●毎週土曜日の夜の苦渋に満ちた選択
1974年10月5日から翌年の3月29日まで、毎週、土曜日になると僕の煩悶は繰り返された。ずいぶん昔のことだけど、今でもあのときの気分はよく憶えている。僕には三つの選択肢があり、そのどれもが魅力的だった。それは僕に好きな女の子が三人いて、誰を選べばいいのかといった単純な話ではなかったのだ。
その三つの選択肢すべてを選ぶ方法は、10年後にはソニーとビクターによって実現する。さらに30年後には、それらがDVDボックスで発売されるなどとは夢にも思わなかった。オイルショックが日本を襲い、街のネオンが消えた時代の話だ。午前0時になると日の丸を映し「君が代」を流して放映終了を告知していたNHKだけではなく、民放までもが深夜放送を自粛した。
僕は大学4年だった。オイルショックによる大不況によって、学生には就職難の時代である。あの頃、僕は何通の履歴書を書いただろう。志を得られずに鬱屈し、自分が社会にまったく求められていないのだと感じていた。そんな僕の楽しみのひとつが、土曜の夜だった。TBSで放映されていた「必殺」シリーズである。その頃は「暗闇仕留人」が放映されていたと思う。
1974年10月5日から翌年の3月29日まで、毎週、土曜日になると僕の煩悶は繰り返された。ずいぶん昔のことだけど、今でもあのときの気分はよく憶えている。僕には三つの選択肢があり、そのどれもが魅力的だった。それは僕に好きな女の子が三人いて、誰を選べばいいのかといった単純な話ではなかったのだ。
その三つの選択肢すべてを選ぶ方法は、10年後にはソニーとビクターによって実現する。さらに30年後には、それらがDVDボックスで発売されるなどとは夢にも思わなかった。オイルショックが日本を襲い、街のネオンが消えた時代の話だ。午前0時になると日の丸を映し「君が代」を流して放映終了を告知していたNHKだけではなく、民放までもが深夜放送を自粛した。
僕は大学4年だった。オイルショックによる大不況によって、学生には就職難の時代である。あの頃、僕は何通の履歴書を書いただろう。志を得られずに鬱屈し、自分が社会にまったく求められていないのだと感じていた。そんな僕の楽しみのひとつが、土曜の夜だった。TBSで放映されていた「必殺」シリーズである。その頃は「暗闇仕留人」が放映されていたと思う。

「傷だらけの天使」は10時からの放映、「暗闇仕留人」は10時半からの放映だったはずだ。だから、「暗闇仕留人」の後半は見ることができた。しかし、年が明けた1月からは必殺シリーズ中の最高傑作に挙げられる「必殺必中仕事屋稼業」が始まり、僕の煩悶は深まった。
さらに、拷問のような苦しみを僕にもたらせたのは、「傷だらけの天使」と同日に始まり同日に終わった完全な裏番組が「六羽のかもめ」だったことである。倉本聰のテレビ業界を背景にした名作である。だが、CMの間にチャンネルをフジテレビに切り替えても、ほんのワンシーンを見ることができただけだった。
後に僕は「六羽のかもめ」のシナリオを読んだが、倉本さん絶頂期の名作だと思った。若き高橋英樹を現代劇に使い、加東大介や中条静夫といった名バイプレーヤーが活躍するドラマを見たいと僕は切望した。倉本さんは料理番組に出た高橋英樹が魚の尾頭を逆に置いたことだけで、一時間のドラマを作り上げるという名人芸を展開する。
「必殺」シリーズも僕には見逃せないものだった。シナリオを書いていた早坂暁、監督をしていた工藤栄一、彼らが作り出す物語、映像が好きだったのだ。撮影はすべて石原興。若手キャメラマンだった石原興のテクニックは驚異的だった。ゆっくりとしたズーミングをしながらパンをする、そのリズムはテレビの映像ではなかったし、陰翳の深さが見事だった。
しかし、6チャンネルの「必殺必中仕事屋稼業」も8チャンネルの「六羽のかもめ」も棄て、4チャンネルにダイヤルを合わせさせる魅力が「傷だらけの天使」にはあった。ヘッドホンとゴーグルをし、革ジャンを着たまま寝ていたショーケンが目覚めて朝食を摂るオープニングシーンは、そのテーマ曲と共に伝説になった。
皮肉なことに、「傷だらけの天使」で自由に生きるチンピラのイメージで若者たちの憧れるライフスタイル(ああ、メンズ・ビギよ!)を作り上げたショーケンは、半年後、同じ日本テレビの「前略おふくろ様」にマジメで口べたな板前見習として出演する。それは、「傷だらけの天使」の裏番組を書き続けた倉本聰さんの最高傑作になった。
●「傷だらけの天使」のオサムの30数年後の姿

僕は以前から矢作俊彦さんの愛読者であることを表明してきたが、それは矢作さんの小説・エッセイ・マンガを読むと、同世代としての興味の在り方を感じて「わかる、わかる」という共感があるからだろう。要するに「趣味が合う」のだ。以前、月刊NAVIで矢作さんが「斎木犀吉が愛したクルマ」というコラムを書いていたが、斎木犀吉は僕の16の頃のヒーローだった。

さて、僕は「最後が泣ける」という中条省平さんのコメントを読んで「傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを」の単行本を買った。雑誌掲載のものを加筆訂正したとあるから、結局、その方がよかったと思うけれど、矢作さんもやはり「傷だらけの天使」が好きだったのだろうか。あのドラマを思い出すと、水谷豊が演じたアキラの「あにきぃ〜」という声が甦ってくる。

「ららら科學の子」は石原裕次郎主演の日活映画「二人の世界」(1966年)を下敷きにしている。「二人の世界」は殺人事件の犯人にされた主人公が時効直前に帰国し真犯人を探す物語である。「ららら科學の子」の名無しの主人公は偽造パスポートの名前を何にするか聞かれ、「フェリーノ・バルガス、だめなら北条修一にしてくれ」と言う。「二人の世界」で裕次郎が演じた名前だ。
「傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを」は、当然のことだが1975年3月29日に放映が終了した「傷だらけの天使」が下敷きになっている。物語は、30数年後、埼玉県近くの荒川土手でホームレスとして暮らしているオサムが目覚めるところから始まる。もちろん、朝食は「牛乳と食パンとコンビーフ」である。
オサムは、ことあるたびに昔のことを思い出す。それもアキラの死体をドラム缶に入れ、リヤカーに乗せて夢の島へ棄てたことを…。
●逆光で描かれた印象的なラストシーン
半年も続いたテレビドラマの最終回が印象的でないわけがない。「傷だらけの天使」は、様々なシーンを僕の記憶に残しているが、ことさら強く印象に残っているのは、ショーケンが演じたオサムが風邪から肺炎を併発して死んでしまったアキラの死体をドラム缶に入れ、リヤカーを引くシーンだ。
そのシーンは、逆光で撮られていた。ドラム缶を載せたリヤカーを引くオサムはシルエットだった。その逆光シーンが、アキラを死なせてしまった己への責めと後悔、たったひとり「あにきぃ〜」と慕ってくれたアキラの死に対する悲しみ、一度はアキラを棄てて海外へ逃げようとしたことの後ろめたさ、そんな諸々の感情を見る者に伝えてきた。
最終回の「祭りのあとにさすらいの日々を」は、工藤栄一監督の演出だった。逆光の好きな監督だ。逆光シーンは、工藤栄一印だった。工藤栄一監督が最初に「傷だらけの天使」を演出したのは、5回目の「殺人者に怒りの雷光を」である。オサムとアキラの仲間がひとりずつ殺されていくという話だった。
この回で有名なのは、岸田森が演じた辰巳が若者たちに代わって詫びを入れるとき、「これこの通り」といきなりカツラをとったことである。彼は頭を丸めていた。岸田森は独特の髪型をしているので、カツラだとは思っていなかったから僕は驚いた。しかし、実相寺昭雄監督の「あさき夢みし」(1974年)の撮影で剃髪したんだな、と僕は納得した。岸田森は法皇役を演じていた。
また、その回には何度か同じ逆光シーンが出てくる。雨上がりの夜のシーンだ。水たまりがある。路面も水たまりも夜の光を反映している。斜め俯瞰のカメラアングルだ。オサムやアキラが歩いてくる。光を反映する路面を背景にした逆光の中に、彼らのシルエットがゆらゆらと揺れるのである。
当時、時代劇からキャリアをスタートさせた工藤栄一監督は、映画が撮れない時期だった。「まむしの兄弟・二人合わせて三十犯」(1974年)の評判はよかったが、「その後の仁義なき戦い」(1979年)までの5年間、映画を撮っていない。その間、「傷だらけの天使」や「必殺」シリーズで映像を研ぎすませていたに違いない。

しかし、それでも工藤栄一が作った最も抒情的な逆光シーンは、「傷だらけの天使」最終回のラストシーンだと思う。夢の島に着いたオサムは、リヤカーの引き手を跳ね上げ、走り出す。アキラの死体を入れたドラム缶が転がる。それらは影絵のようなシルエットで描かれた。
アキラを亡くし、ひとりで走り出したオサムが、その後、どういう人生を送ったのか…。そのひとつの答えを、矢作俊彦さんは「傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを」で提示してくれる。そして、高倉健の「健」と菅原文太の「太」をとって「健太」と名付けられたオサムの息子の人生も…。
「傷だらけの天使」が放映されていた半年間に、僕の生活は大きく変わった。暮れに受験した出版社から年明けに面接の通知があり、一次、二次と通過した僕は1月下旬に「いつから出社できるか」と訊かれ、「卒業試験が終わって1週間もすれば…」と答えたら、2月12日から出社することになった。
それから一ヶ月ほどが過ぎた3月25日、会社員の身でありながら特別休暇をもらって、僕は大学の卒業式に出た。まだ大学が荒れている頃で、普通の教室で学科ごとに集まり卒業証書を受け取るだけだった。ひとりだけ振り袖を着てきた女子学生は、ジーンズ姿の目立つクラスメイトの中では明らかに浮いていた。
「傷だらけの天使」の最終回が放映された1975年3月29日の夜、僕は大学の卒業証書を眺めながら、自分の学生生活を振り返っていた。東京に出てきて5年が過ぎていた。18だった僕は23になり、会社員としてひと月以上も勤めていた。あの夜、僕はひどく心細くなり、自分が生きていかなければならない長い時間を想像し、漠然とした不安を感じていた。
おそらく「傷だらけの天使」のラストシーンの切なさが、僕を感傷的にしたのだろう。しかし、あの夜から数えると、33年と5ヶ月が過ぎた。23歳だった僕は、もうすぐ57歳になる。振り返れば、あっという間だったが、人は自分の年齢を数えることでしか、過ぎ去った時間を実感することができないのかもしれない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

◎305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>

- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
ちびちび、の愉悦!
「ぼやき」という名の愛
第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
すばらしい本です。
ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/08/22