとって、彼女は女ではなかったのだ(と、当時の僕は思い込もうとしていた)。
僕は彼女の部屋で何度か泊まったことがあるが、そのときに男と女を意識したことはない。彼女の勉強部屋は豪華で作りつけの本棚に本がいっぱい並んでいた。階下には両親がいたけれど、彼女を信頼しているのか放任主義なのか、僕が泊まってもまったく心配していなかった。もちろん僕は、彼女には指一本触れなかった。そんなことをしたら彼女の平手打ちを喰らっていただろう。
彼女を初めて見たのは、高校一年の三学期だった。僕のクラスの授業中に生徒会の配布物を配るために、ガラッとドアを開けて教室に入ってきたのだ。そのとき、彼女の何が僕に作用したのかはわからないが、とにかく彼女は僕に強い印象を与えた。
彼女は誰もが振り返るほどの美人とは言えなかったが、不思議な魅力を持っていた。一度見たら忘れられない個性的な容姿、というのが誉め言葉になるかどうかはわからないが、そうとしか形容できない。おそらく、それは彼女の精神性が見事に外見に現れていたからだと思う。
特に動いている彼女は魅力的だった。歩き方に無駄がなかった。颯爽としたかっこよさがあった。それは彼女以外の誰も身につけていないスタイルだった。オリジナリティ──僕が感じたのはそれだったのかもしれない。15歳や16歳で、そんなオリジナリティを身に付けている人間は滅多にいなかった。ワン・アンド・オンリー、既視感を感じさせない女性。彼女のような女を、僕は初めて見た。といっても、たった16年間の人生においてであったけれど…
だが、高校を卒業し、京都の美術大学を出た彼女は長女を頼ってアムステルダムへいき、何年かして帰国するといきなり僕の知らない男と結婚した。京都でアルバイトしているときに知り合った年上の男だという。僕は落胆した。彼女は通俗的な結婚などする女ではないと僕は思っていたからだ。
●そう言えば、あれ以来「ハートブレイクだなあ」と言っていない
20年ぶりに会った瞬間、僕は相手がわからなかった。僕は真っ白になった彼女の髪を眺めた。まったく染めていないのだろう。「昔から飾らない女だったなあ」と僕は思いながら、その変貌にとまどった。
しかし、「肥ったわね、ソゴーくん」と、まるで高校時代のままのような言い方で彼女が口を開いた瞬間、20年の歳月が消えた。確かに、そこにいたのは40を越えた髪の真っ白い女だったが、僕が最初に惹かれた彼女の持つ何かは変わっていなかった。
それは何と表現すればいいだろう。人間性、個性、パーソナリティ…、どれもしっくりこない。それは彼女の内面からにじみ出している何かであり、個性的な外面で補強されていた何かである。歳をとり老けた外面に対して、今度は内面がそれを補強している。そんな印象があった。
それに較べて僕はどうだ。あのとき、電話で彼女に泣き言を言って以来、何かが変わったのだろうか。彼女は僕の情けなさに呆れ、僕の年賀状にさえ返事をくれなくなった。そのことに彼女の拒否の意志を感じて、僕も音信を断っていたのだ。
僕たちは植物園の入り口で待ち合わせをしていた。そのまま植物園に入り、ブラブラと歩き始めた。そのとき、既視感が起こった。かつて、同じようにこの植物園を誰かと歩いたことがある。あれは誰だったのだろう。大学時代によく京都にきていた頃のことだろうか。
「…ちゃん、元気?」と彼女が僕のカミサンのことを聞く。「ああ」と短く答える。「仲良くやってるんでしょ」と続ける。再び僕は「ああ」と答える。出発前にカミサンが「よろしく言っておいて」と言っていたと伝える。「復活したみたいね、ソゴーくん。ビールでも呑む?」と彼女が言う。
僕たちは植物園の中にあるレストランに入った。まだ午後3時を回ったばかりで、明るい陽光が大きなガラス窓から差し込んでいた。客は少なく、僕たちは窓際のテーブルに腰を降ろした。「ビール」と注文してから、周りを見るとアルコールを呑んでいる客は誰もいないようだった。
──あのときは、ハートブレイクだったんだよ。
そう言ったのは、グラスビールを何杯か呑み干した後だった。昔話の流れの中で彼女の結婚当時の話になっていた。僕の口から自然にそんな言葉が出たのだ。軽い気持ちだったし、今更の告白でもなかった。20年前の僕が口が裂けても言えなかったことが、スッと出てしまったことに驚いていた。
──ありがとう。
少し間をおいて、窓の外を見ながら彼女がつぶやいた。そのとき、僕が20年引きずっていた何かに決着がついた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
7月11日から兄と時期を合わせて高松に帰省。両親の結婚60周年だったかな。ということは、父母はいったいいくつになるのだろう。つもり重ねた不孝の数を何と詫びよか、お袋に…、と高倉健のように歌うしかない。すまないねぇ、とつぶやきながらも80半ばの両親が元気なのを感謝。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/07/18