映画と夜と音楽と…[384]あのときの…ちょっと切ないオヤジの味
── 十河 進 ──

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●38度の熱をおして四国まで飛行機に…

7月11日の朝、熱っぽいので体温計で計ってみたら38度あった。その日の12時半には高松行きの飛行機に乗らなければならないのに、これはまいったぞ、とため息をつく。しかし、38度の熱にしては、それほど躯は辛くない。何とかなるかと思い、準備をして早めに自宅を出た。

しかし、途中で何度か休んだせいか、羽田に着いたのは出発の30分前。食事も摂れずバタバタしているうちに飛行機に乗り込むことになった。自分の席だと思って座っていたら、あとからきた人が不審そうに見る。何だろうと睨んだら「何番の席ですか」と聞かれた。自分の番号を言うと「ひとつ前ですよ」とムッとされ、謝りながら慌てて移動した。



言い訳になるけれど、座席番号を追いながら廊下を進んでいたのだが、僕の席は中央のトイレのすぐ後ろの23番席で、トイレの前が21番、その列には22番がなかったのである。しかし、普段の僕なら、そんな間違いはしないはずだ(と思う)。やはり、熱で体調が悪かったのかもしれない。

世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション空路は快調で揺れもほとんどなく、1時間15分後には高松空港のロビーを歩いていた。「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年)で長澤まさみが倒れ、主人公が「だれか助けてください!」と叫んでいた空港である。そうか、世界の中心はここだったのか、と思いながら食事をどこでするか探していたが、高松築港行きのバスが出るというので乗り込む。

「YouMe Town」と書いて「夢タウン」と読ませる郊外型アウトレットが栗林公園の手前にできている。僕はそこでバスを降りて、とりあえず遅めの昼食を摂ることにした。どこかにセルフサービスのうどん屋はないかと探したが、レストラン街しか見あたらない。仕方なく一軒の茶屋風の店に入り、うどんがついた釜飯定食を頼んだ。

最近、東京でも駅構内にセルフサービスの讃岐うどんのチェーン店が進出し、僕も時々食べている。讃岐うどんは、安くなければならないというのが僕の信条で、会社の近くにけっこう高い値を付けた讃岐うどん店がオープンし、昼になると人が並んでいるけれど、僕は絶対に入らない。ポリシーとして許せないのだ。

セルフの店に入り「ひと玉」とか「ふた玉」と注文する。昔は「シングル」とか「ダブル」と言った。うどんは自分で湯通しする。昔は汁も自分でかけたものだが、さすがに東京のセルフの店ではそこまではやらさない。40年前、高校の食堂のうどんは25円で、町中のうどんは50円だった。今でも秋葉原駅構内では「ひと玉」のかけうどんが190円で食べられる。高松なら150円だ。

そんなことを思いながら、釜飯定食の添え物のかけうどんを食べたのだが、さすがに本場である。うまい。添え物とは思えない。しかし、食べている途中から何となく味がはっきりしなくなった。気がつくと躯がダルく、熱っぽい。釜飯を残し、早々にタクシーに乗って実家へ向かった。

実家に着くと、兄がもうくつろいでいた。大阪に住んでいる兄は梅田まで20分ほどで出られる。そこのバスターミナルから四国行きのバスに乗ると、明石大橋を渡り実家の近くまで高速道路で一直線である。3時間あればくるという。羽田まで2時間かかる僕とはずいぶんな差だ。しかし、年に一度しか帰省しない僕と違って、何度も帰っている。やはり、元気だとはいえ80半ばの両親が長男として心配なのだろう。

さて、体温計を借りて計ると、やはり熱が38度ある。躯は確かにダルかったが、そんなに熱があるとわかった途端、急に躯の節々が痛み始めた。二階に上がってソファに横たわる。そのままうつらうつらしていると、夕方近くになって母親が「トマト、とりにいくからつきあえ」と階段を昇ってきた。

近所に小さな畑を作っていて、今頃はトマトがとれるらしい。僕は母親と一緒に出かけることにした。熱は、まったく下がっていない感じだった。梅雨は完全に明けていて、夏の日差しだ。夕方とはいってもボーッとする熱気である。外部からの熱気なのか、体内の熱なのかわからないまま、フラフラと母親について歩いた。

母親と収穫してきた自家製トマトは、形も悪くて小さい。皮も固そうだし、赤くない。それを台所で洗ってスライスした。そのまま食べると、昔のトマトの味がする。よくソースをかけて食べたものだ。リビングのソファに座って見ていた兄が「ススムは料理するのか」と聞く。「するよ」と答えると、「僕は料理したことないな。どうやるか、まったくわからん」と言う。ええっ、と僕は驚いた。

●愛する人に料理を作り共に食べる幸福感が描かれる

食べることは、人間が生きる基本である。食べることは愉しい。食欲がなくなったら死ぬしかない。しかし、僕は、グルメ映画があまり好きではない。食べ物にこだわりウンチクを聞かされるのは、自分がそんな高価な食事をできないからという理由もあるが、好きになれない。グルメブームには懐疑的だ。ミシュランが紹介する店は、別世界の話である。

だから、料理に関係する映画を思い出そうとしても、あまり浮かばない。「麗しのサブリナ」(1954年)のパリの料理学校のシーンはどちらかというとジョークだし、ヒッチコックも料理シーンを使ったがサスペンスを盛り上げる小道具だし、日本映画に至っては「料理」をテーマにしたものはあったっけ? という状態だ。

ブルジョワジーの密かな愉しみ食と性がテーマの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972年)や「コックと泥棒、その妻と愛人」(1989年)はグロテスクだし、「料理長(シェフ)殿、ご用心」(1978年)は見ていない。そんなことを思いめぐらしていたら「マーサの幸せレシピ」(2001年)というドイツ映画が浮かんだ。とても好きな映画だが、そんな人が多かったらしく、ハリウッドがキャサリン・ゼタ・ジョーンズ主演「幸せのレシピ」(2007年)としてリメイクした。

マーサの幸せレシピ勝ち気でプライドの高い女性シェフ、マーサ。彼女はレストランの厨房という世界の女王であり、すべてを支配したいのだ。だが、姉が事故死し姪のリサを引き取ることになる。リサの父親はイタリア人だが、すでに別れている。リサを引き取らせようと彼女は手紙を出す。キャリアを積むことをめざす自立した女には、子供は重荷である。そのことを、リサも敏感に感じている。なじまない。反発する。

リサを引き取ったために、マーサは学校への送り迎えをしなければならない。以前のように仕事に専念できない。また、妊娠したサブのシェフの代わりに人を雇わなければならなくなるが、そのことも彼女を苛立たせる。レストランのオーナーが雇ったのは、イタリア男のマリオ。彼はメイン・シェフとして厨房を切りまわせるキャリアとスキルを持っているが、サブであることにこだわらない。

マリオを演じているのが「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)のトルナトーレ監督が作った「明日を夢見て」(1995年)の主人公の詐欺師を演じていた俳優。いかにも…といったイタリアのセクシー男で、ジャンカルロ・ジャンニーニの跡を継げるかもしれない。マーサを演じたマルティナ・ゲデックには、「善き人のためのソナタ」(2006年)で再会できた。知的で素敵な女優だ。

さて、イタリア男のマリオはいつも陽気である。鼻歌を歌っている。仕事も適当にやっているように見えるが、作る料理はみんなが絶賛するほどおいしい。彼は何事に対しても余裕がある。学校もいかず食事もしないリサを持て余し、ヒロインがとうとう厨房にリサを連れてこざるを得なくなっても、リサの相手を一番やってくれるのはマリオである。

リサは厨房が気に入る。マリオのおかげで食事も摂るようになる。マーサは何となくそれが気に入らない。マリオの料理より、自分が作る料理が上等だと思っている。だが、次第にマリオに惹かれていく自分を抑えきれない。とうとう男と女の関係になり、マーサは自宅でマリオの料理を堪能する。リサもその関係を歓迎し、疑似家庭が築けるかと思ったとき、手紙を受け取ったリサの父親が引き取りにくる。

イタリア人の父親には別の家庭があり、リサの腹違いの弟や妹もいるらしい。だが、妻も納得していると聞いて、マーサはリサを父親の手にゆだねる。ところが、リサが去った後、何か大切なものを失った空虚感が彼女を襲う。手のかかるリサを重荷に感じながらも、そのことが彼女の生活に充実感を与えていたのだ。マーサは、もうリサなしでは生きていけない。

マーサはマリオと共にドイツからイタリアに向けて、リサを迎えにいく。長い長いドライブの果てにイタリアに着いたとき、リサは彼女の腕に飛び込んでくる…。そう、割によくある話である。しかし、そんな通俗的な物語がマーサの作る料理の描写と共に展開される。いや、恋人のマリオの作る料理も微細に描写され、全編、食べることの幸せが謳歌される。

反面、苛立ち、精神が張りつめたまま作ったときのヒロインの料理が、客に拒絶されるエピソードも印象的だ。料理は幸福に愛情を持って作り、幸福に食べなければならない。映画はそんなメッセージを送ってくる。だから、印象的なのは、マリオが食材を両手に提げてマーサのアパートにやってくるところだ。

いつもは自分が料理を作っているのに、その日はマリオが解説をしながらイタリア料理を作ってくれる。リサも加わって手伝う。楽しそうな料理場面だ。それが終わって、三人で食事をするシーンの幸福感。さらに、食事の後の片付けさえ幸せそうに見える。マーサは料理を作る喜び以上に、愛する人間に作ってもらった料理を食べる歓びを知ったのである。その夜、マーサとマリオは結ばれる。

そんなシーンを見ると、ベッドインを期待するわけではないが、僕も好きな人に食事を作ってあげたくなる。そんなに凝った料理は作れないけれど、米を炊き、みそ汁を作り、魚を焼き、煮物を作り、サラダを添えるくらいは、いつでもできる。味に絶対の自信があるのは親子丼である。最近はあまり言われないが、昔、休日に「親子丼が食べたいなあ」とカミサンが言うときは、あんたが作れ、というサインだった。

●父親の手料理の薄味が記憶の底から甦る

料理は得意、とまでは言わないが、誰もいなければ自分で食べるものは自分で作る。朝食は、もうずっと自分で作っている。時間がある時は、ベーコンエッグを焼いてトマトサラダを作る。パンにスライスチーズを載せてトーストを焼き、コーンポタージュスープを溶く。さらに、コーヒーと野菜ジュースを添える。料理というには、簡単すぎるかもしれない。

時間がないときは、通勤途中、秋葉原駅構内の讃岐うどんコーナーで「かけの小」を頼む。僕は、自分でうどんが打てる。子供の頃に、母親が作っているのを見て覚えた。何人かに食べさせたこともある。出来は、そのときによって違うが、前の日に仕込んで、足で踏んできたえ、ひと晩寝かせて、翌日にゆでる。ゆで上がりを冷水で洗うと、うどんが輝く。美しい。だから「UDON」(2006年)という映画には、不満がいくつかある。

そんなことを考えると、僕は子供の頃から料理をすることに偏見はなかったし、抵抗もなかったのだろう。そう言えば、父もこまめに料理をする人だ。今でも父は抵抗なく台所に入り、母親と並んで喧嘩しながら食事の準備をしている。僕が小学生の頃に母が長く入院したが、そのときに父親の手料理を食べた。大した料理ではなかったけれど、あの味は忘れられない。

10年近く前、カミサンが年末年始に数カ月入院した。その間、僕は子どもたちに食事を作って食べさせた。毎日、同じ料理だと栄養が偏るし飽きると思って、献立は工夫した。元旦には、下手な雑煮を作って、高校生の息子と中学生の娘の三人で初日の出を見ながら食べた。我が家はみそ味の雑煮で、丸餅を焼かずに煮込む。人参と大根をスライスして入れるというシンプルなものである。

あのときの雑煮の味が子どもたちの記憶に残っていたら、僕はとても嬉しい。あの頃のことを思うと、手術直後の管をいっぱい躯に通したカミサンを見て泣きだした娘の姿が浮かび、やりきれないほど切なくなる。だから、50年近く前、40前だった父が子どもたちのために作ってくれた、不器用な菜っぱの煮込みの味を思い出すと、父親の気持ちを想像し僕はちょっと涙ぐむ。母親が生還したときの嬉しさと共に、あの薄味が記憶の底から甦る。

それなのになぜ、兄はまったく料理をしない時代錯誤な男になったのか? 兄は「料理をしたことがない」のではなく、「料理ができない」のである。兄嫁がよくできた人とはいえ、来年、定年を迎える身には辛いことだと思う。兄ちゃん、妻がいつ帰ってこれるかわからず、ふたりの幼い男の子を抱えて、毎日、仕事で建築現場にいきながら作ってくれた、あのときの…、ちょっと切ないオヤジの味を憶えているか?

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
僕の回は、これでしばらく夏休みになるようです。8月後半から再開。1999年のデジクリ夏休み明けから連載スタートだったので、まるまる9年が過ぎてしまいました。9年で384回、1年平均で約43回。本にまとめてから、早くも80回も書いています。来年いっぱいで150回くらいたまるかな。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。
starものすごい読み応え!!

映画がなければ生きていけない 2003‐2006

by G-Tools , 2008/07/25