●「百年の孤独」は今や幻の焼酎の名前か
ラテンアメリカ文学ブームが起こったのは、もうずいぶん以前のことになる。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が最初に翻訳され話題になった後のことだ。30年近く前になるだろうか。それ以前に紹介されていたラテンアメリカ系の作家としては、僕はボルヘスくらいしか知らなかった。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品は、文芸評論家の篠田一士さんが評価したのか、彼自身の翻訳で早くから集英社で発売になっていた。集英社版「世界の文学」にも最初から入っていたと思う。集英社版「世界の文学」には異色の作品が多く選ばれていて、僕は話題になる前の「グレート・ギャツビィ」をこの全集で読んだ。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスには「悪党列伝」と訳された評論集のような著作があり、その中で吉良上野介が取り上げられていた。アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれ、ヨーロッパで育った異端の作家が日本の「忠臣蔵」を知っていたことに僕はちょっと驚いた。
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が出たときは、あちこちの書評で取り上げられ絶賛された。あまりの評判に、僕は新潮社から出ていた単行本を買った。その後、「予告された殺人の記録」「族長の秋」も読んだ。「予告された殺人の記録」はフランチェスコ・ロージ監督によって、1987年に映画化されている。
「百年の孤独」は詩人であり歌人であり映画監督だった寺山修司さんに多大な影響を与えたのだろう。寺山さんは「百年の孤独」を下敷きにした「さらば箱舟」(1982年)という映画を作った。いかにも寺山さんが好みそうな物語だったと僕も思う。しかし、結局、「さらば箱舟」は見損なったままだ。
昨年だったか、評判になっていたので桜庭一樹さんの「赤朽葉家の伝説」を読んでみたが、読み始めてすぐに「こりゃあ、『百年の孤独』だぜ」とカミサンに向かって大きな声をあげていた。桜庭さん自身が愛読書に「百年の孤独」を挙げているから、おそらく桜庭版「百年の孤独」を書こうとしたのだろう。
「文学賞メッタ斬り」という対談集を読んで以来、豊崎由美さんという辛辣な読み手を僕は信用している(某大家を徹底的にコケにしているのが笑えます)のだが、その豊崎さんが岡野宏文さんという方と対談集「百年の誤読」を出している。豊崎さんは対談による書評本というスタイルを作った人だと思うが、この「百年の誤読」も面白い。
ところが、現在、検索サイトで「百年の孤独」と打ち込むと、ほとんど幻の焼酎がヒットする。酒飲みの僕としては焼酎「百年の孤独」は呑みたいが、四合瓶で9800円は高すぎる。検索のトップには、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」が出てほしい。ちなみにヤフー検索では、トップに「『百年の孤独』ネット販売。焼酎と地酒の専門店…」と出た。
●映画好きのモリーナは映画の話を語り続ける
「百年の孤独」が評判になり、ラテンアメリカ文学にスポットライトが当たった結果、集英社から「ラテンアメリカの文学」全18巻の刊行が始まったのが1980年代前半のことだった。そのシリーズで僕はガルシア・マルケスの「族長の秋」を買った。一巻目がボルヘスの「伝奇集」であり、「族長の秋」を含めて半分以上が本邦初訳であることを売り物にしていた。
このシリーズの本邦初訳の作品の中にプイグの「蜘蛛女のキス」があった。何というタイトルだと僕は思ったが、数年後、「蜘蛛女のキス」(1985年)はハリウッド映画として僕の前に登場した。主演は、ひいきのウィリアム・ハートである。共演者はこの作品でメジャーになったラウル・ジュリアだった。
暗い刑務所の監房にふたりの男がいる。ひとりは革命組織のメンバーであり、政治犯のバレンティン(ラウル・ジュリア)。もうひとりは未成年者へのワイセツ幇助罪で懲役8年を宣告されているホモ・セクシャルのモリーナ(ウィリアム・ハート)だ。冒頭から、ほとんどふたりの会話劇として映画は進行する。
映画好きのモリーナは、自分が見た映画の話をバレンティンに語り続ける。原作も開巻からずっとふたりの会話だけで構成されている。そこでモリーナが語っている映画は「キャット・ピープル(黒彪女)」(1942年)である。ハリウッドのホラー映画の古典として有名な作品だ。
小説と違って映画は、モリーナが語る映画を映像として見せることができる。そうでもしなければ、監房でふたりの男が話をしているだけの画面が延々と続くことになる。だから、映画の中で語られる映画の断片が挿入されるのだが、それは第二次世界大戦中のナチ占領下のパリでのシャンソン歌手(ソニア・ブラガ)とドイツ将校との恋物語である。
僕は、「蜘蛛女のキス」でラウル・ジュリアとソニア・ブラガを記憶したが、5年後、このふたりはクリント・イーストウッド監督主演作「ルーキー」(1990年)にタッグを組んで出演し、仇役としてイーストウッドを苦しめる。ソニア・ブラガに到っては、椅子に縛り付けたイーストウッドを強姦してしまう強烈な悪女役だった。
「蜘蛛女のキス」で印象的なのは、やはりホモ・セクシャルのモリーナだ。それを大男で額が後退したウィリアム・ハートが演じたことで、さらに印象的なキャラクターになった。ポスターなどで使われたウィリアム・ハートの頭にターバン(タオルだったかな)を巻いたような女装姿は、ある種の哀しみと憐れみと滑稽さを誘う。
その後、「蜘蛛女のキス」は舞台になり、ミュージカルになった。ミュージカル版では劇団四季の市村正親がモリーナを演じたことがあると思う。ネットで検索したら、宝塚歌劇団を退団した朝海ひかるがミュージカル「蜘蛛女のキス」に出演するという記者発表サイトがヒットした。昨年のことだという。知らなかったなあ。
日本の舞台版「蜘蛛女のキス」では、村井国夫がモリーナを演じたことがある。映画版のウィリアム・ハートのイメージの俳優を捜したのだろうか。確かに、村井国夫は頭髪の後退具合や顔の輪郭など、ウィリアム・ハートを連想させるところはある(「チョーヤの梅酒」のCMに妻の音無美紀子と娘と3人で出ている人ですね)。
ちなみに原作者のマヌエル・プイグは映画監督をめざし、1950年代にはローマの巨大な撮影所チネ・チッタで、ビットリオ・デ・シーカ、ルネ・クレマンなどの助監督をつとめていた。最初の小説は「リタ・ヘイワースの背信」という。映画が好きでたまらない作家なのだろう。映画好きのモリーナに自己を投影しているのかもしれない。
●モリーナが崇高にさえ見えてくるラストシーン
「蜘蛛女のキス」は、せつない映画である。同じ房になぜモリーナが収監されているのか、バレンティンは知らないが、モリーナは知っている。そして、観客にも知らされない。観客は、モリーナがバレンティンに映画を語り続け、彼の世話をしている姿を延々と見せられ、モリーナのバレンティンへの愛を確信する。
尋問を受け続け、長い監房生活でバレンティンの躯は弱っている。ある日、バレンティンはひどい下痢をして洩らしてしまう。彼は、ひどく衰弱しているのだ。本人にとっては、失禁でさえショックだろう。だが、彼は流れ出る糞便を止めることもできず、まみれてしまう。何という屈辱…。
肉体的なものはもちろん、精神的な絶望がバレンティンを襲う。人間の尊厳さえなくしてしまいそうになる。彼は泣く。自分の情けなさに…。もちろん、尋問者たちはそれが狙いだ。垂れ流しになった人間に、仲間たちや組織をかばい続ける気力はない。そこに追い込んだのだ。
だが、モリーナはかいがいしくバレンティンを介抱する。バレンティンが垂れ流した糞便を始末し、彼の躯を清め、彼の自尊心を取り戻させようとする。そのシーンで、モリーナのせつない愛が浮かび上がる。それは、どんな観客にでも伝わるだろう。それほどの想いなのだ。モリーナがホモ・セクシャルであることで、せつなさは倍加する。
観客たちがアッと驚くのは、映画が後半に入ってからだ。モリーナが刑務所の所長室に呼び出される。映画では南米の某ファシズム国家と設定されていたが、原作では明確にブエノスアイレス市刑務所の所長として登場する人物だ。彼はモリーナにこんなことを聞く。
──バレンティンから何か情報は得られたかね。
モリーナは自身の恩赦をエサに、バレンティンから情報を得るために権力者たちによって送り込まれたスパイだったのだ。革命組織の情報、仲間たちの情報、一方的に映画の話をしているようでいながら、モリーナはバレンティンが話す自分自身のことを引き出していたのである。
「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切り…だ」と、フランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルは言ったけれど、「蜘蛛女のキス」はその究極の形を描いている。モリーナは、元々、バレンティンから情報を得るために同房に入れられ、最初から彼を裏切っている存在である。
だが、同房で日々を過ごすうちに、モリーナはバレンティンを愛してしまう。ホモ・セクシャルのモリーナは、文字通り心の底から愛してしまうのだ。バレンティンもまたモリーナに心を許す。だが、男同士であることの垣根をバレンティンは超えられない。しかし、モリーナの出獄が決まり監房を出ていくとき、バレンティンはモリーナにキスをする。
恋しい男、愛する男…、それを裏切っているモリーナの心に寄り添いながら、最初からこの映画を見直すと、彼らの会話はまるで違った様相を見せる。複雑な感情が交錯し、モリーナの心の中の葛藤が伝わってくる。モリーナが映画を語ることによって、何かを伝えようとした気持ちがせつない。
僕は、この物語の展開を書いてしまったけれど、それによって「蜘蛛女のキス」が愉しめなくなるとは思わない。一度目は確かに意外な展開に驚いた。しかし、再見し、三度見て、僕はこの映画の本質的な魅力に気付いた。物語を知った後、バレンティンを裏切り続けているモリーナに寄り添うにように見てほしい。
モリーナは決意する。何かを選ぶ。モリーナがどう決意したのかは、ラストシーンまで見なければわからない。モリーナは愛する男を裏切るのか、愛する男のために自己犠牲を選ぶのか…、モリーナがスパイであることがわかってからのサスペンスはスクリーンに身を乗り出すほどだ。手に汗を握る。
これほどせつないラストシーンは、他にロミー・シュナイダーの歓喜と絶望に充ちて泣き崩れるアップで終わる「離愁」(1973年)くらいしか浮かばない。どちらの映画も「裏切りか、愛か」を迫られた人間が、愛を選んだ感動とせつなさが見終わった後、身の内からあふれ出るほどに膨れ上がる。身が震えるほどに、心が騒ぐ。
愛を選ぶことが死を選ぶこと…、だが、そこまでの究極の選択を迫られたが故に、弱く卑小な人間であっても、自らの中に強烈な鎮めようもない愛が存在することを自覚する。そうであれば、もう死ぬことなど何でもない。愛を選んだという確信が、彼を勇者にしたのかもしれない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
リタイアした会社の先輩たちの話を聞いていると、時間はありそうでないという。老後の楽しみにとっておいた本もなかなか読めないとか。辛いのは、近所の目。毎日、出かけていたのにどうしたの、という目で見られるらしい。僕の夢は晴耕雨読なのだが、なかなかそうもいかないらしい。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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- 映画がなければ生きていけない 1999‐2002
- 十河 進
- 水曜社 2006-12-23
- おすすめ平均
- ちびちび、の愉悦!
- 「ぼやき」という名の愛
- 第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
- すばらしい本です。
- ものすごい読み応え!!
by G-Tools , 2008/09/26